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トランスジェンダー映画としての『マトリックス』とその歴史的意義(翻訳)

 18年ぶりの新作『マトリックス レザレクションズ』が公開されます。このシリーズを生み出したラナ&リリー・ウォシャウスキー姉妹が自身のジェンダー・アイデンティティを公表する以前から、『マトリックス』はクィア・リーディングの対象とされてきました。

 『マトリックス』をトランスカルチャーに位置づける試みについて、米国のトランス映画研究者Caden Mark Gardnerの記事 「Sensing Transgender: Lana and Lilly Wachowski’s "The Matrix" を翻訳して紹介します。
(※この記事は『マトリックス レザレクションズ』の製作が発表される以前の2019年3月に書かれたものです。)

ウォシャウスキー姉妹の美学

⾔葉にできなくても 直感で分かる
ずっと感じてきた 今の世界は何か変だ

“What you know, you can’t explain. But you feel it. You’ve felt it your entire life. There’s something wrong with the world. You don’t know what it is, but it’s there.”

 『マトリックス』(1999)でモーフィアスがネオに赤と青の錠剤を差し出しながら言った台詞です。この映画が2人のトランス女性によって創作されたことを思い起こせば、この言葉は違った読み方ができるのではないでしょうか。

 グランド・バレー州立大学のトランス文化研究者であるカエル・M・キーガンは、ウォシャウスキー姉妹とトランス文化についての論文「Lana and Lilly Wachowski: Sensing Transgender」(2018)の中でこう述べています。「この台詞は今まで言語化されてこなかったトランスジェンダーの心情を表現している。シスの人々が当然のように生きているジェンダー構造は、トランスの人々にとっては真実でないように思える」と。

 キーガンは「トランスの個人的な感覚が世界に反映されていない結果として、ジェンダー・ディスフォリア(性別違和)は社会で存在しないものとして扱われている」と続けます。キーガンの論文は『マトリックス』をコアテキストとして、ウォシャウスキー姉妹のキャリアを俯瞰し、クィアネスとジェンダー表現に焦点を当てるものです。

 ラナ・ウォシャウスキーは2012年、(マスコミやインターネットの長年のゴシップ的・トランスフォビア的な憶測に晒された後)自身がトランスであることを公表し、その後リリーも2016年にトランスであると公表しました。『マトリックス』は2人が自身のアイデンティティを公表する以前から、多くのトランスやノンバイナリーの人々の共感を得てきました。 キーガンもその一人であり、この映画の「現実」が仮想シミュレーションによって作られていたのと同様に、「ジェンダー」もまた作られたシステムであると考えます。

 SFというジャンルではこれまで長い間、地球人とは似ても似つかぬ異星人や化学的に変容させられた身体をトランスの寓意として登場させてきました。意外かもしれませんが、トランスコミュニティにとってはトランスキャラクターが登場する社会派ドラマより、このようなSFのほうが受け入れられてきた歴史があります。実写ドラマではトランスの役を非トランスの俳優が演じるため、視覚的な表現が損なわれ、SFのほうがよほどトランスキャラクターの特徴を正確に表現していることがあるからです。

 キーガンの論文がウォシャウスキー姉妹とトランスシネマの研究において重要な意味を持つのは、『マトリックス』を単なる寓意よりもはるかに深く掘り下げているからです。キーガンは、ジャンル、キャラクター、テーマにおいてトランスを寓意的に扱った作品は映画史に常に存在していたものの、ウォシャウスキー姉妹の作品はそれとは異なると主張します。キーガンによれば、ウォシャウスキー姉妹はトランスとしてのパーソナルな感覚に基づく美学を創造しており、それはフィルムからデジタルに移行する中で、ビジュアルとストーリーテリングの可能性を拡張した映画技術の進化のおかげでもあります。

 『マトリックス』には『センス8』(2015-2018)のように直接的にトランスのキャラクターが登場するわけではありません。しかし、ウォシャウスキー姉妹は複数のカメラを高速で動かすなどの視覚的発明によって、それまで不可能だった身体表現を可能にし、独自のトランスの美学を表現することに成功しています。

 2人はデジタル技術によってキャラクターの身体に息を吹き込みました。ネオの身体能力は物理法則の限界を超えて銃弾を曲げたり止めたりできるようになります。この世界ではキャラクターは制約を超越し、時間・空間のルールを破ることができると明確に示したのです。2人が提示したイメージと技術の進歩は今まで映画が表現できなかった身体の可能性に道を開くものでした。

『マトリックス』とトランス・イメージ

 主人公のネオことトーマス・A・アンダーソンは、人類を監視して奴隷化する仮想現実シミュレーションの中で一人のプログラマーとして活動しています。この映画の冒頭でハッカーたちと出会ったネオは、トリニティーらによって身体から虫のような機械を取り除く手術を受け、モーフィアスから意識を解放する赤い錠剤を手渡されます。それはあたかも性別適合手術(SRS)やホルモン補充療法(HRT)を受けるのと同じように、ネオの身体に肉体的な変化をもたらします。

 ネオは無数のケーブルが繋がれたポッドから液体の中に脱出することで新しい身体に移行(transition)し、モーフィアスとの格闘訓練を通じて新たな運動機能に徐々に適応していきます。

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 ネオ、モーフィアス、トリニティーらにとって、彼らの決死の行動は生き延びるためのやむを得ない手段であり、同じアイデンティティを持つ仲間を見つけ協力する行為、つまりマイノリティ同士の連帯です。シミュレーションだからといってライフが無限にあるわけではなく、マトリックスでの死は肉体的な死を意味します。それは社会がシステムに適合しないマイノリティを排除する抑圧に他なりません。これはジェンダーという社会構造が、暴力やトラウマによってトランスの人々に肉体的・心理的な負担を負わせているのと同じだと言えるでしょう。

 映画の終盤でネオが復活し、圧倒的な力の差でスミスを倒した後、トリニティーはネオになぜ強くなれたのか尋ねます。かつてはネオ自身にも説明することができませんでしたが、それは以前からネオが有していた能力であり、初めからそのような力を持つよう運命づけられていたのです。ネオはこの映画を通じて、自身の肉体と精神には無限の可能性があるというアイデンティティを獲得したのです。

フィルム時代のトランス・イメージ

 トランス・イメージは映画史の中でどのように扱われてきたのでしょうか。ブライアン・デ・パルマの『殺しのドレス』(1980年)はトランス女性がシス女性を殺害するストーリーですし、アルフレッド・ヒッチコックの『サイコ』(1960年)は異性装者のノーマン・ベイツがモーテルの客を殺害する設定です。こうした分裂的なイメージは、観客だけでなくスクリーン上のトランスのキャラクター自身の精神分裂と心身の混乱をも表現しています。トランスの人々がジェンダー・アイデンティティを主体的にコントロールし自分たちのストーリーを語ることにおいて、映画文化は遅れていたといってよいでしょう。

 キーガンは著名なトランス研究者であるスーザン・ストライカーの言葉を引用しながら、20世紀のアナログなトランス・イメージと21世紀の流動的でデジタルなトランス・イメージを対比させます。20世紀を代表するトランスイメージといえば、戦後多くのメディアがトランスを取り上げるきっかけとなったクリスティーン・ジョーゲンセンです。

 ジョーゲンセンは1952年、米国人として初めて性転換手術を受けたことで広く知られる存在となりました。ストライカーのドキュメンタリー『Christine in the Cutting Room』(2012)では、ジョーゲンセンの身体が、赤狩り、原爆、公民権運動といった20世紀の不安の中で、フィルムがハサミでカットされて物語に生まれ変わるように再構築されたものとして捉えられていることを説明しています。

 ジョーゲンセンの性転換手術は、既存の規範を動揺させ社会を不安定にする脅威とみなされました。このトランスフォビア的な反応は、ジョーゲンセン以降のトランスジェンダーの描写にも影響しています。トランスの身体は不安定で不自然なものとされる一方、トランスの人々が映画製作において声を与えられる機会はほとんどありませんでした。

 そもそもトランスジェンダーという言葉は、トランスセクシュアルという用語が医学的な障害や病理と結び付けられたことに対して、トランスコミュニティが自身を定義するために使い始めたものです。ジェンダーは生物学的な性別だけではなく、人間性や社会のあらゆるシステムと結びつく概念です。トランスであるということは、自己認識だけでなく他者に自分をどのように見せるか・見られたいかという認識にまで及びます。この世界で生きることは、否応なしに他者の視線や社会システムと接続することです。

 このようなアイデンティティの葛藤は、「自分自身を肯定する」か「社会に対して妥協する」かという判断を迫ります。かつてより文化的・社会的に成熟した現在では、自身のアイデンティティに忠実な選択をする人が増えていますが、そのプロセスには多くの場合社会に対する妥協が含まれています。

 最後に、ネオがラストシーンで公衆電話に向かって話す台詞を見てみましょう。

この電話を聞いてるのは分かってる
お前たちは――我々を恐れてる 変化を恐れてる
この戦いが どんな結末を迎えるか分からない
だが これからが本当の始まりなのだ
この電話の後――
⼈々に本当の世界を⾒せる
お前たちが⽀配しない世界を
どんな規則も 束縛もない世界を
すべてが可能な世界を
その先……お前たちはどうする?
“I know you’re out there. I can feel you now. I know that you’re afraid. You’re afraid of us. You’re afraid of change. I don’t know the future. I didn’t come here to tell you how this is going to end. I came here to tell you how it’s going to begin. I’m going to hang up this phone and then I’m going to show these people what you don’t want them to see. I’m going to show them a world without you, a world without rules and controls, without borders or boundaries, a world where anything is possible. Where we go from there is a choice I leave to you.”

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 『マトリックス』のラストは明確な結末を示さないオープンエンディングであり、これは次作に期待を持たせるための戦略的な意味合いもあるでしょう。しかしこの台詞は、古い規範や世界観に固執するトランスフォビアに対する警句と考えることもできるのではないでしょうか。

 たとえ直接的に危害が加えられることはなくとも、トランスの人々は常に敵対する勢力の存在を意識しながら生きています。その責任は私たちが生きるこの時代遅れのシステムにあります。社会のシステムが多様性に対して抑圧的であり続けるのであれば、私たちの手で社会を変えるしかありません。ネオがそうしたように。

 ウォシャウスキー姉妹はSFやサイバーパンク、ディストピアといったジャンルを通じて、自己のトランスの経験による美学に基づく新たな映画の枠組みを構築しました。今こそ最も成功したトランスジェンダーの映画監督として、大衆文化におけるウォシャウスキー姉妹の功績を分析するべき時が来ています。

©Caden Mark Gardner 25 MAR 2019


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