言い表せない彩り

 ゴールデンウィークが始まり、毎日近場とは言えどこかしらに出かけていたが、さすがに疲れたのか昨日はずっと家の中に引き籠もっていた。私は惰性的な休日も結構好きだし、割と定期的に過ごすようにしている。ホームベースは布団。スマホをお供に無料コンテンツを見まくって1日を終えるというまさに生産性のない休日だ。20代の頃は日が暮れ始めると人生を浪費しているような焦燥感が生まれたりもしたが、限られた時間をたっぷり浪費使用するなんて贅沢使いの何ものでもない。しかも1日外で過ごしたからと言って”くりえいてぃぶな1日”かどうかも疑問である。

 昔は何者かになる必要があると思っていた。そのためには生産的な日々を過ごす必要があると思っていた。それを強く感じたのは私が挫折をした20代に入りたての頃だ。留学先でキャパオーバーになり、すべてを投げ出してしまったのだ。私は一生その国で暮らしていく位の心積りで出国したのにも関わらず2年半程でそこの暮らしに終止符を打った。その後、数年「結局私は何者にもなれなかった」と自虐する暗黒期が続いた。挫折してしまった自分が許せなかったからこそ、惰性的な1日を送ってしまった時は罪悪感に苛まれた。

 多分、私は今でも「何者」でもない。しかし、私は今の私を割と好いているし、今の生活も結構気に入っている。今は何かになりたいとも思わないし、ぶっちゃけ興味もない。単に私に根性がなかっただけで、口当たりの良い言葉で自分を納得させただけかもしれない。以前の私は何者かという「生産物」を人に見せたかっただけなのだと思う。何者になれないとしてもクリエイティブ風な1日を人に話して、何者かになれそうな私を作り出していただけなのだと思う。

 そもそも人生は容易く言語化できるほど単調ではない筈だ。心は一言一句感じ取っているし、それが表面に浮上してこないだけかもしれない。目に見えるもの、言葉にできるもの、それだけで人生が形どられている筈がない。「うまく言えないけど…」、「うまく表現できないけど…」、その中に彩りが詰まっているのではないか。