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BOOWYにまつわる噂のエトセトラ Vol.15-② ~解散諸説(2)「山下久美子のツアーに布袋寅泰がBOOWYの4分の3を連れていこうとしたことが原因で解散」説に対する私見②~

【お願い】

先に「解散諸説(2)『山下久美子のツアーに布袋寅泰がBOOWYの4分の3を連れていこうとしたのが原因で解散』説に対する私見①」をご覧になってから、お読み下さい。

なお、ここから先で紹介するエピソード、関係者の発言などは、先に書いた解散諸説に対する私見に引用したものと幾つも重複するが、この文章内で完結させることを目的としているので、その点はご容赦いただきたい。
また、繰り返しになるが、解散諸説に対する私見は、関係者の発言・行動、当時の音楽雑誌等の文献をもとに、私が推測想像したもの、すなわち、一ファンである私にはそう見えた、そう感じただけであることをご了承の上、読み進めていただきたい。

できることなら、文末の「出典・参考資料」の原文をご覧になり、御自分なりの答えを導き出していただければ幸いです。

【当時の出来事とそれに対する私見(前編)】

- 山下氏との出会い -

「布袋寅泰」と「山下久美子」の運命的な出会い
それは、BOOWYがブレイクの階段に足を掛け始めた1985年夏のことだった。
山下氏のサウンド・プロデューサーであった吉田建氏から布袋氏に声が掛かり、山下氏のアルバム「BLONDE」のレコーディングにゲストギタリストとして参加したことがきっかけであった。
その時、布袋氏はそのギタープレイで「シンガー」山下久美子の心を掴み、100本の薔薇の花束をプレゼントするなど、好きな人や利益をもたらしてくれる人にはとことんマメな(但し興味がなくなったら一転して相手への扱いが非常に雑になる)性格を遺憾なく発揮し、「一人の女」としての山下久美子の心をも掴んだ。(※4 P102-105)

二人の恋は、短期間のうちに激しく燃え上がり、知り合った翌月には、山下氏の住む高級マンションに布袋氏が転がり込む形で同棲が始まった。そうして1986年1月27日、山下氏の27歳の誕生日の翌日に、多くの人から祝福されながら2人は盛大な結婚式を挙げた。(※4 P108-115)(※5 P154)
感激のあまり結婚式で号泣する布袋氏の姿はあまりにも有名である。

知り合ってから僅か半年足らずで結婚したことからもわかるように、2人はすぐにお互いがお互いにのめり込んでいった。
布袋氏が山下氏とつきあい始めた直後、BOOWYは「BOOWY'S BE AMBITIOUS」ツアーに突入し、全国を回っていたが、山下氏はツアー先の京都まで布袋氏を追いかけていったという。
そうして布袋氏は、9月20日の京都公演終了後、山下氏を「彼女」としてBOOWYのメンバーに紹介し、メンバーからは「あの山下久美子と!」と驚きを持って迎え入れられた。(※5 P154-155)

2人のが激しく燃え上がる中、布袋氏が山下氏に対して独占欲嫉妬を丸出しにしたエピソードは数知れず。
山下氏は布袋氏の嫉妬心を「常軌を逸するくらい、強いもの」と形容していた。
起伏の激しい2人は嵐のように愛し合うと共に、激しくぶつかり合い、派手に喧嘩もした。
当時のインタビュー等で布袋・山下両氏が語っていたように、布袋氏は喧嘩で山下氏を投げ飛ばして山下氏の肩を脱臼させたり、鎖骨を折ったり、殴り損ねて布袋氏が自身の手を骨折したりと、まさに「恋と喧嘩の日々」が続く。あまりにも激しい2人のため、1987年1月に行われた山下氏の日本武道館ライブの後、少しでも血の気が失せるように、と2人で肉食をやめたエピソードも残っている。(※4 P115-121)

なお、布袋氏は、山下氏と結婚する前の1984年にも人(誰かは不明)を殴り損ねて右手小指を骨折し、BOOWYのライブでワンステージ代役を立てた経験がある。(※6  P65-66)
また、1986年11月に出演した「夜のヒットスタジオ」では、夫婦喧嘩で血が上って、山下氏を殴るに殴れずベッドを思い切り打って手首を骨折していたエピソードを明かしている。
さらに、1992年12月の「GUITARHYTHM WILD」ツアー延期の原因となった骨折が当時の妻の山下久美子を殴り損ねたためであることを自伝「秘密」で明かしており(※5 P221-222)、布袋氏は何回も人を殴り損ねて骨折している。(布袋氏の骨折自体は他にも多数あり。夫婦喧嘩で山下氏を骨折させた分も含めると更に増える。)これは、布袋氏が怒りの感情に支配されると、自身(又は相手)が骨折するくらいの強い力で相手を殴りつけようとするほど、我を忘れてしまう激情家の一面があることを示している。そうなってしまった布袋氏は、バンドにとって重要な時期だとか、ライブに支障がでるとか、そういった諸々が二の次になってしまうのだろう。

現在の感覚だと、布袋氏の行為はDV以外の何ものでもない。しかし鴻上尚史氏との対談で、布袋氏自身が「たまには夫婦喧嘩して。次の日はすごくキモチいい殴ったりもするし。お互いに。結局負けるのは俺ですけど。骨折もしょっちゅうしてます。カミさんの鎖骨折ったり、自分の手の骨折ったり」とあっけらかんと話しているので(※7 P93)、当時の感覚ではそこまで問題視されたり、批判されたりするものではなかったから、カットもされずに平気で雑誌のインタビューに掲載されたのかもしれない。
(注:決してDVを肯定するものではありません。)

このように、よく衝動の赴くままに自分より弱い者に対して暴力を振るう布袋氏ではあったが、山下氏は「闘いの星の支配からふっと解き放たれているようなときは、不思議なくらい静けさのある人」で、そんな時は「底なしのやさしさで私を包んだ」と述べ、布袋氏の尋常ではない起伏の激しさは「天才肌の人のみが持つ独特の振幅」と捉えて、そんな静かおとなしい側面があるから彼への嫌悪には繋がらなかったと後に語っている。(※4 P120)
山下氏との関係においてのみに限らず、布袋氏の暴力沙汰、特にを飲んだ際に布袋氏が手を付けられぬほど暴れたという逸話は数多く残る一方で、交友関係の多彩さ、広さも誇っており、この二面性も布袋氏の特長の一つであろう。

この時期、布袋氏が山下氏にどれだけのめり込んでいたかを示す一つの例として、「わがままジュリエット」制作時のエピソードがある。
「わがままジュリエット」は、1986年3月1日発売の「JUST A HERO」からの先行シングルとして、同年2月1日に発売されたBOOWYのシングル。
この曲を聴いたフジテレビのきくちP(当時は下っ端のAD)が上司に掛け合い、BOOWYの人気テレビ番組「夜のヒットスタジオ出演」が実現。(※8)当時はまだ「知る人ぞ知る」バンドでしかなかったBOOWYの世間への認知度を高めるきっかけとなった重要な曲の一つである。当時布袋氏の隣でBOOWYの活躍を目の当たりにしていた山下氏も「BOOWYのサウンドは急激に支持され」「そして『わがままジュリエット』で爆発に至った」と語っている。(※4 P118)

この曲は、氷室京介作詞作曲。
CDには「布袋寅泰編曲」とクレジットされるも、YUI MUSIC(BOOWYの所属事務所)とEARTH ROOF FACTORY(BOOWYのマネージャー土屋氏が代表)が監修したBOOWYのオフィシャルブックには、何故かわざわざ「『わがままジュリエット』のアレンジはほとんど氷室が手掛けている。」と書かれている不思議な曲。(※9 P131)
そして布袋氏は、近年は「「わがままジュリエットのギターはホール&オーツの「WAIT FOR ME」からインスパイアされたんですよ」と話している(※10)ものの、曲発売時には「(わがままジュリエットの)ギターソロは僕の奥さんの"星になった~”にインスパイヤされたもの」と語っている。(※11)
なお、山下久美子氏の「星になった嘘」は、ギター演奏は布袋氏だが作曲は亀井登志夫氏である。
ちなみに氷室氏は、ライブのMC(※12)で「佐久間正英さんという名プロデューサーが最高のアレンジを付けてくれた」曲の一つとして「わがままジュリエット」を挙げており、もうわけがわからない。

この曲をかつて氷室氏は「すごく思い出がある曲」と語り、その理由をこう話していた。

「わがままジュリエット」ってすごく思い出があるんだよ。あの曲を作った時っていうのが、ちょうど布袋が久美ちゃんとつきあいだした頃でさ。それまでBOOWYってずっと布袋がアレンジしてたのに、急に次は久美ちゃんのアルバムで忙しいから勝手にデモ・テープ作って、って言いだして。それがすごく悔しくて、でもその頃楽器なんて全然持ってないしさ。貯金全部はたいて楽器買って。それで一番最初にできたのが「わがままジュリエット」なんだ。(※13)

元々布袋氏は、一般層にBOOWYの活躍が知られるようになる前から、バンド外の活動にも熱心な人物であった。本人も「”BOOWY”ってバンドを中心に活動しているけれど、ギタリストとしての仕事は、無節操とも云うべく、数をこなしている」「我ながらなんて幅広い御活躍におならが出てしまいそう」と自画自賛するほど。(※14)
そこでの人脈や仕事ぶり(勿論BOOWY本体での活動も)評価され、また、大酒飲みで社交的な性格もあって、さらに別の仕事のオファーも入って来る。本人も「何でもやるよ」なスタンスであったようだ。そういった中で吉田氏から声が掛かり、山下氏の仕事にも呼ばれることになったと思われる。

当時の山下氏は、布袋氏曰く「総立ちの久美子の異名」を取り、「ヒットチャートの常連」の「押しも押されぬ大スター」。しかも吉川晃司氏ら数々の有名芸能人が所属する超大手芸能事務所「渡辺プロダクション」所属。
一方のBOOWYはブレイク直前で、一般的な認知度は低かったと言われている。実際、当時の2人の結婚に関する記事でも、スタ-山下久美子が無名バンドのギタリストと結婚したというような扱いで、2人の結婚発表についても、週刊誌には「実はこの2日前に布袋クンが所属するロックグループBOOWYのコンサート会場でも同じように宣言したんですが、久美子の発表の方が話題を撒いてしまったのです」と書かれたりもした。(※15)
所謂格差婚である。

そんな大スターとの仕事で、関わるスタッフも一流どころ、布袋氏にとってはビッグチャンス。まして仕事相手は愛しい女性。それはもう、必要以上に力が入るのは想像に難くない。しかし、布袋氏の活動の本体であるBOOWYも、バンドにとって大事な初の全国大規模ツアーが始まり、新アルバムのレコーディングも始まる多忙な日々。そんな殺人的スケジュールの中で何を優先するかとなった時に、真っ先に切り捨てられたのが、「自分が作曲したわけでもないBOOWY楽曲のデモ作り」。
布袋氏のその気持ちは理解できなくもない。

そうはいっても、それまでそうやってBOOWYの楽曲制作を行ってきたBOOWYのメンバーにとっては寝耳に水の話。BOOWY本体以外の活動の方を優先するのか!という反発は当然あったろう。
ただし誤解していただきたくないのは、布袋氏に拒絶された氷室氏が当時それを「すごく悔しく」思ったことは事実ではあるが、決してそれを恨んだり引き摺ったりはしていないことだ。もしもその悔しい気持ちが昇華されていないのであれば、氷室氏はそれを口にしないタイプ。(だと思う。多分。)今まで伝わっている様々なエピソード(語ると非常に長くなるのでここでは割愛する)から判断するに、氷室氏の場合、他者から自分を軽んじられた場合は、相手に怒りを覚えるのは当然として、それ以上にそう扱われてしまう自分のふがいなさに怒りを覚えるタイプ。一番の怒りの切っ先を自分に向ける人。だからこそそれに奮起して自分で一からデモを作り、楽曲「わがままジュリエット」を制作した。そうして作った楽曲が評価された。恐らくそれで氷室氏の中では片が付いた問題となっている。
むしろ「この時自分で機材を揃えて一からデモを制作した経験がなければ今こうして35年後に歌っている俺はいない」と言い切ってしまえるほどにポジティブに捉えている。(それをもって、「布袋氏がこうしたことで氷室氏の才能を開花させた。氷室氏がソロ活動でも成功を収めたのは全て布袋氏のおかげ」「布袋氏が解散を言い出したからこそ今のソロアーティスト氷室京介があるので氷室氏は布袋氏にもっと感謝を示し、布袋氏の共演の願いを叶えるべき」などと滅茶苦茶な主張をされる布袋氏の盲目的信奉者もいらっしゃるが、さすがにそれは恩着せがましすぎるのではないかと…。)

ただ、解散後の氷室氏の心情はともかく、これは、概ね同じ方向を向いていたはずのメンバーの視線の先がずれ始めていったことを示す重要なエピソードであるように思う。
当時、「JUST A HERO」のトラックダウンを終えてベルリンから帰国したばかりの氷室氏が、これからのBOOWYの進路を問われ、「何々がやりたいとか、何々を守らなきゃいけない、とかそういう感覚が出て来たら、もう4人がバラバラになるべきだと思うのね、俺は。」(※16)と返していたのは、BOOWYのその後を暗示していたかのようで非常に興味深い。

また、布袋氏は、「JUST A HERO TOUR」中に書いたと思われる「PLAYER 1986年6月号」の「R&Rギター講座」において、「帰結へ向けての第一歩、武道館。」という意味深なタイトルが付けられた記事を投稿した。その中で布袋氏は「僕らの夢は解散なのです。思い切りやり尽くして、気持ちの良いケジメをつけるという事。今回のツアーも武道館もそのための1歩」と書いた。(※17)
この時点で既に布袋氏は解散を考えていたことを伺わせて、こちらも興味深い。

さて、布袋氏が山下氏と付き合い始めて間もない時に完成したBOOWYの「JUST A HERO」だが、このアルバムはBOOWYメンバーによる初のセルフプロデュース作品であった。
前作のプロデューサーであった佐久間正英氏はサウンド・アドバイザーで参加するものの、布袋氏がサウンド・プロデュースを務め、氷室氏は作詞に専念するなど、分担作業となったアルバムとのことである。
氷室氏にとっては「BOOWYのアルバムの中ではいちばん好き」「ピークっていうのは、表現としてやるべきことは全部やったんだって意味合いとそれが受け止められて評価やセールスになる二つの意味合いがあるね。『JUST A HERO』は前者の意味でピークだと思った」(※18)と後に語るほど満足度の高いアルバムであった。

また、メンバーの高橋氏が語るところによると、それまでの最優先は全力でライブをこなすことだったが、この頃から「音源を残す」という作業に対してより意識的になったそうだ。そして「この時期の布袋の音楽的成長は目覚ましいものがあった」と当時を振り返っている。(※1 P124)

このアルバム発売を受けて行われたBOOWYの「JUST A HERO TOUR」は、全国35箇所36公演という大規模なもの。ツアー最終日にはBOOWY念願の日本武道館で公演を行った。この時氷室氏が放った「ライブハウス武道館へようこそ!」の言葉は今なお語り継がれる名言となっている。

そうしてBOOWYは、同ツアー終了後の1986年11月8日に発売された5thアルバム「BEAT EMOTION」で、とうとうオリコン初登場1位を獲得した。

こうやってBOOWYが次々と夢を叶えていっているのに合わせ、布袋氏も(主に業界人から)次第に高く評価されるようになっていった。この時期の布袋氏を「いままでマグマのように溜め込んでいた才能を、一気に噴出していった。それは傍らで見ていても、すさまじいとしか言いようのないパワーだった」と山下氏は形容している。(※4 P118)

布袋氏と結婚した山下氏は、まず、自身の楽曲を布袋氏がプロデュースをすることを望んだ。
「サウンド・プロデュースの実績がないこと」を理由に山下氏のスタッフは反対したが、それを山下氏が押し切るような形で、まずは1986年6月21日発売のシングル「FLIP FLOP & FLY」のタイトル曲の作曲・編曲を布袋氏が手掛けた。(※4 P117)

そして、イベントでの山下氏とBOOWYとの共演、山下氏のライブへの布袋氏ゲスト出演などを経て、布袋氏は初めて山下氏のアルバムのサウンド・プロデュースを務めることになる。
そのアルバムこそ、1986年10月21日に発売された「1986」。
山下久美子三部作もしくはロックンロール三部作と称される作品群の1作目である。
このアルバムは、これまでの山下久美子を打ち破った作品と評され、それまでの山下氏のファンの中にはこの路線変更に戸惑いを覚えたかたもいらっしゃったようだが、当時のアルバム評などを読むと、概ね好評価であったようである。また、布袋氏もその仕事ぶりが非常に高く評価された。

元々布袋氏は、BOOWYブレイク前のライブハウス時代から、そのギターワークはそれなりに高く評価されていたようだ。当時の音楽雑誌の記事等から判断するに、特に玄人ウケしていたというか、いわゆる「業界人」から評価されていたように感じる。
それがBOOWYと山下氏の作品に対する仕事ぶりで、更に高く認められるようになった。そしてその仕事ぶりと「大スター」山下久美子の夫という立場信用を手に入れたことで、交友関係人脈も爆発的に広がっていったものと思われる。但し、その山下氏絡みの交友関係の広がりは、「一ミュージシャン」としての布袋寅泰はともかくとして、BOOWYという「バンド」にとっては、決して良いことばかりではなかったと、私は感じている。(理由は別の解散の噂の記事で触れられればと思っている。)

- アルバム「1986」への参加 -

さて、高い評価を得た山下氏のアルバム「1986」について、サウンド・プロデュース及びギターを布袋氏が務めたことは有名だが、実はこの時、他のBOOWYのメンバーである松井氏と高橋氏もゲスト参加している。
メンバーだけではない。BOOWYのスタッフであるゾンビ氏もローディーとしてこのアルバム制作に関わったそうだ。
この時の様子を、布袋氏はこう語っている。

みんなにとっては、例えばロケッツ組にしてもBOOWY組にしても、やっぱり山下久美子という存在は大きいものだし何度も耳にしたことがあるし…。だからマコッちゃんとかも「え、参加できるんだ!」みたいな感じで、ゾンビ(注:BOOWYのローディー)とかすごいファンだから、やたら楽器運びたがったり(笑)。で、みんな自分でやってる事に自信を持ってるんだけど、それが他で生かされるかどうかについては不安を持ってるわけ。でもやり終えたら、それがバシッとヒットしたみたいな感覚を、みんな持ったから、すごく気持ちよさそうだった。(※19 P71)

BOOWYがまだ売れていなかった頃、ライブハウスでのBOOWYのステージを見てファンになり、楽器運びを手伝うようになった少年が2人いた。
BOOWYがユイ音楽工房と契約する時もメンバーと行動を共にした彼らの愛称が”ゾンビ”鈴木氏と”ワンワン”関口氏。
布袋氏も、「僕のローディーは“ワンワン”という子。もう一人ドラムの方を担当してるのがゾンビ。2人はBOOWYがデビューした頃からライブハウスに通ってて。その後ずーっとついて来るの。独立したりしてつらかった時とか、金ももらえないのに、ニコニコ楽器運んでネ。」と語っている。(※20 P251)
BOOWY解散後は、ゾンビ氏は氷室氏のマネージャーとなり、ワンワン氏は布袋氏のマネージャーとなった。ワンワン氏は現在どうされているかはわからないが、ゾンビ氏はずっと氷室氏の側に侍り続け、「KYOSUKE HIMURO LAST GIGS」福岡公演のMCで、氷室氏が「マネージャーのゾンビって奴が~」と話題に出されたほど、長年にわたって氷室氏が絶大な信頼を寄せていた人物。(※21)

布袋氏は、そのゾンビ氏までも山下氏の仕事に一緒に連れて行ったと語っている。
布袋氏の口ぶりだけから判断するならば、山下氏の大ファンだったご本人が望んだことのようだが。もっとも、本人の希望でなかったとしても、ドラムのローディーをやっていたのであれば、高橋氏が参加するので自動的に参加する流れにはなるだろう。
ゾンビ氏も行ったのであれば、恐らく、いつも布袋氏に付き従っているワンワン氏は言わずもがな。BOOWYの4分の3どころではない。BOOWYのメンバーと苦難を共にし、一緒にユイ音楽工房にやってきたスタッフのゾンビ氏、ワンワン氏も加えて、これまでBOOWYを形作ってきた仲間のうち少なくとも5人までもが山下氏のアルバムに関わったとも言える。

果たしてこの時、布袋氏から氷室氏への事前相談はあったのだろうか。
それについては何ら言及がされていない。

ただ、山下氏のツアー参加時点とは少々状況が異なるとは思う。
「1986」は、布袋氏にとっては愛する妻のサウンド・プロデュース・アルバム。「大スター」山下久美子に相応しく、参加ミュージシャンも一流どころで、実績がある諸先輩方々。山下氏自身は強く望んでいたものの、山下氏のスタッフは布袋氏の起用に懐疑的な状況。とはいえこの仕事を成功させれば布袋氏が大きく羽ばたくチャンス。そんな布袋氏にとっては不安いっぱい、夢いっぱいの中、他に頼る人がいない布袋氏から「手伝って」と声を掛けられたら、気心の知れた仲間として一丁一肌脱ぐか!的な気持ちにメンバーやスタッフがなっても不思議ではない。

そして、BOOWYで作曲するのは、ほぼ布袋氏と氷室氏の2人。2人が作ってきた曲を持ち寄って選曲会議で収録曲を決定するのがBOOWYのスタイル。作詞はほぼ氷室氏のみ。編曲はほぼ布袋氏。そんな2人に比べれば松井氏や高橋氏が、レコーディングやツアーの合間を縫って山下氏のレコーディングに参加することは、スケジュール的な面でもハードルが低いと思われる。

また、色々格好付けてはいるとはいえ、BOOWYのメンバーは元来素朴な兄ちゃん。撮影している隣のスタジオにアイドルが撮影していると聞きつけるとみんなで観に行ってしまうようなミーハーな側面もある。だから、布袋氏が語るように「大スター」山下久美子の仕事に関われる!とメンバー達が喜んだのは当然あるだろう。山下氏のファンであるならば余計に。

BOOWYもブレイクし始めていたとはいえ、レコーディングの時点では、まだそこまで爆発的な人気を博していたわけではない。
だから、もし氷室氏へ事前相談があってやったのであれば、氷室氏も決して反対するような案件ではなかったと思うのだ。

スタッフまで連れて行ったからには、さすがに事前に話は通していた(と信じたい)とは思うが、万が一氷室氏へは事後承諾であったとしても、この時はそこまで大きな問題にならなかったのかもしれない。

この時だけ」で終われば。

「1986」発売にあわせ、布袋氏は山下氏と一緒にいくつかの音楽雑誌からインタビュー取材を受けている。
その頃のBOOWYのメンバーの一員としてのインタビューと比較すると、「1986」のインタビューとのテンションの違いに戸惑う。「1986」のインタビューでは、はしゃいでいるというか、受け答えがとても楽しそうだ。

決してBOOWYとしてのインタビューがつまらなそうだというわけではない。ただ、「1986」発売直後に行われた「BOOWYの布袋寅泰」としてのインタビューでは、「(氷室氏とのパートナーシップは)とりあえずここで止るんじゃないかなっていう気がします」「無理矢理そのBOOWYを長引かせてずっと続けていくよりも、自分の人生をBOOWYの中で楽しもう」等々、BOOWYや氷室氏に対して距離感を感じるような発言が散見される。(※22  P76-77)
また、BOOWYのライブで自分のギターに注目しないファンが増えたことへの恨み節もこの頃から混じるようになっている。一方で、山下氏の仕事のインタビューはとても自由にのびのびと楽しげに話しているような印象を受ける。

実際、「(「1986」のレコーディングは)BOOWYのレコーディングより楽しい」と言ったり、山下氏に「BOOWYのレコーディングやってると、オレもうめんどうくせえ」と話していたことのをバラされたり…。(※23 P22)
ホームグラウンドであるBOOWYへの甘え気安さがあってこその発言であるとは思うが、BOOWYの曲のデモ作りを拒絶したり、山下氏のレコーディングにBOOWYメンバー3人+スタッフを連れて行った後の発言だと思うと、山下久美子 > BOOWYの気持ちを率直に表現しているようにも感じられる。

この時の布袋氏と山下氏の対談の中で、私が一番気になった箇所がこれ

布袋:とにかくアイデアを出しつくしたって感じ。BOOWYのレコーディング何をやろうかってすごい不安がある。
山下:とりあえず、だから私が一番得したって感じ。
布袋:そうですよ、いいなあ(笑)。BOOWYでリハやってると、これってどこかで聞いたかなって。で、マコッちゃんが「これ” No more Rumour”じゃねえか」って(笑)。(※19 P73)

この取材は、10月21日のアルバム「1986」の発売に先駆けて行われたもの。
対談中に出てくる「No more Rumour」というのは、「1986」の収録曲で勿論布袋氏作編曲。
リズム隊に松井氏と高橋氏を起用した、山下久美子 + (BOOWY - 氷室京介)な曲。

BOOWYのリハで、発売前の、つまり関係者以外知らない山下氏用の楽曲を演奏した布袋氏。
その曲は、松井氏と高橋氏がゲスト参加した山下氏の曲だった。
その山下氏の新曲とBOOWYの曲を間違えて。
さらに間違いをメンバーから指摘されて。
そして、対談でのBOOWYではもうやりたいことはないとも受け取れる発言。

氷室氏だけが関わっていない曲。
氷室氏だけが知らない曲。
BOOWYのリハで、山下氏の曲を弾いてしまう布袋氏。
「これBOOWYじゃなくて久美ちゃんの曲じゃねぇか」と盛り上がるメンバー達。

きっつう。

布袋氏側の立場に寄り添って考えるのであれば、「この頃の布袋氏は『BOOWYの仕事』と『山下氏の仕事』の二足の草鞋で超多忙なので仕方がない」「信頼し合ってる仲間同士だからこそ言える軽口」「若さゆえの配慮のなさを咎めるべきではない」そう擁護できよう。
もしも、布袋氏が氷室氏に「久美ちゃんのアルバムで忙しいから勝手に~」と言い放った後のエピソードでなければ。
もしも、布袋氏が「JUST A HERO TOUR」中に、「今回のツアーも武道館も解散という僕らの夢のための1歩」なんて文を雑誌に寄稿していなければ。
もしも、この数か月後に布袋氏がメンバーに解散を切り出してさえいなければ。
多分私も、ここに引っかかりを覚えたりはしなかっただろう。

誤解のないように言っておくが、この件についての氷室氏のコメントは何もない。
「きつい」というのは、後から布袋氏のインタビューでこれを知った部外者の私が、どういう流れの中での発言なのかを考えて感じた「私」の想い。実際に氷室氏がどう思ったのかは、氷室氏以外は誰もわからない。
けれど、「このようなこと」を一つひとつ布袋氏が積み重ねていって、高橋氏が山下氏のツアーのオファーを受けた頃には、メンバーでさえも「まるで氷室を除け者にしているようで、まずい」と感じてしまうような状況が布袋氏の手によって作り出されていたのではないか。私にはそう思えてならない。

「1986」の時点で既に、「氷室氏とのパートナーシップはとりあえずここで止るんじゃないかな」と言っていた布袋氏。(※22 P77)
ほぼ同時期に「この4人でならまだまだいろんな事にトライできると思ってる」と言っていた氷室氏。(※24 P121)
丁度この頃、マネージャーの土屋氏が紺待人名義で、「大きなビートの木の下で」(1986年12月5日発売)を執筆中であったのが何とも皮肉である。
4人がBOOWYになるまでの物語が紡がれている最中に、現実世界では4人がBOOWYでなくなっていく序曲が奏で始められていたようで。

- チャート1位獲得 -

1986年11月8日、BOOWYは5thアルバム「BEAT EMOTION」を発売し、念願の1位を獲得した。
それから約1か月後の1986年12月16日に、長野市民会館でのライブ終了後、ホテルのバーにてメンバー全員解散について話し合ったという。
先述の通り、高橋氏が語るところによると、解散の話を切り出したのは布袋氏
「それぞれが自分自身のことを考えながら、やがて一本立ちできるような方向へ」進むことを布袋氏は望んだ。(※1 P138-139)

解散を言い出したのは、布袋氏で間違いない
高橋氏だけでなく、松井氏も布袋氏自身も、「布袋氏が解散を切り出したこと」を認めている。(相変わらず氷室氏はこういうことについては発言しない。)

松井氏は「いつだったかはっきり覚えていない」としつつも「布袋くんから『辞めたい』という話があった」。理由は、「海外で自分の可能性を試してみたい、いつかデヴィッド・ボウイの横でギターを弾けるようになりたいんだ、という話だった」と。一方で「ただ、本当に、それだけがバンドを辞めたい理由だったのかどうかは、布袋くん本人にしかわからないこと」とし、布袋氏にとっての解散理由はそれだけではなかったのでは、という含みを持たせている。(※25 P101-102)

布袋氏は、解散後間もない1988年4月頃に受けたインタビューでは解散の経緯をこう語っている。

「僕はその頃ちょうどすっごいね、海外に出たかったんですよ。1位という座も手にしたし――僕の切り出し方としては、すごい我儘な切り出し方で――もうちょっと大きいところで勝負がしたくなった、みたいなさ。 だから俗に(フォーカスとかで)言われているような意味での解散っていう言葉の出し方じゃないんですよ。例えば、もうやりたくない、もう行くとこまで行ったからやめようぜ、とか、そういう言葉はなかったな。で、みんなしっかりしてきたしたくましくなってるし、別に(ヒムロックにしても)俺といなくても平気じゃん、みたいな、 そういう切り出し方だったな。」
- みんなの反応は?
「んー、黙る人もいれば……ヒムロックは『うん、そうだな』って言ったな」(※3 P20)

もっとも2006年2月に発売された自伝「秘密」では、

「BOOWY解散の謎……。それは永遠に謎のままであってかまわない。」
「俺が死ぬまで、謎は謎のままであってほしい。」
「四分の一の存在が解散の理由を軽々しく語ってはならないと思う。」
「結成以来、揺れに揺れ続けてきたバンドを崩壊に至らないよう手を尽くしてきたのも俺である。俺がBOOWYを愛していなければずっと昔に解散していたはず。最後の最後で俺がワルの役を買って出ただけの話だ。俺には俺の、”絶対に解散せねばならない理由“があった。しかし、その理由は墓まで持って行くつもりだ。」(※5 P173~174)

などと語り、真の解散原因は布袋氏にはないかのように匂わせている。

だが、布袋氏は自伝でそう書いていても、1988年の布袋氏自身のインタビューや、他のメンバー2人が自伝で語った「解散について」。
これらを読めばわかるとおり、布袋氏はもう既に「海外進出への夢」という「布袋氏にとっての解散理由」を語っている。「BOOWYをやめてからは海外進出を目指すからって、ヒムロックと約束した」と後に語っていたこともある。
但し、布袋氏が解散を提言した時期以前に海外進出の夢を語ったインタビューは見当たらず、解散直後の海外進出もあまり本気度が感じられるような活動でもなく、一緒に独立していった松井氏の自伝にも「バンドを辞めたい理由が海外進出だけだったのかは布袋くん本人にしかわからない」と意味深に綴られているため、果たしてどこまで信じて良いものかはわからないけれども。

それでも、少なくともメンバーに対しては、自身の海外進出を盾に解散(又は脱退)を迫ったことは事実なのだろう。
だのに、布袋氏の自伝では、まるで解散が先に決まり、その喪失感を埋めるため、BOOWYの次に見出した新たな夢として、海外進出を目指したかのような描写となっている。
布袋氏の自伝の書き方では、BOOWYが解散する原因が自身にあると批判されたくなくて、わざと解散は「謎」だと有耶無耶にしているようにも見える。さらに、「謎のままであってほしい」と言うことで、解散原因について詮索されることを望まない意思を示し、責任逃れをしているだけのように感じてしまうのだ。
ただし、後追いで布袋氏の自伝程度しかチェックしていないファンなどが「解散の理由は本人達にしかわからない。そこに部外者が迂闊に触れてはいけない。布袋さんばかり悪く言われて可哀想」と言っている姿も見かけるので、プロパガンダとしては大層有効であったといえよう。(旧来のファンには呆れられるという代償は支払ったが)

このように布袋氏は、後年、解散理由を誤魔化してはいるが、自伝においても「解散を最初に言い出したのは俺」と解散の口火を切ったのは自身であること自体は認めている。そこで、メンバー個人としての解散理由の変遷はともかくとして、布袋氏が最初に解散を言い出したことは事実であることを前提に、以下進めていきたいと思う。


解散諸説(2)「山下久美子のツアーに布袋寅泰がBOOWYの4分の3を連れていこうとしたのが原因で解散」説に対する私見③に続く。

※「出典・参考資料」は「解散諸説(2)『山下久美子のツアーに布袋寅泰がBOOWYの4分の3を連れていこうとしたのが原因で解散』説に対する私見④」の最後にまとめて掲載する。


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