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ごめんねをためらわない

あ、今、傷つけたかもしれない
嫌な気持ちにさせたかもしれない、

そう思うと、心がひどく痛む。
前に誰かにつけられた、私の持っている傷が、
私がたった今つけた誰かの傷を想って、痛む。

受け取った思いやりや愛情は
ハッキリとしない形で、私の中に蓄積されてるはずなのに存在が曖昧で、
後ろ向きな、攻撃的な感情に揺さぶられている時ほど、主張して欲しいのに主張はなくて、ひっそりと息を潜めている。

傷ばかり、よく見えるところでいつも堂々としているし、思いやりや愛情が欲しい時ほど、うるさいくらいに主張する。

傷ばかり、その瞬間だけじゃなく、痛みは続き、どれだけ古い傷でも、断続的に、ふと思い出したように、永遠に、熱を持ち続ける。


どんな古傷でも痛みを発する瞬間の1つが、私が誰かを傷つけたと感じた時。

傷はぎゅうぎゅうと痛む。
自分の痛みじゃない、私が傷つけた誰かの痛み。

傷は、痛みを言葉のように巧みに用いて、伝えてくる。

傷は、愛情のように、相手に注がれるのではなく、刻まれるもの。
それは1人で密かに耐えようとすればするほど、深く深く刻まれるもの。

だから、自分がつけた誰かの傷に呼応して、自分の傷が痛む時、
その痛みにとにかく耐えて、痛みが過ぎ去るのを待とうとすれば、誰かの傷はますます深まり、自らの古傷も抉られたかのように血を流してジクジクと痛む。

だから、誰かに傷をつけたよと、自らの古傷が伝えてくれたなら、
1人で痛みに耐えているその人の顔が浮かぶなら、時を経ても思い出したように傷が痛んで辛そうなその顔が想像できるなら、自らの古傷の痛みを見て見ぬフリするのではなく、黙り込むのではなく、

1人で痛みに耐えようとする誰かの傍に座り、一言伝えたい。
ごめんね、と。
この気持ちを。

声は小さくていい、震えてていい。伝わることが、大切なのだから。
伝わればきっと、いつか、その人が痛みをグッとこらえるとき、踏ん張るとき、ぎゅと握る手のひらになれる。

#エッセイ
#コラム
#文芸

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