何かを褒めるとき別の何かを下げないのは実は難しいのではないか

 オタクはよくコンテンツの感想をツイッターなどで述べる。それに対して「何かを誉めるために何かを下げるな」という批判が寄せられることがあるという。しかし私は、この批判は当たらないと考えている。以下に本文の概略を示す。

本文の概略

 ほめるとは価値を見出だすことである。そすして、価値とは選択の基準である。選択には、常に選ばれなかった側が存在する。選択は、行為において不可避である。以上のことから、選択されなかったものごとに対しては、間接的にではあっても価値がないと評価したことになってしまう。しかるにほめるとは何かの価値を語る行為であるから、何かを選ぶべきでない理由も同時に語ってしまう行為であると言わざるを得ない。想定される反論として、全てに価値があるとする意見がありうる。しかしこの立場は維持できない。価値評価の基準を複数持つことで多数の価値を擁護しようとしても、評価基準を評価するための基準が必要になってしまい価値の序列化が必然的に起こる。

 それぞれについて以下で順に解説していく。

ほめるとは価値を見出だすことである

 私たちはいろいろな理由で作品をほめる。理由の具体例としては、ストーリーが良かった、イラストが良かった、音楽が良かった、などが考えられる。これらはいずれも、ある観点を取り出してそこにおいてその作品が優れていると語る言葉である。だから、これらは価値を語る言葉に他ならない。

価値とは選択の基準である

 仮に、ストーリーが面白い作品Aとつまらない作品Bがあり、どちらかを選択しなければならないとする。このとき、大抵の人は作品Aを選ぶのではないだろうか。この行為は、ストーリーの面白さという価値を基準に選択するという行為に等しい。

 なお、あえて作品Bを選択する人がいることをもって価値が選択の基準ではないとする反論はあたらない。なぜなら、その人もつまらないかどうかという基準でもって選択を行っているからだ。その人にとっては、つまらなさが価値なのである。

 では、ここではあえて仮定から外したが、作品Aも作品Bも選択する人の存在がありえたとしたらどうか。これについては後述する。

 以上から、価値判断はは、選択の基準として使われるのである。

選択には、常に選ばれなかった側が存在する

 これについては上の例が解説になっている。だから、特にコメントも不要であろう。

選択は、行為において不可避である

 人間の行為は、常に選択の決壊である。例えばスマートホンを見るという行為は、散歩や読書などの行為でもありえたはずである。つまり、私たちは無意識であったとしても、常に行為の選択を行ってしまっているのである。

 そして、全てを選ぶことは、不可能でもある。なぜなら、私たちが持つリソースは有限であるからだ。神ならぬ人間は常に有限の壁に突き当たる。時間もお金も、私たちが使えるものは限られている。だからこそ、それらを有効に使っていくために、価値判断が要請されるのだ。

選択されなかったものごとに対しては、間接的にではあっても価値がないと評価したことになってしまう

 先程の議論は、コンテンツ観賞においても当てはまる。私たちは常に、過去から現在まで積み重ねられ今も積み重ねられ続けているアプリゲーム、映画、小説、音楽などのコンテンツの海に投げ込まれている。この無限にも近い選択肢から私たちはどうしても何かを選ばなければならない。何を当てにするかは、人によるだろう。例えば、ユーチューブ動画なら好評価の数や、自分たちが好きな投稿者の動画であるかどうか、知り合いに勧められたなどなどがありうる。これらいずれの評価基準を用いたとしても、選ばれなかった側のコンテンツは常に存在しているのだ。そして、あるコンテンツを観賞に値すると判断したまさにその同じ理由で、同時にあるコンテンツは観賞に値しないと判断されているのである。

ほめるとは、評価を語ることである

 ここまでの議論で、人は何かを選ぶことが不可避的であるからある価値判断をすることを避けられないということを見てきた。別の視点で見ると、ここまでの議論には、人間が1人しか出てこなかったのだ。実際には。当然世界の中に人間は複数いる。このことを前提に、ほめるという行為を考えなければならない。

 あるものをほめるためには、あるものについて何か知っていなければならない。コンテンツならば、一度は観賞したことが前提されている。観賞したことがないのにほめることは、それこそほめられたことではないだろう。

 ほめるとは、あるものごとについて、自分がそれを何程か知っていることを前提に正の価値を語ることである。いわば、あるものごとはある観点からして選ぶに値すると誰かに語る行為なのである。

 つまり、ほめるという行為も何を選ぶべきであるかという評価と同時に何を選ぶべきでないかについても語る行為に必然的になってしまうのだ。なんとなれば、ほめるという行為は価値に関わっている以上、今までの議論が当てはまってしまうわけである。

 そして、その語りを聞いた誰かは、このこと自体を価値判断の基準とするかもしれない。すなわち、誰かがほめていたという理由によって何かを選択し、何かを選択しない人が現れるのである。このほめるという行為は、他の可能性選択基準より強いものとなり得る。あるものを誰かがほめたということはその価値がある程度保証されているということをも意味しているからだ。

以上見たように、ほめるとは誰かに何かを選択しない理由を与えるという意味で何かを否定することを避けられない行為なのである。

全てには価値があるとする意見について

 ここで、想定される反論として、全てのコンテンツは価値があるのだという意見を検討する。

 この議論において、価値とはすなわち選択の理由なのだと考えてきた。あるコンテンツは誰かにとって選択に値するものでありえる。その意味では確かにこの意見は正しい。しかし、私以外の誰かが選択するかもしれないことと、私が何かを選択するということは別のことであることに注意する必要がある。人は、実際には全てに価値があるとは考えておらず、常に価値判断によって選択をしているのである。

 全てに価値があるという言葉は、主として誰かに向けて語るための言葉である。自分ではない誰かは自分とは別の価値基準でもって選択をしているかもしれない。だから、誰かを否定することのないように、言葉を選ぶ必要がある。全てに価値があるという言葉の存在理由はここにある。

 しかし現実の選択場面においてこの言葉は役に立たない。全てに価値があるとするなら、目の前のこれではなく向こうのあれを優先する理由がなくなる。その結果、選択ができなくなる。そして、何も選択しないということは全てに価値がないと考えた結果の行為と外形に変わるところがないのである。ゆえに、全てに価値があるという言葉は選択の場面でなんの意味も持たないのだ。

価値評価の基準を複数持とうとしても、評価基準を評価するための基準が必要になってしまう。

 全てのものに価値があるとするために、価値判断の基準を複数用意してそれぞれのものにそれぞれの価値基準を適用するという方法も考えられる。しかしこれも上手くいかない。

 価値基準を複数持つと価値基準そのものを評価する基準が必要になってしまうのである。たとえば、あなたがいま小説を読みたくなったとする。そこで何を読むか決めるために小説の感想サイトを覗いた。すると、ストーリーの面白さという点ではAが、キャラクターの魅力という点ではBが、風景描写の巧みさという点ではCがいちばん良かったと書かれていた。休日1日に読める本は1冊しかないから、ここからどれかに決めなければならない。さてこれらの情報から、小説ABCのどれを読めば良いだろうか。ストーリー、キャラクター、風景描写の中でどれを一番重視するかを決めなければならない。自分にとって大事な基準がなけれぼ、ABCの中から選択することが不可能になってしまう。したがって、価値基準を複数も持つことによって全てのものに価値を与えようとする試みも失敗に終わってしまうのである。

まとめ

 私たちは有限な存在である以上選択を避けられない。だから、何らかの価値判断に頼らざるを得ない。公平であることは価値判断を行わないことではなく、できる限り正しく価値判断を行っていくことなのである。言い換えれば、私たちはある価値の正当性を語ることばを常に持たなければならないのである。


 

 

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