テレビ、指向性、雑音

 つい最近のことである。

引っ越しをした。
約8年ほど住んだマンションの一室を出て山に近い一軒家に移った。

段ボール箱の量が凄まじかった。
元々住んでいた家の荷物に加え、母の仕事場に置いてあった道具類が新居に置かれることになったため、とりあえず箱を押し込んだ家の中は足の踏み場はもちろんないし1m79㎝の高さの視界も箱で塞がっていた。

引っ越し初日というのは本当に疲れる。ひたすら箱を開いて中の物を適切な場所に収めていく。ゴミと箱の森を分け入って家の中を行き来する運動量はそれなりのものである。二階があるとなるとなおさらだ。片付けに並行して通常の生活もしなければならない。それに必要な道具がすぐに見つかればいいが、そういうものが入っている箱ほど奥にあり取り出しにくいのである。

引っ越しは疲れるうえに寂しい。
日常とは思った以上に音に溢れている。日常会話、テレビ、外からの音など。
引っ越し初期段階はそういった音が少なくなる。喋りながら作業をしているといつまで経っても終わらないので黙々と行う。作業が進むと疲れてくるので喋りに使う余力というのはなくなってしまう。より音は少なくなる。
テレビはこの段階では設置されているだけなのでまだ機能を有していない。つまり音を発することはない。寂しさを助長する。
ルーターはどこにあるのか。あったとてその設置方法も挿すための穴も知らない場所が故にどこかわからない。するとスマホも使いづらい。これまた音を発することはない。(厳密には可能だが)

陽が暮れてきた。段ボール箱の森の伐採は少し進んだ。
一息つくための場所も確保し、体力も少し回復できた。
すると精神の方の回復も図ろうと考えるようになる。

置いていただけのテレビの裏側に貼っていたコード類と壁の穴とを繋ぐ。
勘とノリでなんとか正しいと思われる配線ができ、最初は映らなかったが横のカードを抜き差しして何とか映るようになった。
かくして新居に音が舞い降りた。

バラエティ番組では芸能人たちがなにやら盛り上がっている様子だった。
いつもならどうでもいいとチャンネルを変えるところだが、この日ばかりはこのどうでもいい音がたまらなく嬉しかった。
そのあとにメガネの少年探偵の映画が始まったが、これもまた嬉しかった。別にその映画が見たかったからとかではない。日常に絶対に必要というわけではない音があるというのが嬉しいのだ。この日ほど彼が巻き込まれる事件がどうでもいい日はなかった。だがどうでもいいのが嬉しいのだ。

そもそも日常の音というのが指向性に富みすぎている。家族となにか実のある話をしたり、YouTubeで役にたつようなことを話している動画を見る。欲しい情報が溢れすぎている。理解できる情報が流れているとそれを可能な限り受容しようとしてしまう。すると脳のキャパを超えて疲れてしまうのだ。

それがどうだろう。そもそも流れているのがどうでもいい情報だったら。理解する必要もなければ受容する必要もない。右から左へ左から右へ、通過するだけだ。耳掃除をするようなものだ。脳の。

テレビは雑音に優れている。バラエティ番組なんかはたいていどうでもいいことばかりを流している。ディズニーか業務スーパーの美味いもんの話しかしてない。けなしてはいない。どうでもいい雑音だからいいのだ。

最近はテレビがない家というのもあるらしい。私個人の意見ではテレビはあった方がいい。YouTubeとか指向性の高すぎるものだけだと脳がパンクするから。有益なものしか残っていない家というのは味気ないように思える。無駄を楽しもう。テレビから雑音を流そう。

どうしてテレビ側の方を持つのかと言うと私がバイトでテレビ局で働いているからだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?