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「『映画批評』を批評」自分なりの楽しさ、有意義さを得るために

「他人の批評なんて、気にすることはない」

某映画メディアではレビューも書いている自分としては、様々に考えさせられる。

あまりにヒドイ悪評と、実際に作品を見て自分が抱いた所感に大きなギャップが生じたときにはそんなものかなという気もする。だが、曲がりなりにもある意味批評をする立場に自分があるわけだから、批評を「そんなものか」と認識することは自分の仕事自体が「意味のないもの」と認めてしまうことになる。

じゃあどう書けばいいのか?というとこれがまた悩ましいところなんだな。というか正解なんてないわけだから。とこれで収めてしまうと結局何のためにこの問題を提起したのかが分からなくなる。だから批評をするというのであれば、この問題に常に向き合っていかなければならないのだろう。

自分の意見はとりあえず書いて、発表はしたけど必ずしもそれが合っているとは限らない。いつか自分の思いも変わるかもしれない、そんなことを考える。そして書いたときから思いが変わってしまったときには、どう落とし前をつけるのか、そんなことまで考えておく。

批評をするというのであれば、そうしていく責任が本来は付きまとうのだろう。言いっぱなしてしまうからこそ、今何かに対して批評をするということ自体への価値が下がっているんじゃないだろうか。

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難しい話に仕向けてしまう癖が、どうも僕にはある。まあ実際この「責任を持つ」ということをどこまで自分ができているのかといえば、まだまだだろう。ただ、時々はいろんなことを考えてますよ、本当に。

「ああ、あの時こんなことを言ってしまった。知ったかぶりやがってこのアホが…」なんてね(笑)


そんな話は置いておいて、恐らく「責任なんて微塵も感じてないだろう」という批評を、今回は敢えて批評してみたい。

このレビューを見た人は、果たしてどのくらいいるのだろうか?恐らくこんな文章が随分と前から何のお咎めもなくネット上に残っているのだから、それほど人の目も引かなかったのだろう。

ただ僕は、この批評文とおっしゃっているものを読んでいるとまさに「超」が付きそうな疑問ばかりが湧いてきたので、そんなポイントを挙げてみたい。ポイントは大きく3点。

1.演出に関する批評

「ケンカしか能のない不良少年。少年院でボクシングを知った」という役柄を演じるリュ・スンボム。ボクシングのシーンで「ボクシングをやっているはずが、気を抜くとすぐにムエタイやクンフーの動きになってしまっている」とあるが、そもそも素行が悪く、まともにボクシングをやってこなかった少年が、まともなフォームでプレーできるのか?

役柄を考えるとリュがちゃんとしたフォームでプレーできない少年を演じたことは理にかなった演技と見える。

だいたい「ムエタイやクンフーの動き」って何だ?あなたはそういった格闘技に触れたことがあるのか?実はこういったことは簡単に言ってはならない。批評が仕事というのであれば「確かな裏付け」が必要、つまり「どういった動きが『ムエタイやクンフーの動き』」なのか、ビデオのプレーバックを指し示しながら説明できるくらいでないと、実はマズい。


2.ラストシーンに関する批評

「どうにも解せないのは、精一杯戦った二人の男が、試合終了後に互いをねぎらう様子がほとんどない点。お互い、それぞれの知人となきながら抱き合ってはいるが、肝心の対戦相手側には何もしない」

物語では二人の男がそれぞれの人生を賭けて戦うというストーリー。リングに上がるまでは様々な道のりを経て、ボクシングをプレーするということ以外の思いも合わせて二人がリングに上がり、そして試合後にそれぞれのカタルシスを見せていくという物語だ。

二人の人生をどう重ねていくか、それは見る人の心の動きのままに任せればいいわけで、なぜ「そうしなければならない、そうする必要がある」と言わんばかりの批評文にしてしまうのか。

だいたいこの二人、リングに上がるまでは対面など皆無で会ったこともないという設定なのに、試合が終わったら相手をすこぶるねぎらい合えると思えるか?オリンピックみたいに「スポーツマンシップ」とかいった綺麗ごとはここにはない、少なくとも僕にはそう思える。


3.「韓国人」のマナーに関する言及

「唯一この監督をほめてあげたい点、『アラハン』と比べて進歩した点を私は見つけた。それは、弟のリュ・スンボムが、今回はものを食べるときに、口をちゃんと閉じていたことだ。

前作の食事シーンのマナーの悪さについて指摘した私の文章を、彼らが読んだはずは無いが、さては似たような苦情が相当いったのか。『韓国では口をあけて食べるのがマナーだ』などという誤解が、これ以上世界に広がらないためにも、こうした改善は大事なことであろう」

役者なら「口を開けて食べるか」「口を閉じて食べるか」なんてことだって、演技の一つだろう。そんな動作ですら「この人物がどんな性格、境遇なのか」を表現できる。もし本人の地が出て、そのシーン自体に違和感が出たとしたら、それこそが問題だと思う。

だいたいこういった話で国名を出すべきではない。この表現は差別的にも取られる恐れがある。そもそも日本人でも口を開けたままメシを食うブサイクな人間だって、今まで何人も見てきている。

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正直ツッコミどころ満載の批評だったと思っている。こうしたことを整理しながら、この批評文がどういったものなのかと改めて考えると「この人は、『こうでなければならない』という自分の思いを、映画というものに押し付けようとしているのではないか」ということが見えてくる。

どんな立場でこの映画を見に行ったのかで印象も変わるかもしれないが、さすがにこの文章はないだろうというのが僕としての思い。正直僕はこの映画がお気に入りなので片寄せしてしまうという思いは否めないのだが、そんな思いを置いておいて客観的に見ても、この見方にはかなりの疑問を感じる。

で、こういった批評、こういった思いの持ち方は、自分としては決してやってはならぬと自覚する。ああ、ありがとう前田有一さん、あなたを反面教師として自分が言ってはならぬ方向というのを一つ認識したような気がするのだ。なんとありがたいことだろう、なんてね…

教訓は一つだ。「他人は違う見方をしている可能性だってある。それを踏まえた批評をすべきだ」



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