明治維新の正体 徳川慶喜の魁、西郷隆盛のテロ(鈴木荘一・著)

<< 著者 鈴木荘一 >> 日本の作家。幕末史を見直す会代表。東京大学経済学部卒。日本興銀行勤務など。

<< 本書の概要 >> 勝てば官軍、故に歴史は官軍に塗り替えられるとの考えの著者によって書かれた本。つまり学校の教科書から得られる知識とは異なる幕末や維新期のイメージです。

<<本書からの抜粋>>

:徳川慶喜の大政奉還は議会制民主主義を導入するため。水戸藩第九代藩主徳川斉昭・主席老中阿部正弘と思想を共有した徳川慶喜がイギリス型議会制度を導入することを目的に大政奉還に踏み切った。

:水戸学の”万民平等の思想”は第2代水戸藩藩主の徳川光圀から徳川慶喜に至るまで水戸藩で受け継がれた思想。尊王攘夷論(君主を尊び外敵を斥けようとする思想)は水戸藩から発生。

:ペリー艦隊は木造船且つ外輪船で当時最新鋭の鉄製スクリュー船となっていた。浦賀に来たのは”帆船と木造外輪船の艦隊”。当時の世界の海軍は英国が筆頭でオランダは5位アメリカは8位。ペリー艦隊は古い船舶技術であるが故に太平洋を横断できずに大西洋・インド洋・東シナ海を経由して日本に来た。当時長崎奉行の水野忠徳はオランダにスクリュー式の軍艦二隻(咸臨丸と朝暘)を発注している。

:18世紀終わりにロシアは日本へ開国を要求するが日本は受けず。ロシアは日本との和親通商を諦め19世紀初めに地中海進出の南下政策を推し進めるが常にイギリスの東進政策と衝突する。

:イギリスが清国へ輸出したアヘンは清国人の健康を害したが、イギリスが長州藩へ密輸出した大量の最新強力小銃は日本人の生命を害するもの。

:徳川慶喜は幕府軍2万3千人と大阪城に籠城して薩長軍の補給路を断てば戦いに勝てたと。もともと長州藩毛利家は補給船が不得意。戦国の世に毛利家が豊臣家・徳川家に後塵を拝したのは補給戦が不得意だったから。毛利水軍は大阪湾木津川口で小田水軍に敗れ大阪石山本願寺への兵糧毎搬入に失敗した。長州は地味豊かで農業に恵まれて三方は豊穣の海に面して豊富な魚介類が得られたので”補給”という概念が長州藩に生じなかったのが原因。長州人脈が後々日本陸軍を”長の陸軍”として牛耳ったが補給軽視が命取りとなる。むやみに戦線を拡大して制空権・制海権の圏外へ兵員を送り伸びきった補給線を分断されて日本陸軍が崩壊した。鳥羽伏見の戦いをはじめとする短期決戦の成功体験が仇となった。

:坂本龍馬は、薩摩藩や長州藩や土佐藩を合力させて幕府と戦わせ南北戦争で使用された最新鋭小銃を密輸入して売り込み日本人同士を殺し合わせて高利潤を貪ろうとした。

:西郷隆盛は幕末のポピュリストたちの希望の星であり大親分。無血開城した江戸城から接収した大量の銃砲類や幕府軍艦を使用し東北諸藩を討滅し戦利品を西軍へ食禄として与えた。奥羽越戊辰戦争は東北軍を完膚なきまでに叩きのめし東国を日本近代化の跳躍台として搾取と隷属の対象とした。名分無き暴力・社会現象である”いじめ”のはじまりである。

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