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繋がりたい人と繋がれるって話。

どうも、アリス食堂です。

好きのご紹介、いまだ止まっています。今の流れからいって、私の事を話す時なんじゃないかと思っています。勝手に言っておりますが・・

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10月20日の満月の日、私の産みの母の命日でした。今回の命日は私の中で母と向き合ってみたいと思った日。これまで、そんな風に思った事は一度もありませんでした。

そういう流れもあり、今回は私の産みの母のお話をしたいと思います。

これから話す内容の記憶の部分で、読む方によっては辛く思われる方もいらっしゃるかもしれません。だけど、私は私のままを正直に話します。あなたの心の奥の何かと繋がれる、そういう気持ちも込めて。

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これから話す内容は、私のつぶやきです。

母は私が3歳の時に亡くなった。私は母のことが好きだったんだろうか?母が亡くなって悲しかったんだろうか?私の中でそういう感情がまるで残っていない。私は愛着形成が乏しいのだろうと思っていた。

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数少ない記憶を幾つか。

母のことを「かあちゃん」と呼んでいた。2層式の洗濯機の前に白い割烹着で立っている後ろ姿。

父と喧嘩して、出ていくと言ってタンスの引き出しを開けている母。私が駆け寄っていくと「順子も来る?」と聞いてきた。私は、もちろん行くという気持ちで大きく頷いた。そうしなかったら連れて行ってもらえなかったのか!?と、とても不安に思った。

この記憶からすると、私は誰よりも母が好きで一時も離れたくなかった。なので、愛着形成が乏しかったわけではないと思う。

入院した母の病室でラーメンと梨を食べた。ラーメンは熱くて食べられなかった。梨は梨の汁が服に付くと取れないからと、注意されながら食べた。

次は土葬の時。大きく深く掘られた穴の周りを人が取り囲んでいた。棺が紐に吊るされて穴深くに降ろされた。そこで私の記憶は止まっている。

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私の中でその時と繋がってみようと思う。私にスピリチュアルな力があるわけではない。そんな事、今まで感じた事もない。だけど、私が繋がりたいと思ったらできるような気がする。

3歳の私は母が大好きだった。一時だって離れたくなかった。母が亡くなって、どこをどう探しても見つからず、かあちゃんと叫んでも出てきてくれはしない。3歳の小さい心と体全部が悲しみでいっぱいだった。そして、何かがプツンと切れた。

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それからの私の人生で母の存在はない。というより、ひどい扱いだった。

母の遺影の写真を見ても全くピンとこない。心の奥の方では恨んだり、軽蔑していた気持ちもある。学校を早退させられてお寺のお経を聞いている時も、母方の祖母が私を見て泣く時も、頭も心も空っぽだった。

大人になって命日の度に父から「今日は何の日か知っているか」と電話がくるのがウザかった、苛ついた。

ずいぶん大人になって、洋服の入った箱を持ってきて「いるか」と父が言ってきた。その洋服から漂ってくる香りは母の匂いだった。私はすぐに「いらない」と言って立ち去った。

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ひどい人間だと思った。亡くなった人への敬意もない。何より人との関係を築けない。家族に対して。世間でいう家族との関係性。あとからきてくれた母に対して。仲良く話したり、一緒に料理したり、家族の一員として。到底出来なかった。

出来ない自分を恥ていたし、自分で自分に引いていた。だけど、どんな時も私の心の奥の方では何かがうずいていたのだと思う。でも、見ないように、触れないようにしていた。でないと、何かが湧いて出てきてしまう。いつかのあの時のように。

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5年ほど前に救急車で運ばれた。死ぬかも、そういう溶体だった。すぐに頭に浮かんだのは、まだ小さい息子の事。死にたくないと思った。息子にはまだまだ私が必要。

そのとき一緒にいた姉に抱きつき「姉ちゃん、助けて」と言った。そんな事初めてだった。誰かに素直に助けを求めるなんて。

姉は動揺しながらも「助けるよ」と言ってくれた。病院についても状態は変わらなかった。私は死にたくない、死にたくないと、どうにか自分の気持を落ち着かせていた。

だけど、それにも限界がきていた。だめだ、死んでしまうんだな・・

すると、私の目の前に産みの母があらわれた。

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「私はあなたにこれまで、ひどい事しかしてないのよ。だけど、こうやって、こんな時には助けてくれるのね」目の前の母につぶやいた。

「だけど、何故泣いているの?」目の前の母は泣いていた。

私の状態はそれから、徐々に落ち着いていって無事退院、そして今は元気でいる。

母親って凄いなと思った。亡くなって、この世にはいないとは言え、とても長い間、母を拒否していた娘を助けにきてくれる。私も同じ母親として、母親という生業がとても尊い事に改めて気付かされた。

母の涙は気になっていた。しばらくは、私はもしかして近いうちに死んでしまうのかな。そんな私が可哀想で泣いていたのかな、と思っていた。

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LINEのタイムラインで息子の友達のお母さんの投稿が目に入った。カラー診断始めます。集まりの時に少し話すぐらいの人だったけど、こんな事もするんだと思っていた。そして、その中の文章に目が奪われた。

内容は覚えていない。だけど、その時の私と同じ思いだった。コメントをして、それから直ぐにカラー診断を受けさせてもらえる事になった。

2人で会うと、彼女は実はとってもスピリチュアルな人なんだと知った。「カラー診断からも出来るし、スピリチュアルな方からも出来るよ。どうする?」そう言われて、「スピリチュアルな方からで!」とお願いした。

母の涙の理由が聞けると思った。彼女は私の話を聞いてくれた。そして、心におさまる感覚の言葉を幾つもくれた。彼女はこの今の時代の風に乗り、今では物凄い人となっている。

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その日の夜、彼女からメッセージをもらった。お母さんから受け取ったメッセージだよ、との事だった。

「これまで、我慢させてごめんね。私はあなたが生まれて本当に幸せをでした」

なんだか背中のあたりが温かくなるのを感じた。胸のあたりも温かい。温かい涙も出てきて、クッションに抱きつき声を出して泣いた。母がいてくれた時、母に構ってほしい時、母にしがみつく時、母の胸の中で、母を思う時、私はこんな風に泣いていたんだと思った。

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今年の10月20日の母の命日の日。満月のお月さまの力を借りて、私は母と繋がりたいと思った。

母と私の時間はどんな感じだったのか。母が生きた30年間は幸せだったのか。今は幸せなのか。そんな事を聞いてみたいと思った。

前に父が「持っておけ」と青いバッグをくれた。そこにはブローチや手袋、スカーフなどの服飾小物が入っていた。母が使っていたものらしい。

姉が前に教えてくれた。スカーフをしたり、オシャレな人だったよ、と。手袋は私の手にピッタリだった。スカーフは命日の日が寒かったので首に巻いて1日過ごした。

百合の花が好きだったらしい。私も百合の花が好きだ。よく家に飾っていた。香りが好きだ。命日の前の日にスーパーに行ったら、菊の花とカーネーションが気になったので買って家に飾った。

十戎という映画を観て、すごく感動したと言っていたらしい。信仰深い人だったのかな。

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母の命日のプレゼントに絵を描いてみた。少し漫画チック。だけど、別人ではないように思う。母は澄んだ人だった。髪を全部一つにまとめて、お団子にしていたからか、特に目が澄んでいた。

私の問について、言葉ではなく感覚だけど答えてくれた。私は手のかかる子どもだったけれど、可愛くて愛おしかった。人生で幸せだったのは私が生まれた事。私も息子が生まれて幸せだ。今が幸せなのかについては、柔らかく微笑んでいる。

唯一、言葉にしてくれたのは、私がしつこく信じられないと思っていた感覚について。いい加減、信じなさいと。この人が言うのだから、そうなのだろうと思う。

母は澄んだ人だった。特に目が澄んでいた。母から生まれた娘として、これから胸を張って生きていこうと思う。


今回はとっても長い文章となってしまいまいした。読んで頂いた事、感謝します。次回も金曜の夜に。

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