浅草で、頭の中のババァが死ぬ
自分の肉体(25歳、女性)の中に、童貞の男子校生と中年の女が住んでいる。
昔からそうだった。
世の女性の例に漏れず、私の中のおばさんという存在は母であった。昔は。
20数年で母との闘争にひと段落つくと、
私の中のおばさんは母ではなく、今まで嫌味を言ってきたおばさんたち(ここではおばさんと表記しますが、何も妙齢の女性に限りません。若いババァもいれば、男のババァもいます。年齢と性別は関係ありません)の集大成になった。
なぞの合体を遂げたのである。
私の中のおばさんは、
若さが許せない。可愛さが許せない。自由が許せない。マトモじゃないことが許せない。
私が「可愛くもおもしろくもないのに、若いだけでチヤホヤされてすみません」というと満足そうにヤレヤレという顔をする。
「私なんか、歳を取れば誰も見向きもしなくなります。来るその日に向けて日々努力します」というと安心する。
「スーツを着て電車に揺られ、効率良くお金を稼ぎます」というと嬉しそうにする。
ババァは「ふつうの人生を生きなさい。この世はマジョリティになればなるほど生きやすい」と言う。
「ふつう」は大学生の時の私が一番ほしかったものだ。
お父さんにもお母さんにももらえなかったものだ。
父と母から渡されたのは「唯一たった一人の」という由来の名前だけだった。
最近頭の中のババァがヒステリーを起こし初めた。
とあるきっかけから私のババァが非常に興奮し始め、
今まで出会ったおばさんたちに言われて嫌だった言葉ランキングが走馬灯のように頭を駆け巡るようになった。
何が私の意見で、何がババァに気を遣って発言している言葉で、何がババァのセリフなのか頭の中が散らかって、見当もつかなくなってしまった。
11月に、浅草に行った。
4年前に、インドで出会ったバックパーカーの友だちに会うためだ。
その子は当時世界一周をしていた。
英語がまともに喋れないくせに、とてもコミュニケーション上手だった。
インドの深夜バスで隣になった美人の女性と仲良くなり(私は後ろの席に座っていた)、その人の肩枕でスヤスヤ寝ている彼女をみて、言語が喋れるかどうかと人と親しくなることは別であると学んだ。
彼女は日本で就職した。お互い社会人になって数年経った。
最近は何を考えているのか、どんなことを感じているのか、知りたかった。
すごく会いたかった。
ホッピー通りで昼から酒を呷りながら、
私が「就職して1年目は必死だった。何も考えれなかった。2年目は自分の仕事の出来なさに落ち込むようになった」と話すと、彼女は「わかるわ」と呟いた。
「ほんで3年目からは、無になるよ」
と低く言い放った。
遠くをみているようにも、何もみえていないようにも見えた。
無になった彼女が想像できなかった。
あんなにインドの景色で一緒に心を躍らせたのに。同じタイミングで盛大に腹を下して深夜バスに乗るのを心から怯えたのに。
これから待っているお互いの旅がどんなに楽しいものか、ワクワクするねと言い合ったのに。
でも、自分が無になっていることに葛藤する彼女を見て、
なんや全然変わってないやん、と安心した。
世の中には、仕事は嫌々しているのだから、無になって仕事できるならむしろ万々歳と思う人がいるのだ。
いや、悪いことじゃないよ。仕事はビジネスで、働くのはお金のためならそうなるのも仕方ない。そうなのだろう。
しかし、彼女は違うのだ。自分を無にする時間を求めていないのだから。
一軒目でもんじゃを、二軒目で抹茶クレープを挟み、三軒目に「正ちゃん」という店で牛すじ煮込みを食べにいった。
硬いイスで狭い席に容赦なく相席させられる。
前に座った男女は親子にも見えたし、上司部下の関係にも見えた。
気にせんとこう。友だちとの話に集中せな! とは思ったが、いかんせん席が近すぎる。
その結果、友だちの話を聞きつつ、前の席の二人の話も聞こうとして、
どっちの話もまるで頭に入ってこない
という最悪な状況に陥った。
最終的には、友だちがめちゃくちゃ自然に前のお二人に話しかけた。
お姉さんと思っていたその人は中年の年頃だった。東京の女は見た目で歳を取らないのか。びっくりした。
ちょうど私たちが恋愛の話をしていたので、人生の先ぱいとして二人にアドバイスを求めた。
私も友だちも、自由である怖さと、一人でだって生きていけそうな自分と向き合うことを恐れていた。
向かいの席のお姉さんは
「大丈夫よ。自由はその世代に生まれたあなたたちの特権なんだから」
と言い切った。
私は、和歌山にその言葉を連れて帰ってきた。
今まで、私が移動するたびに必ずそこにおばさんがいて(二度目ですが、おばさんと表記していますが、何も妙齢の女性に限りません。若いババァもいれば、男のババァもいます。年齢と性別は関係ありません)まぁ好き放題言われてきた。
その世代特有の思い込みや、社会通念というものはたしかに存在する。
そんなの所詮ファンタジーなんだけど、その人の中にはそれが自分の価値観という実態として存在している。
押し付けアドバイスはけっこう私のことを思って言ってくれているものだって多かった。それは、知ってる。
関係ない関係ないと思おうとしても、言葉だけがしつこく追いかけてきた。振り払った言葉を後ろから私の中のババァが拾い集めてくるのだ。そして私が弱ったタイミングで放出する。いや、どういうサービス。
そのお姉さんがくれた言葉は、若者を丸ごとおっけーするような大雑把な、しかし世代を尊重する温かな意味が込められた言葉だった。
そうか、特権か。
これは私たちがもつ特権だったのか。
自由は、特権なのか。
若さも可愛さも普通じゃないところだって私に産まれた特権なのかもしれない。たとえ期間限定だったとしても。
正しいのは私なのかババァなのかの迷宮入りの2択は、お姉さんの一言で終止符が打たれた。
ババァも特権の前で立ち尽くし言葉を失った。
私世代の特権は私のもので、ババァのそれとは別のものだ。
ババァと私は別の種類の特権を持っている。
ババァと私が全く別の生き物であることに気付いた。そもそも製造年から違うんだから。そりゃそうなのだけど。
どっちが正しいかじゃない、別にどっちも正しくない。
さようなら、ババァ。
これからは別の人生だ。
今回は名も知らぬ東京の女性に救われた。
こんなタイミングでいい言葉に出会えるとは思ってもみなかった。一期一会。
ホッピーで溶けた脳が澄み渡るような一言だった。
私もいつか、もらった言葉を誰かにまわすんだ。言葉を変えて誰かに届けるのが、私の夢。
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