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【Kの掌編小説】「空(くう)」


YouTubeチャンネル「Kくんの純文学読書会」の企画「小説を書いて公募に送ってみた」で書いた小説をアップいたします。

コンテストのテーマは「もの食う話」で、規定枚数は原稿用紙5枚でした。

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「空(くう)」

作:K

 まず、自転車を確保しなければならない、と純は思った。昼時、日が出ているとはいえ、北からの冷たい風が吹き、純の耳の裏側はピンと張ったピアノ線のような緊張感で凍て付いていた。金も尽き、漫画喫茶にも泊まれなくなった純は、昨夜知らないマンションのロビーの隅で膝を抱え、微睡んだ。
 純は、家出中だった。純は調理の専門学校へ行きたかったが、両親はそれを許さず、大学へ進学しないなら学費は一円も出さないと息子に警告した。三日前もそのことで喧嘩になり、純は家を飛び出した。
 昨日の朝から純は何も食べていない。公園の冷たい水をいくら飲んでも腹は満たされなかった。今頃もしかしたら、捜索願いが出されているかもしれない。友達の家に行くなどというぬるいことはできなかった。できるだけボロボロになり、寒い冬の屋外で死にそうなところを発見されなければならなかった。
 ただ、育ち盛りの純にこの空腹は耐え難いものだった。一日中腹がぐうぐうと鳴り、胃が何か入れてくれと叫び続けている。このような空腹と闘うことのなかった純はすぐに挫けてしまい、盗みをするしかないと思った。万引きや食い逃げは難易度が高く感じられたため、純は置き配をさらおうと考えた。ウーバーイーツだ。以前から純は、置き配で届いたものが誰にも盗まれずに玄関先に放置されているのを見て、半ば呆れていた。それを掠め取る。出来立ての美味しいものを頂く。そんな風に純は腹を鳴らしながら決意した。
 まず、例の大きなバッグを背負った配達員を追いかけるための自転車が必要だった。自転車の配達員には徒歩で追いつくはずもなく、走っても不審に思われる。純は手頃なマンションへと入り、駐輪場の中から鍵のかかっていないものを見つけ出した。拝借した自転車に乗って大通りをしばらく徘徊していると、昼時のためか配達員は簡単に見つけることができた。すぐに尾行を開始する。
 ほどなくして、配達員は大きなマンションへと入り、オートロックを通過していった。純は住人の振りをして、素知らぬ顔で配達員の後ろに張り付き、オートロックを抜けた。エレベーターではあえて配達員の押した階の一つ下で降り、非常階段を駆け上がった。壁の陰に隠れ、様子を窺う。
 配達員はインターホンを押さずに玄関の前でバッグを開き、食事を置いた。ポリ袋は三つほどあり、空腹の純は罪悪感よりも早くありつきたいという気持ちが勝っていた。配達員がその場を去り、エレベーターに乗り込んだ瞬間、純は駆け寄ってポリ袋を震える手でまとめて掴み、一目散に逃げた。階段を一段飛ばしでほとんど落ちるように駆け下りた。ポリ袋がガサガサと音を立てて揺れた。
 公園は寒かったが、三連休の最終日で人出が多く、ベンチも埋まっていた。純は仕方なく隅の植え込みを縁取る大きな石の上で食事を取ることにした。手足が震えていたが、これは寒さではなく緊張と興奮によるものだと思った。やっと食事にありつけるのだ。子どもの奇声や笑い声が聞こえる中で、発泡スチロールでできた容器を摘んで開く。
 中華か、イタリアンか、何が出てくるだろう、という期待感は、容器を開くと同時に萎み、違和感へと変わった。ぎちぎちと音がする容器の中には、ファミレスで食べるようなお子様ランチが収まっていた。ケチャップライスの上にはきちんと旗が立ててある。「あっ」と声を出して、純は固まってしまった。食べ物を前にして、口の中は唾液でいっぱいになっているし、腹はもうずっと食事を求めて鳴っている。それなのに、食欲がどこかへ飛んで行ってしまった。
 自分は何をしているんだろうと思った。このお子様ランチをあの家に住んでいる子どもがどんな気持ちで待っていただろうと思った。腹はぐうぐうと鳴るが、それは自分の欲望ではなく悲しみの嗚咽に聞こえた。純はなぜ料理人になりたいと思ったのかを思い出していた。幼い頃から、家族とレストランに出かけることが最上の喜びだった。料理は人を喜ばせる、人生で最も重要な営みだと思うようになった。その最も重要な営みを今自分が醜く踏みにじっていることに気がついた。
「料理人が、人の料理を奪うなんて、終わってんな……」
 純は顔を上げた。デザートのような澄み切った青空があった。このご飯を食べるわけにはいかないと思った。あのマンションまで、道順が分かるだろうか。これを返して、それから、自分の空腹はどうすればいいだろうか。純の空腹と道徳心をかき混ぜるように、青空の中を強い風が吹き渡っている。
 両手を擦り合わせて、純は容器を戻し、立ち上がった。この空腹は、一生自分が覚えている空腹だろうと思った。それで十分だとも思った。数回勝手に頷いて、純は食べ物を手に、走り出した。

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