命か経済かというロジックは成り立たない

コロナで緊急事態宣言が出て、自粛を迫られ経済の多くの部分が止まっている。

大手マスコミも含めてだが、命を優先するのか経済を優先するのかという極端な話が多くなっており、経済の話をすること自体がタブーのような雰囲気が熟成されつつある。

ネットでは言葉狩りも始まっているように感じる。

経済を優先するような論調に対して、命を軽んじているのかという攻撃をよく見かける。

結論から言うと、個人的には命か経済かというロジックは、今の社会に生きている限りは成り立たないと考えている。

自粛についても、ある一定期間で終了するという前提であり、自粛をすることでコロナの感染拡大が止まるというメリット(ここでは敢えてメリットという言葉を使わせてもらう)があると思うから、要請に従っている。

これも極端な話ではあるが、例えば自粛の期間がわからない、補償もほとんどない、結果として企業は行き詰まり解雇され、失業者があふれるということであれば自粛なんて誰もしないだろう。

偽善者たち(今風に言うとお花畑というのであろうか)が言うところの命より重いものはないというのは、資本主義の社会で生きている限りマクロでは成り立たない。

経済をゼロにしてしまったら、結局命も失われるからである。

マクロでと申し上げたのは、このようなことを言うと必ず「自分の家族の命が奪われてもそんなことが言えるのか」という人がいるからである。

もちろん自分の家族の命が奪われるようなことになれば、そんな冷静なことは言っていられないし、それが人間であるだろう。

でもマクロの政を進めるのに、ミクロの感情をもとに行ってはいけないことは明白である。

もし感情を優先して良いということであれば、為政者は自分の家族や友人だけは絶対に安全であるような政策を実行することになる。

そんな不平等が許されるはずがない。

政はマクロの目線で感情を挟んで行ってはいけないのは明白である。

そこには幾何かの非情さが必要になることがある。

例えばであるが、今回のコロナでウィルスによる死者が1000人だとして、経済悪化による死者が5万人出るとすると、例えウィルスによる死者が1000人出るとしても、経済悪化による死者が5万人から1万人でも減るような政策を取らざるを得ないことはある。

もちろん今の時点ではウィルスによる死者がどれぐらいになるかもわからないし、経済悪化による死者がどれぐらいになるかもわからない。

だからある程度専門家(感染症の専門家、経済の専門家)の意見を聞いて、リーダーたる政治家が決定をしなければいけない。

不確かな状況で決断をするのであるから、思惑通りに置かないときもあるし、思惑通りに行ってもコロナにより死者がでたではないかと非難を受けるであろう。

非難を受けるのが嫌な人間はリーダーになるべきではないし、政治家にもなるべきではないのだ。

為政者の政策は、後の歴史でしか評価されない。

ある程度の時間が経たないと、その時点での政策が正しかったのか間違っていたのかは分からないからである。

今は嫌われてもやらなければいけないこともある。

最後に、政府はコロナの感染者や死亡者の数字だけでなく、このまま経済が悪化し、失業率が何パーセント上がったら、過去の事例から見て自殺者が何万人増える可能性がある、というような情報も国民に開示していくべきだと思う。

コロナは確かに危険だし、十分に注意すべきであるが、それに酔ってはいけないし、情報が偏るのは危険である。


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