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聴くを上回る、演奏という最大の娯楽

同じ曲でもプロが奏でる卓越した演奏を聴くことと自ら楽器を演奏することは全然違う。
聴いたものがどんなに素晴らしい演奏であっても、自分にそれほどの技能が無いことが明らかでも、日頃から演奏をたのしむ人が自分で演奏してみたいと思うのはなぜだろうか。

演奏は快を最大化する行為

聴くたのしみ、これは万人が毎日享受するものであり、その程度に大小あれど心が動かされることによろこびやスリルという快を感じている。ハマる曲、刺さる曲を聴くことがどれほど大きな快であるかは周知されている。

ところがそれに飽き足らず、曲全体または一部の音の並びは自ら演奏したいという気持ちになる。

演奏したくなるのは特に自分が好きなものだ。演奏するためには場所、時間、エネルギーなど多くの面で聴くことよりもコストがかかる。それを払ってでもその曲を演奏することで得られる何かが、特に好きな曲にはある。

「私」が演奏する。このときその曲の一つ一つの音に対して、「私」がもつ感情や記憶がすべて弾くと同時、もしくは弾く直前に想起される。誰に聴いてもらうことも聞かれることも意識しない時、このようなイメージはフィルターとなって、どんなに拙くぎこちない演奏もたちまち十分に美しいものに聞こえさせてくれる。頭の中では「私」が真に聴きたい音が流れる。もともと「私」が気に入っている音であればあるほど、演奏したときこのフィルターの力は大きく働く。すなわち、これが「私」にとって最大の快であると、私たちの脳が覚えているから演奏したくなるのだろう。



ものとして存在する楽器演奏について書いたが、あらゆる人が声という楽器で同じたのしみを味わっているものと思われる。

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