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人は正反対の気持ちを同時にもち得る

あれっ!なんだかんだいつも、こんな思いしてんな~?イライラすんな!

自分の心を振り返ったとき、相手に好意を抱いているのに、逆に相手を困らせるようなことをして、後悔したときありませんか?

たとえば、小学生のときスキな女の子に、ちょっかいを出し、嫌われるような行動をとってしまった。

なぜなら、スキって告白して断れるのが怖い。断られて周りから冷やかされのもイヤだから、つい自分の気持ちを押さえ込んでしまった。

こんな経験ありませんでしたか?

「好きだけど嫌い」、「尊敬しているけど軽蔑もしている」、「かわいいけどいじめたい」、「見たいけど見たくない」、「行きたいけど行きたくない」…。人は心の中に「前向きな気持ち」と「後ろ向きな気持ち」という相反する気持ちを同時に持つことがあります。

この心理状態を「アンビバレンス(ambivalence)心理」と呼びます。アンビバレンスとは、同じ対象に相反する感情を同時に持ったり交互に抱いたりすることで、「両価性」とも言われています。

しびれるような快感が支配するとき

私が、小学生のときは、学校が終わるとカバンを家に置いて、速攻で外に遊びに行くのが当たり前でした。

まさに昭和時代の子どもです。

昭和の遊びというと、公園で鬼ごっこ、かくれんぼ、ドロケーなどの遊びをしてました。

もちろん、友達みんなで遊ぶのが、なにより楽しかった。

楽しいけど、これがいつもの日常だったので、子どもなりにも飽きてきます。

たまたま公園の近くに、電車が走っていました。公園で遊びながらも、電車の「ガタン、ゴトン」の音は聞こえていました。楽しいときは、そんなに気にしなかったのですが、遊びに飽きて何もやることがなくなったときに、「ガタン、ゴトン」の音が、「こっちに来てごらん」みたいな、悪魔の誘いに聞こえました。

そんな誘いの声に近づき、みんなでやったことが、線路の上に石を置いて、電車が走ったらどうなるんだろう?

なにか日頃の遊びに飽きて、しびれるような快感を求めていたのかもしれません。子ども特有の経験数がないから、これをやったら大変なことになるなんて、これぽっちも考えがなく、ワクワク感でいっぱいでした。

実際、石を線路の上に置き、電車が来るのを待っていたら、当然線路の上の石に気づいた運転手が警報を鳴らし、急ブレーキをかけましたが、間に合いませんでした。その後、走り去ったのですが、幸いに事故もなくまた動きだしました。その状況を見ていた近所のオッサンが「こら~!」「おまえら何をしたんだ!」とお叱りの声がヒビイたので、みんなで速攻で逃げました。

捕まることなく、いつもの公園に集合して、助かったことの嬉しさや、みんなが無事でよかったねと安堵の気持ちに。

大人になり、このやった行動を思い出すと、恐ろしいことをやっていたなと震えが来る思いです。

では、なぜ子どもながらに、こんなことをしたのかです。

こんな昔話を引っ張り出してくるのも、幼い子どもにみられるこうしたイタズラが、大人の世界にも見られる反社会的行動と、関係があるんじゃないかということを、考えてみたからです。

ひどいイタズラをして、とっちめられた経験は誰でも一度や二度はあるのではないでしょうか?

イタズラをしているときの心境を思い出して下さい。

そこにはスリルというか、ワクワクするような感情が強くありませんでしたか!

これは、ごく基本的なことだし、多くの人が大人になると忘れがちなことでは、ありませんか?

それが悪いことだと、よく理解していないという善悪判断の問題でもありますが、それだけでは、ありません。

そこには楽しさや興奮が伴っていませんでしたか?イタズラをして、他の人がひどい目に遭ったり、困ったりするのを見るのが面白いのです。快感や愉楽という報酬が伴うから、ついやってしまうのかもしれません。

罪を憎んで人を憎まず

この線路の上に石を置いた行為は、今、大人になって考えると、本当にとても恐ろしいことです。結果論で言えますが、なぜならこの行為でそのとき電車が故障し、人為的な事故があったら、罪も憎んで、人、仲間、友達をも憎んでいたはずです。そう、みんなで合意してやったのに、この罪の大きさで誰かのせいにする、責任逃れをする、罪を憎んで、人をも憎んでいたでしょう。

そして、そんなイタズラを知らなく乗っていた乗客は、怒りを持ち続け、その感情はいつしか恨みに変わります。

たとえば、テレビドラマや小説に出てくる犯罪者が、「積年の恨みをはらすために復讐した」と言ってるのを、一度は聞いたことがあるでしょう。

「積年の恨み」という言葉のとおり、恨みは積もるほど大きくなり、ついにはそこから逃れることができなくなるでしょう。

もしかしたら、イタズラでした行為(罪)が、知らない人からは人の憎しみに変わることがあるということを、知っておかなくてはいけない。

それと同様に私たちは、身近にいる人に対しては無意識のうちに、高いレベルで様々なことを、求めてしまいがちな両価性を持っているのが人間なんだと、知っておかなくてはいけないのです。

おおげさかもしれませんが特にあるのが社会、仕事の現場でこの両価性を悪く使う人がいます。それは立場が上の人(全ての立場が上の人ではなく、立場が上になったからと部下が何でも言うことを聞くと勝手に決めつけてる人)は、自分で言った良かれと思った行動に対して、両価性を持っているくせに、最終的には責任逃れをするのです。

罪を憎くんで、人を憎まずではなく、罪についてこれからは、自分が思っている以上に考えて行動すべきなのではと、思っています。

人間両価性を持ってると思ったら、最初から責任逃れをする上司のイライラ感も減るのかもしれません。

そうすれば、罪も憎まず、人も憎まないのではないでしょうか?(ちょっとキレイごとに聞こえるかもです)

自己否定の落とし穴

とはいっても、ポジティブに考えてって言われれば言われるほど、逆に罪悪感が増大し逃れるのは難しいですよね。

でも、自分を否定的にみることは、ほどほどであれば控えめさや、謙虚さにつながり、美徳や長所でさえあると思います。

ですが、度が過ぎて、自分は愛される価値も生きているや、価値もない人間だという、強い確信とも言える自己否定にとらわれると、異常心理の領域に入り込むことにもなるでしょう。

自己否定にとらわれた人は、自分を大切にすることができない。自分を傷つけたり、損なったり、貶めたりするようなことばかりをしてしまう。

自分を傷つけていることを自覚している場合もあるが、それがまったく無自覚で、傷つけるという意識もないままに、自分を傷つけるようなことをしてしまうこともあるのです。

死の危険とすれすれのことを好んで行ったり、自分の身体に悪いとわかっていることを、これみよがしに繰り返したり、自分のチャンスを潰すようなことばかりしてしまったという人も、心のどこかに自己否定を抱えていることが多いです。

根底にある自己否定ゆえに、直接的な自殺行為ではないものの、結果的には「慢性的な自殺」と言ってもいい行動を繰り返してしまうのです。

終わりに

人はなぜ、両価性の二分法的な思考に陥ってしまうのか?

そして、そこから脱するにはどうすればいいのか。

このタイプの人にとって、失敗は成功の反対で、どこまで行っても失敗でしかないという真っ黒思考にとらわれているのかもしれません。

しかし、現実は失敗が次の成功を生み出すことは、しばしばであり、山のような失敗があって初めて、成功が生まれることがあるのです。

つまり、失敗と成功は、言葉の上では対立概念だが、それは言葉上の制約に過ぎず、本当の意味では、失敗と成功は連続したものであり、互いに必要としている一つのものので、違う断面に過ぎないとも言えるのかもしれません。

それでは、また。












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