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10日間の価値

世界は平等でもなければ、公平でもない。
その砂時計はいつ終えるのか、知る由もない。

たらればを考えずにいられる人生だったなら、
後悔に苛まれ、血が滲むほどに唇を噛み締める夜も、
少しは減るだろうか。


この文章は公開するかわからないし、
するとなれば親友の承諾を得てのことになるから
いつになるかわからないけれど、
あなたがこれを読めているのなら、
そういうことなんだと思う。


また、この文章は
残すべきなのか、記すべきなのか、
とても悩んだけれど、
昔、祖母が亡くなった際に書いた記録を親友が覚えていてくれて、
それが言葉にならずとも、考えたり行動するきっかけになったのであれば、
今回のことも、一言一句絶やさずに、
可能な限り残しておきたいという
私個人の我侭により記された、
随筆である。


かなりセンシティブな内容なので、ご了承ください。



ーーーーーーーーーーーーーー


神在月

1秒間の重みはアスリートの戦場で痛感させられる
1分間の重みはパフォーマーの舞台で体感させられる
1日間の重みはビジネスマンの生活で実感させられる

では、10日間の重みは...
2022年の年末、私の心に、
大きく、深く、忘れることなどできないほどに刻まれた。



コロナ禍も都合のいい様に解釈されて、
変わらず奔走する医療機関と制限のないイベントを楽しむ市井の2022年、
年末。
いつもより煌びやかな街を横目に、
いつもより重い荷物を携えて、
私は親友の実家がある街の商店街を歩いていた。


親友のお父様が亡くなったのだ。


10年と少し前、学生ながらも共に起業し、
数多の苦楽、ハードシングスを共に経験してきた親友。
私の身近な方ならばそれが誰なのか、
思い浮かべるのは容易いだろう。

そんなわけだから、お父様とも交流がないわけがない。
なんなら起業当初の二ヶ月くらい、ご実家に住まわせてもらっていたし、
毎年のクリスマスパーティーはサンタさん役としてプレゼントを渡していた。
バーベキューだって、何度やったことか。
と、家族同然のように、大変お世話になっていた。

そんな親友の家族は友人の中でもとても仲睦まじいと評される家族で、
家族の誕生日はもちろん、
父の日や母の日、ご両親の結婚記念日なんかも
大切にして、家族みんな一緒に過ごしていた。

私から見て理想の家族と言っても過言ではなかったのは、
現に私自身がかなり影響を受けて、
家族イベントを行ってきた節からもわかるだろう。

そんな家族の大黒柱であるお父様が亡くなられたのだ。
ただ、亡くなるその寸前まで、
一縷の望みに賭けて奮迅し、声をかける家族の姿は
言葉にし難いながらも、愛というしかなかった。


ーーー


話は少し遡る。
毎年11月28日は学生時代から始まる仲間の記念日でもあり、
お互いの近況を会って話すことを恒例にしていた。
それが厳しいかもしれないと “ 電話 ” をもらったのは11月28日の1週間ほど前だった。

その前の状況も合わせて要約すると、
・父が11月初旬からICUに入っていてエクモをつけている
・これからセントラルVAエクモに切り替える(さらに強いエクモ)
・そうなると数週間後のピンポイントのタイミングでドナー様が現れて、移植するしか助かる道がない
・こういう状況なので今年は集まれない
という内容だった。

前々から状況も知っていたので、恒例行事ができないくらい問題なかった。
それよりも、現在の数%の可能性に祈ることしかできなくて、
いかなる手段や行動をしても、
可能性を僅かに上げることすらできない現状。

電話越しだが親友の涙を聞いたのは久しぶりだった。
また同時に、同じく無力な自分を痛感もしていた。

お父様の闘病生活が始まってから、
家族がどれだけ懸命に一丸となっていたかも知っている。
岡山や京都など、その専門の権威と言われるドクターを訪ねて、
何度も何度も足を運び、闘病生活のサポートをしていた。

お父様の患っている肺の難病は、特発性間質性肺炎、肺気腫、そこに再生が不可能な気胸といった肺の状態で、すでに末期を迎えている状況だった。
ここからは現状維持すらも難しく、肺移植しか手段が残されていない状況。

11月28日から1ヶ月と少し前の10月中旬には、お父様の状態はさらに悪化し、自宅での生活さえも限界がきていた。
その状況は、一定の体勢で寝ないと呼吸ができず、寝返りや睡眠中の咳などで呼吸器が外れ死亡するリスクが高まる、といったような状態で、毎晩23時から朝方まで、お父様の睡眠中はお母様と妹さんが交代交代で起きては睡眠時の安全管理するといった酸素リレー状態が続いていた。

もちろんお母様も妹さんも、当の本人であるお父様も、まとまった睡眠なんかとれやしない。この地獄のような状況が毎日続いていた。親友や弟さんも仕事をしつつ、兄弟で少しでも家族の負担を減らすためにかわりばんこで、家族全員の体力と気力がどこまで続くかわからない酸素リレーを繋げていった。

この状況を私もどう表現すればいいかわからないが、外から見れば家族の強い愛と感じていた。しかし、後に当の本人達から聞けば、精神的な部分では、まさに地獄絵図といった、想像を絶して、見るにも聞くにも絶えない状況だった。
そこから様々な方々のお力添えもあって、どうにか新たな入院先が決まった。


11月頭からの入院が始まった時、普段、スピリチュアルや神様などを信じない親友でさえも、もう神頼みくらいしかできることがなくて
11月の神在月(旧暦10月、全国では神無月)の全国の八百万の神が集まるという出雲大社にまで祈願しに行ったことも知っている。
それも一度ではなく、親友個人でも行き、家族でも弦を担ぎに行っていた。
東京であの最強と言われる小網神社にも何度行ったか数えきれない。
他にも著名な方々が通う気功療法、風水。

ありとあらゆる “できること” を物理的手段から縁起、祈願まで、血眼になって本気でやっていたんだと思う。
お母様や妹さんが切実に何度も書いていた絵馬はご実家にも掛けられていて、何度読んでも苦しくなった。

そして、奇跡としか言いようのない話だが、
ドナー様の肺が現れたと連絡が来たのは、私との電話の1時間後だったとのこと。
この時が人生で一番嬉しかった瞬間で、初めて嬉しさのあまりに涙したんだと、親友が話してくれた。(一方、移植はドナー様の不幸の上で叶ったものであると重々承知しております。ご冥福をお祈りいたします。)



11月28日
私は親友の実家の部屋にいた。
数ヶ月ぶりに会う親友、その家族。
少し痩せたかなと思わせるものの、
とても笑顔で晴れ晴れとした顔だった。

そう、手術は無事に成功して、
数値は今までで一番安定していたとのことだった。

かなり肌寒いが、春の散歩(これも恒例の行事)の様なコースをたどり、
病状とこれからの展望を話してくれた。

「今まで、明日を、今を生きること、
維持することにフォーカスを当てていたけれど、ようやく、前を向ける気がする」
そう話す親友は軽快な足取りだった。

親友の部屋(ご実家)に泊まったあとは、
お母様特製のポトフとフルーツヨーグルトをいただいて、
いつものスーパー銭湯へ向かう。
そして夜には懐かしいメンバーが集まって、一緒にラーメンを食べていた。
全員が状況を知っていたから、
晴れ晴れとした親友の姿に友人たちも安心もしていたと思う。


ECMOの装着から3週間弱。
奇跡的なタイミングでの移植手術。そして成功。
誰もが、このまま快方へ向かうと思っていた。




一匙

「肺が白くなってきています。よくない状態です」
手術から約1週間後、突然病院から告げられた。
安定していた数値が快方に向かって上昇するどころか徐々に下がり始めていたのだ。
こればっかりは、移植した臓器に問題があるわけでもなく、原因不明とのこと。

今回お父様は片肺移植で、もう片方の肺は別のレシピエントに移植されていた。そしてそのレシピエントは快方に向かっているとのことだった。

全ての手術や術後の快復に100%の成功がないなんてことは当たり前だ。
もちろんわかっている。
オペを行ってくれたドクター、病院が悪いわけでもない。
そんなことももちろんわかっている。

ただそれでも、それが納得できるわけもなく、虚無と悲嘆を繰り返していた。

そして、病院からの宣告の2日後、
「千に一つも助からない、土日も越えれるかどうか...あと1週間でしょう」
余命宣告がされた。

絶望のさなか、奇跡的な移植手術を経て、
助かったと思われた直後に再びの絶望だった。


親友の頼みで動画を一本作った。
家族の日常動画の繋ぎ合わせだが、
これを聞いてお父様が少しでも気力を戻せたらというものだった。
時間にして1時間近くにもなる動画は、他愛もない会話が続くものだが、本当に仲の良い家族の姿が映されていた。
それでも状況は変わらず、容体はゆっくりと、だが確実に悪化するばかり。

ひとつの案が現実的に親友の脳裏をかすめた。
本当は3年間ずっと頭にあって、苦悩し続けていたが、もう後がないということで家族に話した。

「俺の肺の一部を生体移植できないか。」

法律上、ドナー待ちをしなくても、唯一行うことが可能な親族優先提供による臓器移植手術。ただ、お父様と同じ血液型なのは1親等の中でも長男である親友だけだったから、この選択肢を持てるのも親友しかいなかった。 (しかし厳密には生体移植ではドナー肺の一部が2名分必要なため1名分の肺では、「親友は肺を大きく切除してもお父様は助からない」といった確率が非常に高い、という手段であった)

それを聞いたお母様は親友を強く抱きしめて
「絶対にダメ。私が子どもたちをどれだけ大切にしてきたと思ってるの。
パパを諦めよう。」

この決断は親友はもちろん、お母様にとっても「苦渋」という言葉をはるかに超えるような選択だっただろう。




12月上旬、日中に突然電話が鳴った。
本当に最後の手段である海外での臓器移植に動こうと決断した、親友からの電話だった。
この状況を乗り越える道は、もう一度臓器移植を行うことしかなかった。
しかし、日本での再移植手術は行えない。臓器提供の順番を待っていられる猶予なんてないからだ。

そもそも、日本での臓器不足問題は今に始まったことではない。
例えばアメリカでは年間3万5000件の臓器移植が行われている。しかし、日本では1997年から2021年の24年間の間で6616件しか行われていない。これは臓器移植に関するガイドラインの厳しさと、国内のドナー不足が大きく影響しているものと考えられている。(日本臓器移植ネットワークより引用・抜粋)
(また臓器移植は臓器移植ビジネスという国際的な問題にもなっていて、国内でも臓器売買の悪いニュースを目にすることは珍しくないと思う)

そういう背景もあり、前回、肺移植ができたことすら奇跡的なことだったのに、それを再度願うことなどもう不可能だった。
そうなると、残る手段は海外での肺移植しか道はなかった。

それでも、7つの課題が浮かび上がった。
・海外の病院から受け入れ許可を得ること
・現在入院中の病院から海外の病院まで、エクモをつけた状態での輸送手段の確保(史上初の手段であり、国内にエクモを付けて海外輸送してくれる会社はない)
・海外移植を行った際の国内でのフォローアップ診療の手配
・中東にて職務に当たっている日本人執刀医のドクターに帰国してもらうこと
・海外での臓器移植にかかる費用の確保(億単位のお金)
・あらゆる死亡リスクに応じるための関係各所との契約書の作成。及び、その海外を含む専門領域をカバーできる弁護士の探索と依頼
・コロナ禍のため、渡航時における隔離期間免除の許諾

これを初めて聞いた時には、どれも無理難題としか思えなかった。
これらの全ての課題をスムーズに解決できる一般人なんて、未来永劫いないとすら思える。

ひとつひとつ、解説していく。
・海外の病院から受け入れ許可を得ること
当然だが、移植手術を行う病院からその手術を行う承認を得なければいけない。
ただ、こんな緊急手術かつ、死亡リスクの高い患者の受け入れを海外の病院で承認を得るなんて、どうやってやるのか...

・現在入院中の病院から海外の病院まで、エクモをつけた状態での輸送手段の確保
現状エクモをつけて生命維持ができているので、輸送するからといって外すわけにいかない。
そのハイリスクなクライアントを受けてくれるところがあるのか...
そして、早い段階で一番有力だった世界規模の会社からは二度断られていた。(弟さんが海外サイトであらゆる幹部を調べては、親友の周りの方々でアプローチをしたが、前代未聞なこともあってまともに検討さえもされなかった)

・海外移植を行った際の国内でのアフターケアの手配
海外での臓器移植を行った場合、WHOの基準においてその臓器の倫理性が証明できないため、フォローアップを原則しないというような法律がある。
それだと、せっかく臓器移植ができたとしても、その後どうしろと...

・中東にて職務に当たっている執刀医のドクターに帰国してもらうこと
海外での臓器移植にあたって、3年ほどセカンドオピニオンとしてついていてくれたドクターに執刀医を依頼していた。しかし、そのドクターが中東にて世界的イベントに職務としてあたっていたため、政府からのオフィシャルな通達と国家間の交渉が行われない限り帰国できないとのことだった...

・海外での臓器移植にかかる費用の確保(億単位)
海外での臓器移植にかかる費用は予想はしていたが、億単位。
この金額を短期間でどうしろというのだろう...

・あらゆる死亡リスクに応じるための関係各所との契約書の作成。及び、その海外を含む専門領域をカバーできる弁護士の探索と依頼
死亡リスクの高い患者を受け入れてくれる輸送会社も皆無だった。それでもリスクを承知の上であればという条件のために、病院、輸送会社それぞれと契約を交わす必要があった。もちろん、そんな契約書を自分たちでは作れるわけではないので、海外との、それも医療領域に知見のある弁護士を探して、契約書の作成を依頼する必要があった。

・コロナも収まらぬ中だったので、渡航時の隔離期間の免除
国内移動は緩和されてきたとはいえ、まだ海外渡航には隔離期間に必要な地域も多かった。もちろん、余命1週間と言われてる中、隔離期間を悠長に待っていられる余裕なんて1日もなかったので、どうにか隔離期間の免除をしてもらう必要があった。

と、本当にどの課題も解決の入り口すら見つからないようなものだった。
それでも、毎日弟さんの運転で家族全員で病院に行ってお父様を励まし、小網神社に行って手を合わせ、僅かな可能性を模索し続けた。

そんな日々の中で、家族の気持ちが暗くなってきてしまった時には、その家族を励ます親戚の方々(私も何度かお会いしているお父様のご兄弟とその家族)の支えもあり...

家族の尽力と、何十人もの方々の強力なお力添えもあり
決断から10日後にはほぼ全ての課題は、一部口頭ベースではあるが、解決していた。

移植手術を行う病院の承認にあたっては、
最終的に3つのルートからアプローチを行い、正式承認の一歩手前。
海外在住の10年来の親友に仲介から翻訳など、本当に助けられたし、
私が動き始めて、一番初めに連絡したのもこの親友だった。
久しく会えていないけれど、改めて御礼を伝えたい。


輸送手段については、何社も断られたが、
親友のひたむきな思いに答えてくれたドクターと
過去にも苦しい時にもピンポイントで助けてくれる後輩が紹介してくれた長崎県の某先生とご紹介いただいた外資系企業によって、確保の道筋が立ったところだった。
また、外資企業への依頼にあたってビジネス英語で翻訳等してくれた昔の仲間たちにも助けられた。


フォローアップ診療の承認は各省庁と病院との最終の取り交わしで得られるところだった。
執刀医のドクターは政府及び大使館との交渉は完了し、最後に病院からの手術確定の連絡で帰国の予定だった。
政府関係との交渉、手続きにおいて、各省庁に依頼し、進めてくれた友人たちには本当に頭が上がらない。本当にありがとうございます。

臓器移植にかかる費用は、親友の弟さんを中心に、急遽ながら寄付を募るサイトを作成し、12月12日に公開。本当に多くの方の呼びかけと寄付もあって、1週間とは思えない金額が集まったのと、足りない分は、いざという時は助けになってくれる方々のおかげで一定の目処は立っていた。
寄付や海外送金にあたって、私がいろんな金融機関を回って口座開設のお願いをして回ったが、正直結構断られた。任意団体の口座開設がこんなにも大変なことになっているとは、想定外で苦戦した。(10年ほど前は割とシンプルに作れていた)

ただそれでも一行だけ、ものすごく急ピッチで進めてくれて開設まで取り付けてくれた銀行があった。担当の方も事情を配慮してくれて、とても感謝しています。

弁護士や契約書の作成も友人から紹介してもらった弁護士に深夜まで対応していただき、先方に確認してもらえるまでの契約書が出来上がっていた。
隔離期間も政府からの申請をしてもらえることで、事前に要件が満たせば免除して空港から病院までスムーズに輸送できる予定だった。

本当に、本当によくぞここまでこじ開けたと、
諦めなければ、熱意をしっかりと伝えれば、
なんとかなると思わされるような形になっていた。

突破方法のわからないこの大きな壁にに協力してくださった方々。
改めて、心から感謝申し上げます。

またこの期間、繁忙期であり代表不在のネクスター社(親友が代表を勤める会社、私も共同創業者)は過去最大案件の最中だった。そして寄付サイトの発信協力もこのネクスターの有志によって実現していった。
インフルエンサーの中心になって奮迅した伊藤実祐、石橋副社長、宮岡、二瓶、加藤といった現在の頼もしい幹部メンバーが代表不在の会社を率いていた。
この時に協力してくれた細田悠巨の人生で関わった友人知人の皆様、インフルエンサーの方々、そのフォロワーの皆様、ネクスターホールディングスの皆、本当に有難うございました。


この道を模索する中で親友が話した言葉で、ひとつ、印象に残った言葉がある。

【 無理、するよ 】
海外移植に動き始めて数日、睡眠不足で体調が芳しくない親友を気遣って
「無理しないでね」という言葉を周囲からたくさんもらっていたと思う。
ずっと動き続けていたら、体力も気力も人は限界がくる。
それでも、みんなからの思いやりある言葉や支援のおかげで、親友とその家族はもがきながらも前に進めていたのだと思う。

ただある日、動き始めて1週間くらいたったころだったかな。
親友が「もうだめなのかな。」と弱音を吐いた時があった。
14年来の親友である私が伝えた言葉は
「おまえが倒れたら、全て止まるんだよ。倒れないために少し休め。無理するなとは言わない。無理して助かるなら、無理しよう。」
多分、こんな言葉だった。

「ほんっとよくわかってくれているよな。そうだった。
俺が体調崩したって数日すれば戻るけど親父は死ぬ。
絶対死なせない。 気力、取り戻したよ。」

こんなやりとりだったと思う。
相手を気遣うとは難しいし、
少し酷なことを言ったかもと思ったが、
真意が伝わったのが、昔と変わらない感覚だった。


もうひとつ、親友が印象に残った言葉があるとのこと。

【 もし無理して、万が一おまえが倒れても、俺がいる 】
最後の最後まで苦戦していたのが輸送手段の確保だった。
結果、逆転の発想で突破口となったのが確保できたルートだったのだが、
その糸口を探している際に私が伝えた言葉だった。

起業してから無理難題を何度も突破してきて、
それでも時にはズタズタになって、ダメになった時は何度もあった。
そんな時、片方がダメでも、もう片方がどうにかしてきた。
そんな自分たちだからこその言葉だった。
はちゃめちゃな経験がここでも活きて、本当に良かった。

ある日の深夜のやりとり

それでも、現実は残酷だった。
毎日ひっきりなしに動くLINEやメッセンジャーのグループが静かになった日があった。
休日だからなのか、全ての課題に目処が立って、待ちのステータスだったからなのか。
そんなわけで静かなこの1日を特に深く受け止めていなかったが、
グループトークに投げられた
「本日の進捗状況、いかがでしょうか」
というメッセージの返信が届くことはなかった。


翌日、親友から少し長めのメッセージが届いた。
「 親父が旅立ちました。」
その言葉から始まるメッセージは、
私を座り込ませるには十分だった。
こんな状況でも、感謝の意を伝えてくるご家族にも心が痛んだ。


数日後、葬儀の打ち合わせも兼ねて親友に会いに行った。
そして、安置室にも案内をしてもらった。
お父様は大きな棺の中にいて、綺麗にお化粧も施されていたせいか、
お顔を拝見した時には正直実感が湧かなかった。
線香をあげて、ぽつりぽつりと、親友が最後の時の様子を語ってくれた。

『入院中、病院には流石に家族全員が寝れるスペースがなくてさ、
家族には実家に帰ってもらっていたんだ。
小さなソファーみたいなのがあって、そこで俺だけ寝て様子見てたんだ。
亡くなった日、急激に数値が下がってきて、危ないですと先生に言われたから、家族を急いで呼んだんだ。

幸い、家族はすぐ来てくれてみんなで親父のことを呼んでいたよ。
「頑張って!」「もうちょっとなんだから!」って、親父が大好きだったサザンの音楽を流しながら、声をかけていたんだ。

それでも数値は下がり続けて、何度か心臓が止まって、動き出してを繰り返したんだ。
最悪なカウントダウンをされているようで、地獄だった。
止まるたびに「頑張るんだよ!」「またみんなで沖縄行こうよ!」って声をかけて、動き出してを、繰り返したんだ。
6~7回かな、止まって、動いてを繰り返して、とうとう、動き出さなくなったんだ。

それでもみんな
「頑張ろう!!」「もう少しだよ!!」って叫ぶんだけど、
動き出さない様子を見て、徐々に言葉が変わっていくんだ。
「ありがとう」「大好きだよ」って。

本当に、本当に残酷だった。地獄だった。
その場で動けない家族を看護師さんらのサポートで病室を出る時、妹が最後に言った言葉が
「来世でもママと一緒になるんだよ」って。』
親友は涙を流しながら、嗚咽を漏らしながら語ってくれた。

『ほとんどの問題がクリアできていたのに… 
待機のことも考えると、あと10日。
あと10日維持してくれていたら、可能性があったのに...』



砂時計

斎場のスケジュールの都合で葬儀の日程は通常より少し日が空いた。
通夜は一般公開、告別式は親族のみとなった。
それならばと、通夜と同じタイミングでコピーライターであった
お父様の作品展を開催することとなった。

話は冒頭に戻り、煌びやかな商店街、斎場に向かう道中。
私の荷物は礼服といろんな機材が入っていたため、
いつもよりだいぶ重かった。

斎場に着くと、すでに設営は始まっていた。
お父様が20年間経営されていた「ブランドゥコミュニケーション」の方々が総出で、最後の餞を制作していた。
さすがの本職というか、広告制作会社ならではのクオリティの高さは圧巻だった。
無機質で冷たかった床は、一面ブランドゥカラーである青色の絨毯が敷かれ、お父様の今までの作品の数々が、所狭しと飾られていた。


壁には立派なボードとコピーライティング。その下には数々のメッセージが立てかけられている。
中央のテーブルにはいろんな写真が乗せられて、
一番奥のテーブルには “ 年賀状 ”
毎年、親友の家から届く “ 年賀状 ” を私の母はすごく楽しみにしていた。


お父様 平泉にて
親友との岩手旅行
親子で同じことやってるな、なんて思ったよ。


通夜がはじまった。
現代において、どれくらいの数の方がいらっしゃったら、
多い方なのかとか全くわからないが、
それでもとても多くの方にお越しいただいたかと思う。

私は当日、親友たっての願いで、記録映像を撮っていた。
仕事関係者の皆様から、昔の友人。
ご近所の皆様、今回の件で本当にお世話になった方々まで。
お父様の棺のそばで涙ながらに声をかける方、跪いて泣いてくれる人、ご家族と抱きしめ合う方、同行の方と、思い出話をする方々。
私も私自身が泣きながら撮るなんてこと、本当に最初で最後だろうと思った。
最後にお焼香をさせていただき、通夜および展示会はお開きとなった。


翌日の告別式も親友からの依頼で撮影した。
告別式は親族のみで執り行われた。
昨日とは打って変わって、人数も絞られ、静かに。
斎場に着くと、妹さんが車椅子に乗っていた。
昨日は友人たちと共に涙することもあれば、ときおり笑顔を見せることもあったが、今日に至っては生気がないかのようだった。

無理もないことは当然だが、
昨日の通夜と同じ会場で、告別式は始まった。
読経が始まって早々、妹さんと付き添いの弟さんも退席をした。
精神的な物だろうが、こればかりはどうしようもなく。
計らいで御焼香だけはできたが、その直後に病院へ運ばれていった。
打ち合わせることなどなく、弟さんは病院まで付き添う。
お母様と長男の親友は斎場に残り、役割を遂げる。
それぞれがどうあるべきかと、わかり合っている家族の姿だなとこんなときですら思ってしまった。
告別式は止まることなく進み、全員が御焼香を終えたのち、
斎場のからのささやかな気持ちとのことで、お父様が生前好きだった曲の生演奏が行われた。
静けさに広がるバイオリンとフルートの音色は、
涙や嗚咽を溢れさせた。

棺にいろんなものを詰めていく。
お花。
ペン。
名刺。
猫のぬいぐるみ。
昨日の参列者に書いてもらった色紙。
最後に、手紙。

この場に居れない弟さん、妹さんのためにも
ちゃんと全容をあとで見てもらえるように、ずっと泣きながら、とめどなくとりづつけていた。

出棺まで見送り、これで撮影は終了。
昨日の展示会の撤収に移った。
撤収も会社の方々が来てくれたので、
滞りなく完了して、2日間を終えた。


最後の火葬の時間を調整したものの、弟さんのサポートもあって
妹さんもどうにか回復してギリギリで火葬場に到着し、
ちゃんと全員で最後を見送ることができたとのことだ。


お父上の家系には代々の墓といったようなものがなく、
どこにつくろうかという話になった時、弟さんが
「多分、母さんと一緒ならどこでも良いと思うんだよね。
だから母さんが将来入るお墓の場所にしようよ」
という話をしたそうだ。

どこにお墓があるとかじゃなく、
死んだ後も、誰と一緒にいられるか。
素敵だなと思ったエピソードだ。

私も斎場に残ったいろんな備品やパネルを親友の家に運び、
寂しげな猫と少しだけ話して帰った。



6年の闘病生活。酸素をボンベとともにする生活は4年。
8度の入院。手術も3回もした。
それでも去年のクリスマスパーティは毎年恒例で楽しく過ごせていたんだ。私もお父様とたくさん話をした。
妹さんの誕生日もみんなでお祝いしていたんだ。
親友の誕生日にラジオ風のメッセージ動画をプレゼントした際には、愛のあるメッセージをもらって、未来をとても楽しみにしていた。

Haruomi Hosoda|細田悠巨 on Instagram: "※この動画に出てくれた46人の関係者の皆様、本当にほんっとに有難うございました。 _________________ 約5時間におよぶ、サプライズラジオで全員のをpicできないのが残念だけど… 直接会った人にはお見せします…笑 こーへい @koheiishibashi 、せいや @seiya_nexter 、はるなちゃん、ふか、ともちゃん、かなちゃん、あゆむ @a.suzu_0131 、タイガ @taiga_tamura 、ひろきにいさん、ひろひろ、りおな、壇 @yusaku2927 、なおりねえ @naori_harada 、西崎弟、西崎兄、のぞみ、りゅートリックス @ryutricks 、まゆかちゃん @kurodamayukaxx 、藍川、みね、かっちゃん、けんたろ、にいさん、まい @maipipii 、じゅんぺーくん @t.junpei1224 、はたあり @arii_m36 しょーちゃんさん、たっちゃん、かおるちゃん、おにし、ゆか、ゆいり、はるき、みさき、とだっち 、こばっち @r_kobayash1 、ももたろう @momotarabitch 、はるか、実祐 @miyu.61 、めぐ、のの、しじみ、母さん、親父、翔也 @k4408 、藍 @nexter_tokyo 関係者を中心とした、高校の仲間、C.S.の仲間、家族、様々な方からのメッセージ、本当にほんっとに有難うございました。(※公にオープンしていないアカウント以外はタグ付けをあえてしてません) 途中、笑ったり泣いたりで、色んなことを思い出してました。マジでまっじで有難う。" 23 Likes, 0 Comments - Haruomi Hosoda|細田悠巨 (@haruom1) on Inst www.instagram.com



この終末の迎え方は誰が、いつ、予想できただろう。
予想できたとして、何をしたら未来は変わっていたのか。

答えとしては当然だが誰もわからない。
なんなら医師の最後の余命宣告から1週間以上も生き延びた。

それでも、間に合ってほしい時間には届かなかった。
寿命を砂時計に例えると、それは見えない砂時計。
いつ終えるのか、誰も知ることもない。

それはもしかしたら明日かもしれないし、100年後かもしれない。
理由は老衰かもしれないし、事故かもしれない。

不安定で不確実な脆い砂時計は、一切目にすることなく、
ただ砂を落とし続けてる。

限りある人生なんだから、精一杯生きよう
なんて言うつもりはない。

ただ、その砂時計は間違いなく存在するし、
いつかくる終末も必ずある。

私が大切に想う人たちは
毎日精一杯、身を削って生きろ!ではないが、
後悔はしない生き方をしてほしいなとはおもう。
私自身も、そう生きる。


P.S.

「愛」とはなんだろうか。
「愛の正体」... 歴史では “ 自己犠牲 ” と表現していることがある。



「愛は見える」
この言葉をブランドメッセージにしている企業がある。
なんなら私が好きな企業だし、同じ業界でもある。
「愛」という非物質のものだが、
「愛」という名前をつけた人は、
親友の家族のような人たちの姿、行動を見て、
「愛」と定義したんじゃないかな。
そう、思わせてくれるほど、
辛い時間でもあったけれど、
他に喩え用がなく、刹那の紛れもない、
「愛」でした。

最後まで読んでいただき、有難うございました。


P.S. 2

これを書き切ったのは2月5日。
お父様の四十九日の日だった。
不幸は続く、と言ってしまうとよくあることのようで本当に嫌なのだが、
お父様の四十九日から数日後、今度は親友のお祖母様も亡くなられた。
私も何度もお話しさせていただいたこともあり、葬儀にも参列させていただいた。
どうか、もうこれ以上、親友の家族を苦しめることはやめてほしいと、切に願うことしかできなかった。

このような背景もあり、公開が春となったが冒頭に書いた通り、
どこかに公開したくて書いた、というよりも衝動に近く、
書いた後のことなんか考えずに、ただあの日々のことを、
忘れたくなくて、書き記した。
忌引き明けのはずが、また深く思い出させてしまったかも知れないと思いながらも、
親友から感謝の言葉をもらえて、安心した気持ちもあった。

この随筆がどこまで行くのか、誰が読んでくれるのか、
想像もしていないけれど、
最後まで読んでくれた人は、きっと大切な人がいる人なんだと思う。

そしたらその人に教えてあげて欲しい。
今年の桜は平年よりも、10日ほど早かったみたいだよって。

古賀翔也




さいごに

(追伸が長く続いてしまったが、お父様の作品で伝えたいコピーがあったので記載します)

最後の家族でのドライブ

昨年も、仕事で、プライベートで
たくさんの方々とさまざまな出来事を共有できました。

初めての気づきや経験、感動。あれもこれも。
家族や友人、仕事仲間や新しく出会った人たちとの
かけがえのない時をともに過ごせたからなんだなぁ、と。

心から感謝申し上げます。

これからの未来、どんな時間が待ってるのだろう。

同じ時間を生きていることへ、ありがとう。

コピーライター
細田嘉昭

「細田家2022年版年賀状より」


妹さんの大学卒業を祝って


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