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肉体の速度に合わせる

ここ数年で得た智慧でいちばん役に立ったのが「人は結局、肉体を通して世界にアクセスした分だけしか、取り分を得られない」ということだ。脳内では様々な雑念混じりの思考と思考以前のモヤモヤが常に高速で処理されている。そういった脳内の怒濤の思考に翻弄されて疲弊することが不幸そのものなのだ。ひとは大量の思念に埋もれながら、その中から選択した肉体を動かす一つまみの指令によって世界に触れた箇所からのみ人生の果実を得る。行動に関係しない多くの思念は脳を疲弊させ、心を病ませるだけだ、ということだ。

ブログを書くという行為にしても、脳内に如何に素晴らしい言語体系が生じたとしても、実際にキーボードとモニターに対峙して文章をアウトプットして、それを整理・推敲するという作業を経由しないと、まったく何にもならない。如何に素晴らしく思考しても、アウトプットして生成された文章のクオリティがすべてである。

生きることによって得られる充実感はすべて肉体というインターフェースを経由しないと得られない。脳内神経の諸反応に留まっているだけでは、プラスの作用は一切生じない。

行動に移せる見込みのないことについて考えるのは無駄。無駄なだけではなく心の闇の原因そのものになる。だから常に肉体を経由して世界にアクセスすることについて、もっと多くの思考を費やすべきだし、行動に物理的に移せない、移そうと試みてずっと失敗し、今後も駄目であろうことに関して、それを思考することそれ自体が不幸そのものであると定義しても言い過ぎではない。

思考と比較して肉体の動きはおぞましいほど遅い。しかしその遅さに苛つけば苛つくだけ不幸になる、そう考えれば思考の速度を落としても、それを確実に肉体の動きに結びつけることを心がければ、心の闇は薄れていく。そういうことが半世紀生きてようやく判った。遅いけれども気づけてよかった。幸せな人は本能的に知っていることだけど、そうでない星の下に生まれたからには、時間をかけて気づくしかなかったのだ。

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