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BOOWYにまつわる噂のエトセトラ Vol.15-③ ~解散諸説(2)「山下久美子のツアーに布袋寅泰がBOOWYの4分の3を連れていこうとしたことが原因で解散」説に対する私見③~

先に、私見①私見②をご覧になってからお読み下さい。

【当時の出来事とそれに対する私見(後編)】

- 解散についての話し合い -

山下氏の「1986」発売から約2か月後、1986年12月にBOOWYのメンバーで解散についての話し合いがなされた。
それは、布袋氏が「バンドの解散」(もしくは「バンドからの脱退」)を望んだからであった。
この時に解散の話し合いがもたれたことをもって、「この時点で解散が決定していた。だから布袋氏が山下氏のツアーに2人を連れてこうとしたのが解散の原因ではない」という意見もある。
しかし、BOOWYの「完全オフィシャルBOOK」という触れ込みの「BOOWY B to Y」では、この時の話し合いの結果をこう書いている。

それまでも解散話はよくあったが、あくまで冗談レベルだった。とりあえずオフをとって、もう1枚アルバムを出そうという方向に落ち着く。(※9 P136)

オフィシャルブックを信じるならば、この時点ではまだ正式に解散は決定していない
布袋氏も、メンバーに解散を切り出した時は「その場で『そうか、じゃあ解散しよう』みたいな話ではない色々考えてやってみようみたいな」と語っている。(※3 P20)

布袋氏が本気で解散したいと思っていることはわかった。しかしながら、バンドは一人だけで成り立つものではない。4人で一つのバンドだ。布袋氏一人だけ脱退すればすむという話でもない。しかもブレイクし始めたばかりで、支えてきてくれたスタッフや事務所、レコード会社の事情思惑も全く無視できない。お互い少し頭を冷やしてよく考えてみよう。それからどうするか、もう一度話し合おう、みたいな感じだったのではないか。
この時点では。

オフィシャルブックであっても、必ずしも真実だけを書くとは限らない。むしろ、オフィシャルブックであるからこそ、バンドにとって不利になるようなことは触れないか、誤魔化そうとしたり、公式の都合の良い方向へ思考誘導するような書き方をしたりすることもある。
ただこの場合、この時点で解散が確定していたと確信するに足る証言証拠は見当たらない。

ゆえに、高橋氏が自伝で書いたように、この時点では「布袋以外は本当に解散することなど誰も現実的に考えていなかった」状態で、「解散の2文字が具体性を帯びて」きたのは、1987年2月24日、「『BOOWY ROCK 'N ROLL CIRCUS TOUR』の最終日。日本武道館でのライブが終わった後」であったと推測する。
よって、「長野のライブの時点で解散が決定していた」という説を私は採らない。
この長野での話し合いについても、同一人物が「メンバーだけで話し合った」「スタッフも交えて話し合った」という両方の説を唱えるなど、色々ブレがあったりするので。
仮に長野で解散が決定していたとしても、後述の山下氏のツアーバンドの件に代表されるような布袋氏の行動のあれこれが許されるわけでもない。むしろ解散が決定していたのに山下氏のツアーバンドの件を起こしたのであれば、より悪辣である。解散決定前なら仲間意識に甘えた無配慮ですませることも可能かもしれないが、決定後なら完全なる悪意作為的に仕組んだ出来事となる。「色々考えてやってみよう」と語っていた布袋氏が引き起こした「山下久美子ツアーバンド事件」。これが解散に積極的ではなかった氷室氏に対して布袋氏が考えついた「色々」だなんて、いくら人間性に悪い意味で定評のある布袋氏とはいえ、さすがにそれはちょっとどうだろうか。

解散こそ確定しなかったが、この話し合いによって、布袋氏が真剣に「バンドの解散」(もしくは「バンドからの脱退」)を望んでいることは、バンド内に周知された。
何かトラブルがあった時に「もういい、解散!」となったり、不遇時代から一種夢物語的に「完成形に達したら解散」と言ったりということはそれまでにあったようだが、それとは全く違う。布袋氏がある程度本気に解散を考えていることはメンバーに伝わった。バンドとしては多少なりとも不穏なものを抱えながら活動を続けていくことになっただろう。

そんな状況の中「ROCK 'N ROLL CIRCUS」ツアーは続く
山下久美子氏初の日本武道館公演が開催されたのは、このツアー中の1987年1月7日のことであった。
ギターはもちろん布袋氏。この時のベースはシーナ&ザ・ロケッツの浅田孟氏で、まだ松井氏は参加していない

松井氏が初めて参加した山下氏のツアーは、1987年3月15日から4月5日に開催された「ROCKIN' ROULETTE '87」全7公演。
当時の音楽雑誌の記事を読むと、松井氏の参加は事前に告知されておらず、シークレット出演であった模様。
その後、松井氏は、山下氏のアルバム「POP」にもゲスト参加した。
この「POP」は、山下久美子三部作の2作目。BOOWYが1位を取ったシングル「MARIONETTE」の前日、1987年7月21日に発売されている。(ウイークリーチャートの関係で通常レコードは水曜日発売が多いのに、「POP」は火曜日発売。翌水曜日に発売された「MARIONETTE」は、BOOWY初のシングル1位。この発売日決定の裏側には色々駆け引きがあったのではないかと想像すると面白い。)

松井氏は、この後も布袋氏と共に山下氏のツアーに参加している。
BOOWYのLAST GIGSまでに、「DIVE into TOKYO Bay」(1987年8月開催)や「ACTRESS OUT OF THE BLUE」ツアー(1988年1月から2月まで)、さらに、1988年3月から始まった、山下氏のアルバム「Baby alone」のレコーディングにも布袋氏と共に参加した。
BOOWYのラストイヤーは、布袋氏だけでなく松井氏もBOOWYの活動と並行して、山下氏の仕事を手伝い続けていたのだ。

- 山下氏のツアーへのオファー時期 -

高橋氏は、「松井も同行した久美ちゃんのツアーに、実は俺も誘われていた。」と自伝に書いた。(※1 P140)

さて、問題です。
山下氏のツアーに高橋氏が誘われた時期は『いつ』でしょうか。

高橋氏の自伝には、氷室氏に高橋氏が山下氏のツアーに誘われた事情を話したところ「即『来月解散しよう』という話」になり、「そんな経緯があって、氷室は『もう知るか』とばかりに単身ロンドンへ飛んで行ってしまった」とある。

氷室氏が「PSYCHOPATH」の曲作り(という名目に当時の音楽雑誌ではされていた)を兼ねた休暇でロンドンに旅立ったのは、1987年3月17日。
氷室氏がロンドンに長期滞在している時に、東芝EMIの子安ディレクターとユイ音楽工房の糟谷プロデューサーがロンドンまで氷室氏を追いかけていき、「もう1枚だけやろう。1位を取ったといってもまだシングルでは1位を取っていないじゃないか。シングルでも1位を取ろう」と説得したエピソードが残っている。子安氏は、半分無理かもしれないと思いつつ、氷室氏を説得しにロンドンまで行ったとラジオで語っていた。(※26)「BOOWY B to Y」においても「とにかくバンドは止めるという話だった」と述懐している。(※9 P96) 
つまり、1987年春の時点では解散は既定路線であった。
従って、高橋氏が誘われた山下氏のツアーというのは、1987年3月15日からの「ROCKIN' ROULETTE '87」であると考える。

この3月からのツアーに先駆けて、山下氏は1月7日に日本武道館で公演を行った。
1月公演後、気になることを山下氏は音楽雑誌に寄稿している。

「3月、4月と、6ヶ所ツアーをやるから、武道館に来れなかったひと、ぜひ来て欲しいヨッ!ドラムの山木サンはちょっと出れないけど、あとのメンバーは同じでやるから。もちろん布袋も参加してくれるしねっ。」(※27)

(注)渋谷公会堂が追加となって実際には全7公演となっている。

この記事の中で、山下氏は1月31日にお亡くなりになった事務所社長の話や2月2日に行われたという松井氏の結婚式の話をしていた。
掲載誌が「B-PASS 1987年4月号」(1987年2月27日発売)であることを考えると、山下氏がこの文章を書いたのは恐らく2月上旬。BOOWYの「ROCK 'N ROLL CIRCUS TOUR」は2月24日まで。つまりこの文章は、BOOWYのツアー終盤に書かれたものと推察する。

3月15日からスタートする山下氏のツアーは、ドラム以外のメンバーは「1月公演と同じ」でやると山下氏は書いた。ドラムは1月公演が山木秀夫氏、3月からのツアーが古田隆氏。1月公演のベースは浅田孟氏。そして3月に始まるツアーから参加したのが松井常松氏であった。

当時の音楽雑誌の記事を読むと、松井氏はシークレット出演であったという。
となれば事前の取材では話せない。それはわかる。
しかしそうなると、山下氏が「ドラム以外のメンバーは同じでやる」なんて書き方はしないのでは?とまず疑問に思った。他のメンバーは同じだなどとわざわざ言わず、単に「ツアー是非来てね。布袋も参加するからね」だけでいい。
また、変わることが明言されていたドラムも、3月からのツアーメンバーが古田氏という売れっ子で、事前にスケジュールを押さえておかないと難しかろうことを考えると、実はドラマーとして高橋氏が参加予定であったが後から松井氏の参加が決定したとも考えにくい。勿論可能性はゼロではないが、そうなると氷室氏の幼なじみでもあったはずの松井氏が、BOOWYの4分の3が参加することになることを承知の上で、氷室氏に黙ってオファーを受けたことになるので、それもなんだかなぁ…と。

従って、山下氏の言葉が正しければ、この文章が書かれた時点(2月上旬と推定)では、1月公演と同様にベースは浅田氏の予定だった。つまり、まだ松井氏と高橋氏への参加オファーはなく、BOOWYの「ROCK 'N ROLL CIRCUS」ツアーの終盤になってはじめてオファーがあったのではないか、と私は考えた。もしかすると「メンバー本人の同意を得るまでは」と山下氏には伝えられてないだけで、オファーは先にされていた可能性もなきにしもあらずだが、それにしたってBOOWYのツアーが始まる前だとは状況的に考えにくい。

実際に何日にオファーがあったのかまではわからない。
また、高橋氏にオファーがあった時、既に松井氏の参加が他のメンバーに知らされていたのか、それとも高橋氏もオファーの時に松井氏も参加することを知らされたのか、「スネア」の文章だけでは判断することはできない。布袋氏の参加だけは予めわかっていただろうけれども。
いずれにせよ、「BOOWY ROCK 'N ROLL CIRCUS」ツアー終盤に、氷室氏は山下氏のツアーバンドの件を知らされたのだと思われる。だからこそ事情を聞いた氷室氏の反応は、「今すぐ」でも「明日」でもなく「『来月』解散しよう」だったのだろう。
2月末にファイナルを迎えるBOOWYのツアーが終わってから、と。

この「事件」があったからこそ、2月24日のツアーファイナルの夜に、メンバーとスタッフが集合して、具体的に解散に向けての動きとその確認を為す必要が生じたのだと思われる。

ツアー終盤ともなると疲れも溜まってきて、よりナーバスにもなる時期だろう。ましてヴォーカルは自分の身体が楽器。心身の不調がダイレクトにパフォーマンスにも影響する。そんな時期に、仲間であったはずの布袋氏が、自分以外のメンバー全員を布袋氏の妻のツアーに連れて行こうとしている。しかも事前に氷室氏には直接何の相談もない
ツアー中でほぼ毎日顔を合わせているのに。
どんなに忙しかろうとも、隙間時間を使って話し合いの場を設けることくらいはできたはず。なのに氷室氏に内緒で、山下氏のプロデューサーを使って高橋氏を誘い、他のメンバー全員を連れて行こうとした。
それはもう、「仲間」に対してする行動ではない、と私は思う。
さらに布袋氏は、ツアー中に出た音楽雑誌のインタビューでは、解散についての想いを語り、解散が近いと匂わせていた……。

山下氏のアルバム参加だけならまだ良かった。
実力ではなく「夫」というだけで起用されたと思われている布袋氏のために仲間が力を貸すという名目だって立てられた。しかしこの時の布袋氏は、BOOWYの活動と山下氏のアルバムでサウンド・プロデュースに一定の評価を得て、メンバーの人選に布袋氏の意向が反映できるようになっていたと思われる。また、BOOWYは「BEAT EMOTION」でチャート1位を獲得するなど、人気が急上昇していた。そんな中、アルバムだけでなくツアーにもBOOWYの面々を起用してしまったら、(布袋氏がそう認識していたかは別として、)布袋氏がBOOWYを私物化し、BOOWY人気をも愛する妻のために利用しようとしていると見られかねない。たとえ布袋氏にその意図がなかったとしても、山下氏のスタッフならほぼ確実に、布袋氏を通じて、BOOWYを山下氏のために利用しようとするのではないか。
個々のミュージシャン同士として、イベントなどで共演するのとは訳が違う。

残されている幾つかのエピソードから察するに、氷室氏と山下氏は良好な関係が続いていた(山下氏のツアーバンド事件以降も変に拗れたりはしていない)ようだ。しかし、個人の関係として仲が良いことと、山下氏のツアーバンドをBOOWYのメンバーが務めるのを是とすることは、全く別の問題として考えなければならない。

布袋氏曰く、当時の一般的知名度は山下氏の方がBOOWYよりも上であったという。さらに当時の彼女は、超大手芸能事務所所属の歌手であった。
「JUST A HERO」がチャートインした頃のBOOWYに対する巷の認識を、布袋氏は「BOOWYって何?あぁ、そうか。ギタリストが山下久美子の旦那のバンドね」程度だったと振り返っている。(※5 P160)
もしも楽器隊が3人とも山下氏のライブに参加していたら、BOOWYファンではない人々からは「BOOWYって何?あぁ、そうか。山下久美子のバックバンドね」と思われていたかもしれない。事実上、BOOWYが山下氏のバックバンド、「山下久美子バンド」扱いになってしまう。

「BOOWYがただのバックバンドにおさまるはずがない!」と仰る方もいらっしゃるだろう。しかし、布袋氏が山下氏のライブのゲストギタリストとして出演すればスポーツ紙に「夫婦共演」ではなく「婦唱夫随」と書かれ、解散した後も写真週刊誌では「山下久美子が『亭主』従え~」(※28)と書かれていたくらいだから、(BOOWYファンの想いはともかくとして)世間がそのように扱うことは、決してあり得ないことではない。あくまでも『山下久美子』がで、『BOOWY』が

それでも「参加するとしても3人のみ。氷室氏なしのBOOWYがBOOWY扱いされるはずがない」と仰る方もいらっしゃるかもしれない。
私も氷室氏なしのBOOWY、もとい、他のメンバーであっても誰かが1人でも欠けたBOOWYはBOOWYではないと考えているし、多くのBOOWYファンもそう考えていると信じたい。
実際、2019年に布袋氏が松井氏と高橋氏を迎えて楽曲を制作したことがあったが、私の周囲にいるBOOWYファンは、私を含め誰も”あれ”をBOOWYだとは思っていなかった。しかし非常に残念なことに、「BOOWY31年ぶり"復活"」(※29)などと「4分の3BOOWY」を「BOOWY」扱いした記事を書いていたマスメディアもあった。(正しく表記していたマスメディアももちろんあったが、正しく表記されていても『BOOWY』だけ異様にフォントサイズが巨大だったりしていた。)
そんな記事を見たBOOWYファン以外の一般人は「4分の3BOOWY」を「BOOWY」と認識するのではないか。
そして更に残念なことに「僕はBOOWYの4分の1の存在。我が物顔で歌う事などできません」と常々仰っていたはずの布袋氏は、「自分の楽曲に高橋氏と松井氏をゲストで迎えたこと」を「BOOWY復活」扱いされても一切何ももの申されたりはしなかった。何か意に反する報道などがあったら必ずネットを利用して即文句を言うのに……。まぁ、そう仰りつつも「僕がBOOWYをやるのをきっとメンバーも許してくれることでしょう」と(氷室氏がやるとネットを利用して色々言うが)自分がやる分には無問題の態度を取る御方ではあるからね……。

となると、仮にBOOWYの楽器隊3人が参加した場合、一般的な知名度は上、かつ超大手芸能事務所所属の山下氏に忖度して「山下久美子がBOOWYを従えてコンサート」とマスメディアが報道し、BOOWYファンを除く世間がBOOWYを山下氏のバックバンドだと勘違いしたところで、布袋氏は何のアクションも起こさなかったであろうと私はみている。

それでも、山下氏のバックバンド扱いをされるだけですむならまだマシかもしれない。
アルバムが突然チャート1位に躍り出た、新進気鋭のバンド「BOOWY」。
世間がBOOWYに気付き始めたこのタイミングで、BOOWYの4分の3が山下氏のツアーへ参加していたら、ここぞとばかりにマスメディアが面白おかしく書き立てるのは目に見えている。氷室氏と他の3人は不仲であると。
下手をすると、この頃の布袋氏の解散を匂わせる発言の数々と合わせて、氷室氏をクビにして山下氏をヴォーカルに据えるのでは?又はBOOWYを解散させて3人と山下氏で新たなバンドを組むのでは?といった憶測も生まれて、マスメディアの餌食となっていたかもしれない。1224前後、幾つかの週刊誌がBOOWYの解散を取り上げて「解散後は布袋寅泰が山下久美子とバンドを組むというがある」と書いていたくらいなので。
実際、BOOWY全盛期の布袋氏に「BOOWYのヴォーカル変えたら」と囁いていた音楽評論家もいたのだ。

そんなことになったら、BOOWYを応援しているファンは不安にかられる。(もし当時私がファンであったら、布袋氏のこれまでの解散匂わせ発言と考え合わせて絶対に動揺する。)メンバーも周囲の余計な雑音に惑わされ、音楽だけに専念できるような状況ではなくなるだろう。BOOWY末期にスポーツ紙が解散の憶測記事を書いた後以上の混乱に陥ることは確実だ。そうなれば事態の沈静化のために、したくもない妥協や我慢を強いられたり、より芸能界の汚い部分に近づかざるをえなくなったりもするだろう。

紺:っていうか、ユーザーとの信頼関係も確かにあるんだろうけど、自分たちのために、BOOWYのためBOOWYをやってたんだと思う。これは『CASE OF BOOWY』に書いたんですけど、解散の憶測記事の氾濫には、多分BOOWY自身のメンタルが絶えられなかったと思うな。多分、解散しなかったら、もっと芸能界に近づかざるをえなくなってくるじゃないですか。それは、やっぱりだったんじゃないかなぁ。"不仲説”なんて(笑)、"なんだ、こりゃ!?”みたいなのけっこう多かったもんねぇ。
佐伯:スポーツ新聞や女性週刊誌まで記事にしだして…。
紺:"不仲説”があったら、そんな7年も8年もやってないっつーの(笑)、ガキの頃からいっしょなんだから。(※44)

BOOWYライターの一人である紺待人氏こと、BOOWYのマネージャーの土屋氏は、解散後に他のBOOWYライターらとの対談で、BOOWY末期の“解散の憶測記事の氾濫”を、こう語っていた。

当時の布袋氏が、山下氏とBOOWYのサウンド・プロデューサーであったのは周知の事実
また多くの布袋氏のファンが仰るには、「当時布袋氏が作曲したBOOWY楽曲と山下氏の楽曲を比較すると、楽曲の出来自体は山下氏の楽曲の方が優れている」とのこと。布袋氏は、夢中になっているモノには(夢中になっている間だけは)とことん入れあげる。それは山下氏へののめり込み具合、そして後年、今井美樹氏へのめり込んでいった様を見ても一目瞭然。

BOOWYはあの4人で一つのバンド。誰か1人のものではないし、1人でも欠けたらBOOWYではない。そのうちの一人である布袋氏が楽曲制作もツアーも山下氏の方を重んじたら、BOOWYはどうなるのか

決して山下氏個人が悪いのではない。
しかし、彼女は当時まだ超大手芸能事務所に所属しており、彼女の活動に関わる人間も多数いた。彼女に関わる人間はそれなりの地位キャリアがあった。芸能界の柵もある。またこの頃の山下氏自身も、己がバンドメンバーの一員的な感じで歌うことを望んでいたようだ。そして彼女の夫の布袋氏は、当時明らかに山下氏の方に肩入れしていた。これ以上に益々布袋氏が山下氏の活動へ注力し、BOOWYの活動を蔑ろにしていったとしても、果たして他のBOOWYのメンバーや彼らの事務所、レコード会社が止められるだろうか。

超大手芸能事務所の意向に加え、メンバーである布袋氏の強い希望と誘導があったら、止めるのは難しい気がするのだ。
BOOWYがユイ音楽工房と東芝EMIと契約する際に布袋氏が言ったとされる言葉は、「どこにいっても好きなことやるよー」「好きなことをバンドでやれればいいよ」だった。布袋氏にとってバンドは、あくまでも自分が好きなことをやるための手段にすぎなかった。バンドのために自分が好きなことをやるのを我慢するような性格ではない。しかも布袋氏は、自分の望み通りにならなければすぐふてくされ、あちこちで不満を漏らし、自分がどんなに辛いかアピールせずにはいられない人。無理矢理止めようとしたら、それすらも被害者アピールの材料の一つにされかねない。
止められなければ流されてしまう。流されれば、益々布袋氏は自分本位となり、さらに自分勝手に行動するようになる。その後始末でバンドに柵が増えていく。
それは、「自分たちがほんとにやりたい音楽」を「やり続けるために」BOOWYを作った氷室氏にとって不本意な姿となる。目指していた「カッチョいいバンド」とは程遠い姿。

このタイミングで『解散』を決断したことで、『BOOWY』が『BOOWY』であることを守った、良くも悪くも芸能界に染まりきったバンドになることを阻止した、と私は思っている。
もっとも「伝説のバンド」として持ち上げられた現在の「BOOWY」は、ある意味、芸能界の有象無象の手垢にまみれてしまったような気がしないでもないけれど。

氷室氏は、布袋氏を信頼して多くのBOOWYの曲のアレンジなどは委ねたけれど、バンドの運営面のリーダーシップ、バンドがどうあるべきかの最終的な決定権だけは手放さなかった。布袋氏が自分のためだけにBOOWYを好き勝手に利用することを許さなかった。それは布袋氏のお騒がせ半生を顧みれば、多分正解であったのだろう。

布袋氏にとってもBOOWYという””から解き放たれて、外の世界に存分に自分の力を発揮できる機会を与えられた。(はず、だったのだが…後のなんちゃって海外進出やCOMPLEXの結成、BOOWYに対する未練がましい発言等々で株を落として、布袋氏を支持していたファンがかなり去ってしまったよなぁ…。)

既に布袋氏は、解散(または脱退)の意思をメンバーには表明していた。
メンバーに語った理由は「海外進出」。
その上での氷室氏以外の2人へのオファー。
2人へのオファーという事実さえなければ、BOOWYの活動を優先した状態では海外進出できないから解散を望んだ、と受け止めることもできるが…。
布袋氏は、あたかも「海外進出」という夢を叶えるために断腸の思いでBOOWYを解散した的な発言をよくするが、結局のところ、海外進出すらも「当時布袋氏がやってみたかったこと」の一つにすぎないと思っている。沢山あった夢の一つであることは間違いなくても、「山下氏と一緒にやること」「吉川氏と一緒にやること」などと同列の夢。BOOWYに縛られずに好き勝手やりたかった布袋氏の我儘の一つだと、私は捉えている。

- 布袋氏の行動が意味するもの -

山下氏のツアーバンドに2人を誘った件について布袋氏を擁護するファンがよく口にするのは、「山下久美子というヴォーカリストがいるのだから氷室京介を誘えるわけがない」。
つまり、布袋氏がやりたいヴォーカリストは他にいるから仕方ないと言っているに等しい。
布袋氏がBOOWYを辞めたい、解散したいのは、BOOWYだとヴォーカルは氷室京介以外あり得ないから。
布袋氏も「BOOWYに帰って来たら氷室っていうボーカリストがいたって感じが強い」と話している。(※22 P75)
他の2人はBOOWY以外の活動であっても一緒にやりたい。だけど、自分がやりたいヴォーカリストは他にいる。だから、氷室京介だけ必要ない。若しくは、自分がやりたい時にやりたいヴォーカリストを自由に選んでやりたい。BOOWYというバンドにいると、氷室京介というヴォーカリストとやらざる得ないからBOOWYを辞めたい。そう意思表示をして氷室氏に突き付けたも同然。布袋氏がそんな意図を持って行動していたかどうかは別として、そう傍目には映ってしまいかねない。(布袋氏のメンタリティがBOOWY時代からからずっとソロミュージシャンっぽく見える要因の一つがこういうところ。)

氷室氏は、B-BLUEが発売された頃の雑誌のインタビューでこう話していた。

ツアーが始まると凄いプレッシャーはあるよね。自分の身体の調整出来ないのはプロとして自分が悪いし、ステージの上で言い訳出来ないじゃん。客に対して悪いしさ、客は自信満々の氷室京介を観に来てると思うの。人間楽しいことばかりじゃないから、落ち込む時もあるけどステージに1歩出たら不思議と変るんだよね。こいつらが喜んでくれたら死んでもいいぐらいの気持ちになれるんだよね。でも落ち込むと長い。人には見せないけど。ステージの上で落ち込んでる自分をさらしたいと思うこともあるけど、それをやったら自分自身で俺っていう人間は終りだなって思う。例えばさぁ、俺が何か辛いことがあるとする。この辛さをみんな分かってくれって言ったら俺はもう終りだと思うのね。
それは何でかっていったらさ、他の人が言ったってそれは終りじゃないよ、でも俺は終りだと思う。俺はその部分だけで生きてるから。カミさんにも泣き事言わないし。それを金払ってる客の前で出したら終りだ。だから俺の中で、その美意識に反したことをやったら俺の負けなんだよね。(※30)

どんなに辛くてもステージの上では落ち込んだ姿を晒さない。それが当時の氷室氏にとっての矜持であり、美意識だった。
布袋氏の背信を、どんなに哀しく思っても、怒りを覚えても、ツアーは進んでいく。冷却期間を置く間もなく、次のライブの予定が迫る。

The show must go on.

ライブの日が来たら、何事もなかったようにステージに立たなければならない。ファンのために。それで金を貰ってるプロとして。チケットを買ってわざわざ見に来てくれている観客にとってはメンバーの事情や心情なんて関係ないのだから。観客は自信満々の氷室京介を、格好良いBOOWYを観に来ているのだから。

きっついよなぁ、と思う。

レコーディングが終わればすぐツアー。それどころかツアー中に次のレコーディングもこなすことがある超過密スケジュール。音楽を聴かずにアイドル的に熱狂する観客の増加。急速に売れたが故の周囲のやっかみ。「BOOWYはロックじゃない。認めない」と宣う旧態依然の評論家達。ろくにBOOWYの音楽を聴かずに取材に臨み、平気で「BOOWYってどんなバンドですか?」と問いかけてくるマスメディア。家に帰っても、住所を調べた「ファンと称する人々」がやってきてゴミを漁られるなど、心安まる暇がない。そんなストレスフルな状況の中、同じ苦悩を分かち合うはずの仲間から「オマエ『だけ』いらない」的な仕打ちを受けて、それでも仕事は待っちゃくれない

解散後に氷室氏は、布袋氏が氷室氏を「ライバルだと思っていた」と言っていたことを知り、「オレは布袋をライバルだと思ったことは1度もない」「たとえば、コンサートなら1回1回が勝負なわけじゃない?でも、自分の後ろを固めてくれて、いっしょに攻めて行くべき人間をライバルと思ったら大変だよね。自信をもって前に進んではいけないよ」と話していたが、2人のお互いに対する認識の差は大きかったのかもしれない。(※31 P43)

バンドで行くことができる最高のところに到達することが目標だと語っていたBOOWY。
ボロアパートで一緒に曲作りしながら「カッチョイイことやろうぜ!」と夢を語り合っていた仲間は、解散して海外進出したいとを語るようになり、日本では、同じく仲間の松井氏や高橋氏を引き連れて「山下久美子」ので弾きたいと言葉でも態度でも示している。
余談だが、「ROGUE」のギタリストの香川誠氏が自身のバンドが解散したときの心境を問われて、「仲間を奪われたようなもの」と答えていたのをテレビで見た時、この山下氏のツアーバンドの件を思い出した。まさに氷室氏にとっては「仲間を奪われたようなもの」だよなぁ、と。しかも奪ったのは、同じく仲間だった人物だ。

「(BOOWYは)お互いがお互いのことを最高だと思っていたから続いていただけの話」と解散後に氷室氏はインタビューで答えていたが(※31 P42)、布袋氏にとっての「最高」はこの時点でもう山下氏に移っていたのだろう。
「他にもっと大事なものがある」「他にもっとやりたいことができた」そう思うこと自体は間違いではない。だが、その想いを何よりも優先して、今現在一緒に組んでいる仲間に筋を通さないようになってしまったら、その組織は終わりだ。

当然、そんな状態ではバンドでこれ以上の高みを目指せない。BOOWYの4人でできることは、これ以上もう何もない。
裏を返せば、この4人でやれることはやりきったということ。
ならばBOOWYであり続ける意味がない

さすがにここまで盛大に布袋氏が意思表示をやらかしてしまったら、スタッフだって解散を考え直せなんて言えなかろう。解散は既定路線として、あとはどれだけ延命させることができるのか、いつどうやって綺麗に幕を引くかにシフトせざるを得ない。
私は、BOOWY解散の要因は複数あると思っているが、解散の直接の引き金を引いたのはこの件だと思っている。この件がコップの水を溢れさせる最後の一滴だったと、個人的には思っている。

布袋氏は自伝で「結成以来、揺れに揺れ続けてきたバンドを崩壊に至らないよう手を尽くしてきたのも俺」(※5 P174)などと喧伝されていらっしゃるが、当時の布袋氏が残してきた言葉や行動の数々を拝見する限り、むしろバンドの外に色々目移りし、結成以来バンドを揺らしに揺らして崩壊に向かわせた最大の人物こそ布袋氏であるように私には見える。(勿論それ以外の要因もあっただろうし、布袋氏の行動に擁護すべき点が全くなかったとは言わないが。)

氷室氏がBOOWYを作り、布袋氏がBOOWYを壊した。
(注:だからといって布袋氏が果たしたBOOWYへの功績までも否定するものではない。)

ただ、布袋氏にしてみれば、解散を提言してもすぐに認められず、BOOWYの活動を続けざるを得なかった。BOOWY後期は、本当にやりたい「久美ちゃん」や「吉川」との仕事よりもBOOWYの活動を優先しなければならなかったことに非常に不満を覚えていて、俺が我慢してBOOWYを続けてやってあげていたから1987年12月24日までBOOWYが続いたのだという認識であった可能性もある。そんな思いを布袋氏なりの言葉に翻訳するとこうなってしまうのだろう。
見方を変えれば、布袋氏が望んだ時にすぐ解散が認められなかったから、山下氏のツアーバンド事件などで氷室氏を精神的に追い詰めて、解散やむなしの状態に持っていこうとしたとも捉えられかねないけれども。

当時の布袋氏は、相当周囲に持ち上げられていたのだと思う。そんなチヤホヤしてくれる取り巻きに囲まれて、「自分だけ」が「特別」扱いされることが当然だと思うようになってしまっていたような印象を受ける。「特別」な自分が望めばある程度の我儘は許されると考えていたのかもしれない。氷室氏は何やかんや言ってかなり布袋氏の自由にやらせてあげていた(けど、布袋氏はそれでも俺だけ我慢していると思っていたフシがある)から、最終的には許されると布袋氏は勝手に思い込んでいたのかもしれない。「BOOWYのオフの時期に俺がやりたいことをやるだけ。BOOWYの活動でもないのに、なんでヒムロックの許可が必要なんだよ!自由にやらせてくれ!」という気持ちもあったのかもしれない。布袋氏は常に自分が一番で、自分のやることを批判されたり、文句を言われたりすることを非常に嫌うから。

布袋氏と松井五郎氏が共作したBOOWYの「Dreamin'」の歌詞に「I’m only Dreamin’ for me」とあるが、布袋氏の認識では、この歌詞どおり、「俺はただ俺だけの夢を見ている」だけのこと、何が悪いんだと思っていたのではないか。今でもそう思い、さらに、自分だけの夢を叶えるためにつけてきたものを、犠牲にしてきたものを、踏みつぶしてきたものを省みることがないから、未だに「俺は今も夢を追い続けている」と脳天気に語れるし、ニヤニヤしながら「みんな再結成見たいよね。俺も見たいよ」だの「また4人でやりたいね!まこっちゃんが死ぬ前に」だのと平気で口にできてしまうのだと私は思う。
また、そういった精神性が今の彼の作る音楽にモロに透けて見えてしまっている――というか上から目線の説教系、俺の背中を見ろ!な自画自賛系、脳内お花畑系の歌詞の曲が多くなり聴いている方がキツくなっていったから、かつて布袋氏の音楽を支持していたはずのファンの多くが去っていってしまったのかなとも思わないでもない。

- 解散が決定的になった後のこと -

さて、山下氏のツアーへのオファーの件が氷室氏に伝わり「解散の2文字が具体性を帯びて」きた時、布袋氏は、「BOOWY以外での活動の成果を持ち帰るんだと話していた」とのこと。しかし、「この時点ではもう意味合いが違ってしまっていた。」と高橋氏は語る。(※1 P141)
事実、この時点で布袋氏は既にメンバーに解散(若しくは脱退)の意思を伝えている。そんな中で「活動の成果をBOOWYに持ち帰る」と言われても、ただの言い訳にしか思われない。
もちろん「BOOWYはLAST GIGSで初日が終わった後に音を改善するために色々やっていた。明日終わるのにもかかわらず努力しているのだから、解散したいと思っていてもバンドを良くする努力していたっておかしくない」という考え方もある。
しかしそれでも、氷室氏に黙って動いたことに対する釈明にはなり得ない

布袋氏はかつてAUTO-MODに参加したときの経緯をこう話していた。

BOOWYはメロディ主体だったし、出来る範囲っていうのが決まってたし、曲作りなんかもうちょっと煮詰まってきたなぁって言う感じ自分なりにあって。そういう時はいろんなタイプのギターを弾いてみるのが、俺には一番良い方法だったと思ったからヒムロックとかに相談したら、やって来ればって。でもそこで最終的に見たものはスタジオのみんなの洋楽コンプレックス。逆にそこで俺はガンガンやれるのも痛快だったけど。(※32)

AUTO-MODへの参加は、事前に氷室氏に相談しているし、了承も得ている。BOOWYでは出来ないことをやりたいから、と。
この事実がある以上、氷室氏は参加しないのだから氷室氏への事前相談は必要ないと考えていたという言い訳は成り立たない。山下氏のツアーの時もそうすれば良かっただけ。(なのにこの時はそうしなかったところに、氷室氏に対する布袋氏のマウンティング臭を仄かに感じてしまうんだよなぁ…。)
後年、布袋氏は、「俺にとってヒムロックは絶対的な存在で~」とあたかもBOOWY時代は氷室氏に逆らえなかったかのように面白おかしく語ることがあるが、実態は決してそうではなかったことが、山下氏のツアーの件をはじめとする数々のエピソードからもわかる。

ただ、布袋氏の性格上、バンドをやる以上誰でも当然発生する多少の我慢や妥協を許容できず、自分だけがすごく我慢して、こんなにも引いてやって、と、多大に捉えていた可能性は高い。(だけど他人の我慢については当然のこと、このくらい大したことがないと過小評価するのが布袋氏。自己評価が高すぎて、他人へのリスペクトが足りない。ただひたすらに自分ファースト。)
氷室氏は地元の1つ上の先輩ということで、最初は多少の遠慮はあっただろう。そしてそれが布袋氏の主観では、俺だけがとぉっっても我慢していると思っていたのかもしれない。しかし、後期になればなるほど遠慮がなくなり、傲岸不遜な一面が布袋氏に現われだしているようにも見える。若くして才能が認められたがゆえだろうし、氷室氏への嫉妬心をを煽り、布袋氏の増長を許してきた周囲にも責任の一端はあると思うが。

山下氏のツアーバンドの件が明らかになり、解散が決定的になった時に、布袋氏は「BOOWY以外での活動の成果を持ち帰る」と釈明したそうだ。
この言葉が空虚に響くのは、インタビューで布袋氏がこう話していたのを知っているから。

バンドの外でやったことをバンドに生かそうと思わなかったしね。でも例えば泉谷とやってよかったなぁって思うし。初めはヒムロックやバンドのひんしゅく買ったけど…。本当は嫌なんだろうね。ボーカリストにとって相棒ってギタリストでもベーシストでも、バンドは妻みたいなもんじゃん。だから誰々の後ろでギター弾いてるってのは面白くないよ。だから最近は気をつけてますけど。今はもう特別の、俺のカミさんは特別だからね。(※33)

これは、「季節が君だけを変える」発売後、1987年11月頃に行なわれたインタビューで出た言葉である。
以前にも書いたことがあるが、再度言わせていただきたい。
だーかーらー「そういうとこ!!

山下氏のツアーにBOOWYの楽器隊3人を連れて行こうとしたことが明るみになった時は「BOOWY以外での活動の成果を持ち帰る」と言い訳
その半年後には、「バンドの外でやったことをバンドに生かそうと思わなかった」と平然とインタビューで話してしまう。しかも「俺のカミさんは特別だから」。
妻で「特別だから」一緒にやりたいと感じるのは理解できる。だけどそれは「事前に氷室氏に相談しなくていい理由」にはなり得ない
このインタビューを読んでしまったら、山下氏のツアーバンド事件が明るみになった時の「BOOWY以外での活動の成果を持ち帰る」との言葉は、ただの言い逃れその場しのぎ。ただ単に責められたくないからバンドのためと言っただけで本音はこっちなのか、となる。「バンドに活かそうと思わなかった」発言の時には解散が決定していたので、もう取り繕う必要はないと思ったのかもしれないが、信頼関係を踏みにじる発言だとも言えよう。
それに、ヴォーカリストにとって楽器隊は相棒、バンドは妻みたいなものだと理解していてなお、布袋氏は山下氏のツアーにBOOWYの楽器隊3人全員を連れて行こうとしていたことになってしまう。
興味深いのは、この発言に布袋氏が全く悪びれる様子もないようなところ。メンバーは不快に思うだろうけれど仕方ないよね、と。むしろ多くの人々に望まれる自分を悦に入る風ですらある。その上で、気をつけてやってあげているのだというような印象を受ける。

布袋氏は自伝「秘密」で、ソロ最初のツアーで、ライブ前日にメンバーやスタッフから飲みに誘われないことに拗ねて一人で深酒して大暴れしたときのことを振り返り、「(俺たちは、バンドじゃないのかよ…)ツアーと言えばBOOWYでの体験しかないが、俺たちはいつでもどこでも、四人は必ず一緒だった。食事も、アソビも、観光も、移動も、何をやるにも、バンド全員が同じ行動だったのに。」と語っていた人であった。ライブ前日だから体調を気遣って誘わなかったことを重々承知していると言いながらも「なんなんだよ。俺だけ除け者扱いかよ!」「寂しくて寂しくてたまらなかった」と……。(※5 P193-197)
この山下氏のツアーの件だけでなく、BOOWY後期の布袋氏は山下氏と行動をともにしていて、必ずしも4人一緒でなかったことはわかっているけれども、布袋氏の中では「いつでもどこでも何をやるにも4人一緒」で「どんな理由があろうとも俺はメンバーを1人だけ除け者扱いとするようなことはしなかった」と都合良く脳内変換されているのか、或いは、BOOWYのメンバーとのを殊更アピールして自分の失態「仕方ない」ものであると世間に印象づけようとしたのか。
いずれにせよ「そういうとこ」なんだよなぁ…。

なお布袋氏は、自伝「秘密」によると、違うバンドにも数多く関わっていたのはBOOWYを何としてでも理解して貰おうと努めていたからであり、「俺は俺のすべてをBOOWYに捧げていた」そうである。(※5 P122)
へー(棒)

ちなみに近年の布袋氏は、BOOWY時代にバンド外活動に熱心だったことについて「ヒムロックが快く"布袋、お前外に行って、どうやったら良い音が出せるのか勉強してきてよ!"って感じでしたね」(※46)と、あたかも氷室氏の勧めで、BOOWYのために外へ勉強しに行ったかのように騙っている。
「バンドの外でやったことをバンドに生かそうと思わなかった」「ヒムロックやバンドのひんしゅく買った」「(ボーカリストにとっては)本当は嫌なんだろう」と話していた35年前の発言と正反対。
うん。やっぱり「そういうとこ」。

兎にも角にも、1987年2月24日、BOOWYは日本武道館において、「ROCK 'N ROLL CIRCUS」ツアーのファイナルを迎えた。
その夜、表参道にあるブルーミン・バーで、マネージャーである土屋氏がメンバーに招集をかけ、解散に向けての動きとその確認が為されたという。(※1 P139)

解散話が持ち上がった時、マネージャーである土屋氏は、メンバーに「もしもう1回バンドでやり直そうってなった時にやりやすいように『解散』っていう言葉は使わないで、『停止』っていうやり方の方がいいんじゃないとか、考えられる限りの提案は一応した」そうだが、「ああいう人達だし、そういう意見は聞かなかった」とのこと。(※34)その後、土屋氏は「BOOWYがっていうか、氷室が”全てか0か”のヒトだから、”半端はダメ”ってひらめいてしまったんだろうね」と話している。(※35)

こうして解散が確実なものとなった後、BOOWYは約3か月のオフに入った。
氷室氏はロンドンへ。布袋氏と松井氏は山下氏のツアーとレコーディングへ。高橋氏はただ一人、BOOWYフェアで全国を駆け回った。(※9 P137)
先述の通り、氷室氏を追いかけて、ディレクターの子安氏とプロデューサーの糟谷氏がロンドンまで赴き、「もう1枚だけやろう。シングルでも1位を獲ろう」と氷室氏を説得。その結果、もう1枚だけアルバムを作ることが決定した。

一方、3月から始まった山下氏のツアーに参加した布袋氏は、ステージ上で”BOOWYでは経験したことのない一体感”を味わったと述懐している。(※36)
これは、当時の布袋氏の心がどこにあったかを如実に示すものと言えるだろう。
さらに、同じステージに立っていた松井氏について「松ちゃんは明らかに輝いて見えた」「彼のベーススタイルが実を結んだ」「バンドマンからベースマンになった」と形容していたことは、BOOWY解散後に布袋氏と松井氏が一緒に独立していったことと考え合わせると、なかなか興味深い。
松井氏も「BOOWYをやっている時に、一緒に久美ちゃん(山下久美子)を手伝ったり。バンド以外のところでも、布袋クンと一緒にやる気持ち良さは成立するんだな、ってのがありましたからね。」と解散後に語っていた(※45)。アルバム「1986」から始まる山下氏の仕事での経験があったからこそ、松井氏は解散に同意し、解散後は布袋氏と行動を共にする選択をしたのだと、私は考えている。

氷室氏が帰国し、布袋氏と松井氏が山下氏のツアー及びレコーディングを終えると、BOOWYは最後のアルバム「PSYCHOPATH」のレコーディングに入った。
そして先行シングルの「MARIONETTE」で念願のシングル1位を獲得
途中、これまでの集大成的なライブ「GIGS CASE OF BOOWY」を挟みながら、9月5日に発売された6thアルバム「PSYCHOPATH」でも、前作に引き続き1位を獲得した。
この間、布袋氏と松井氏は、BOOWYの活動の合間に、山下氏のライブにサポートミュージシャンとして参加したりもしている。
そうして、1987年9月16日から「ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR」が始まった。
ツアー最終日の12月24日、渋谷公会堂のステージ上にて、氷室氏の口によりBOOWYの解散が宣言された。翌12月25日には、主要新聞にメンバー4人の個人名で「解散メッセージ」が掲載され、ここで約束された「最後のGIGS」は、翌年、完成したばかりの東京ドームにおいてファンへプレゼントされて、名実ともにBOOWYはその活動を終えた。

- 解散を巡る報道 -

1224の後、多くの音楽雑誌がBOOWYの解散を取り上げた。
そんな雑誌のうちの一つ、「The BEST HIT」は、”今でも忘れない、ヒムロックのあの表情に見た解散の予感”と題し、ライターがBOOWYと初めて出会った時から1224までを振り返った記事を掲載した。(※37)
この記事の中で、ライターは「ROCK'N ROLL REVIEW DR.FEELMAN'S PSYCOPATHIC HEARTS CLUB BAND TOUR」群馬公演時に目にした氷室氏の様子を「ひとりぼっちの氷室京介」という章を立てて描写した。
その一部を抜粋させていただきたい。

本番前、ステージで最初に見せる実験フィルムを何度も流しては、映像の映り具合や音響をチェックしていた。そのとき、布袋、マッちゃん、まこっちゃんの3人は、楽屋でスタッフを交えて楽しく話をしていたが、なぜかヒムロックの姿がどこにもなかった
僕は映像チェックを見物してやろうと、再びステージに戻ってみる。ふと客席を見おろすと、会場中央にあるPAミキシング・コンソールの少し手前の座席に、ひとつの人影が見えた。
ヒムロックだった。
とても寂しそうだった
フィルムの光が暗い客席に反射していて、彼の顔がうっすらと照らされて、揺れている。ずっと実験フィルムを見つめている彼。スタッフは、誰もそこに彼がいるのを知らないかのように、各自忙しそうに最終チェックを行なっていた。
僕は何も彼に聞くことも語りかけることもできなかった。
解散という2文字が呪文のように僕の足と口と心を固く縛りつけていた。
ひとりぼっちの氷室京介。2年前、初めて会ったとき、こんな寂しそうな彼を目の前にするなんて想像もしなかった。僕は、BOOWYは永遠のものだと誤解していたのだろうか。確実に何かあったに違いない。彼がBOOWYから離れてしまったのか、BOOWYが彼から去ろうとしているのか、それともまったく別の原因があるのだろうか。しかし、解散の理由は今の時点では、まだ誰も何も知らされていない。(※37)

布袋氏の手によって引き起こされた山下氏のツアーバンド事件を知った後にこの記事を読むと、何とも切ない
1224で解散宣言をするアンコール前の楽屋では、一服する他のメンバーをよそに、氷室氏は誰とも目を合わせず、ただ一人終始厳しい表情で、先に立ち上がって楽屋を後にした。その映像を思い出した。

この記事では「解散という2文字が呪文のように」と書かれている。
BOOWY後期には、自然発生的にBOOWYの解散の噂が飛び交ったと言われている。その噂をスポーツ紙や写真週刊誌が取り上げ、1224にチケットを手に入れられなかったファンが解散の噂の真偽を確かめようと会場周辺に押し寄せて、会場のガラス扉にヒビが入った、と。
スポーツ紙がBOOWYの解散についての記事を掲載したのは、この「ひとりぼっちの氷室京介」が目撃された群馬公演の直前であったという。
当時の音楽雑誌を読むと、ライター達はこぞってスポーツ紙が勝手な解散の憶測記事を書いたと批判を繰り広げていた。
そんなことを書かれたら、どんなトンデモ記事かと思って調べてみたくなる。掲載日時も「群馬公演の数日前」と書いてあるため、探し出すのは難しくない。
そうしてこの記事見つけた。

デイリースポーツ 1987.11.8
氷室、布袋に亀裂!? BOOWY解散
宿命 方向性の違い 12・24渋谷最後に 4人それぞれの道へ
"BOOWY解散"のニュースはファンにとってはショッキングなものだ。半年前に"解散"のうわさが流れたときには、所属の東芝EMIなどは電話がパニック状態だったという。
 所属のユイ音楽工房のロック・プロジェクト、糟谷銑司プロデューサーは"解散"の一語は使用しないものの言葉は重い。「渋谷公会堂でのコンサートが済んだ後、来年以降のBOOWYのスケジュールがまだ決定していない。次のコンサートはどうするのか。レコーディングをいつするのかなどは、まったく白紙。メンバーがこれから先もBOOWYを続けるのか、ソロとして活動しながらBOOWYは続けるのか、すべてを含めて話し合いはこれから。今日の時点で解散はないが、明日はどうなっているかわからない
 ある関係者によれば解散は決定的。原因はバンドの中核の氷室と布袋の対立というウワサも。これについては「そんなことはない」(糟谷プロデューサー)と否定しているものの、約六年間のバンド活動で目指すものが違うのは確かなようだ。
 以前、BOOWYは音楽雑誌のインタビューに答えて「完ぺきなものが出来たときには解散する」と語ったことがあるが、今回の「PSYCHOPATH」の100万枚に迫るヒットについては「ある程度満足のいく結果」とも漏らしている。
 いずれにしろ今の状態のコンサートはこれが最後。すでにSOLD OUTのチケットはプラチナペーパー以上の人気を見せている。(※38)

これは、スポーツ紙が勝手に書いた解散の憶測記事などではない。
当時のBOOWYのプロデューサー――BOOWY解散後に布袋氏と松井氏を引き連れて独立し、新たな事務所を興すことになる糟谷氏がスポーツ紙の取材に答えたもの
確かに「解散」という言葉そのものは使ってはいない。しかし「渋公以降のBOOWYのスケジュールは全くの白紙」「明日はどうなっているかわからない」と、匂わせのレベルを遙かに超えた発言の数々。元々密かに解散の噂が流れていた中で、こんなことを、しかもBOOWYのプロデューサーという立場の人間が話してしまったら、ファンは動揺し、一気に解散の噂が広まるのは必然。写真週刊誌だって解散の噂を報じるだろう。心配したファンが渋公へ押し寄せるのも、決して不思議なことではない

毎回、ライブの最後に「愛してるぜ、また会おう」と言い続けなくてはならない氷室の苦悩は、間近で見ていて痛いほどよく判った。「俺はまた嘘をついた、もうやってらんねぇ」「でもBOOWYを待っていてくれるファンの前で解散を口にすることはできない」という狭間で何度も揺れ動いていた氷室の葛藤、その頃本人からよく聞いていた。俺も凄く悩んだ。氷室からそうやって吐露されることが何より一番堪えた。返す言葉が、いくら探しても出てこなかった――。
ホテルに戻った後、土屋の部屋にも氷室から頻繁に電話がかかってきたと聞く。「『解散します』って言わなくてもいいのか?」と氷室から訊かれたらしい。そのたびに土屋は「でもそれはみんなで決めたことだから…」と苦渋の思いで答えていたという。(※1 P156)

「みんなで決めたことだから」と氷室氏は、最後の日までファンに解散を伝えられずにツアーを回らなければならなかった。BOOWYとしてはもう二度と来れないことがわかっていながら、「また会おう」と言い続けなければならなかった。そのことに大変苦悩していた。
なのにプロデューサーは、解散すると言ったも同然の話をスポーツ紙にリークする。
よりにもよって彼らの故郷である群馬での公演直前に。
それによって周囲は色めき立つ。様々な憶測が流れる。写真週刊誌も「BOOWY『クリスマス・イブ解散』のウラ」という記事を書いて「はたしてこの時、ステージで最終的な解散宣言が飛び出すかどうか…。」と煽る。(※39)
その状態で、メンバーで唯一言葉を発する立場として、最前で、ファンに対峙し続けなければならない氷室氏。
氷室氏は、プロデューサーのリーク以降も、「みんなで決めたことだから」と、最終日までファンに解散を告げることは許されない

きっついなぁ、これ。

この記事が出た直後の群馬公演の舞台裏で目撃された、寂しそうな「ひとりぼっちの氷室京介」。
この状況下では、ライターの見間違いでも勘違いでもなかったと思うのだ。

願わくは、このスポーツ紙へのリークがプロデューサーの独断ではないことを。
BOOWY解散に向けてみんなで決めた「仕掛け」内の行動であったのなら、まだ救いがある。
もしもそうでなければ、山下氏のツアーバンド事件で布袋氏によって孤立するよう追い込まれた氷室氏に、その布袋氏らを引き連れて独立する準備をしていたプロデューサーがさらに追い打ちをかけたようなものだから。(でも、そのプロデューサー氏は、大事なBOOWY初の武道館ライブが始まる直前の氷室氏に向かって「氷室はまぁ、今日は武道館だけど、いつまでたってもライブハウス癖が抜けネェからな」という無神経・無配慮な言葉を投げかけるような人なので、氷室氏への気遣いをいまいち期待できないのがなんとも…。(※2 P69))

多分、BOOWYの解散で一番苦しんだのは、苦しめられたのは、氷室氏であったと思う。一番多くのものを、一番重い十字架を背負わされた。
BOOWY最後のツアーでは、それまでふてくされていた布袋氏が終盤になればなるほど派手なステージアクションが復活し、かわりに氷室氏の苦悩が深まっていったという。(※1 P156)
当時誰よりも解散(又は脱退)を願い、氷室氏以外とのヴォーカルとの共演を望んでいたはずの布袋氏が、近年では頻繁に氷室氏との共演や再結成の願いを口にし、一方の氷室氏が「再結成なんて絶対しない」と常に断言し、1990年代の後半からは布袋氏の名前もインタビューでほぼ出さないのは、なかなか興味深い。
「別れた女とまた寝たりはしないけど、たまに会ってお茶飲むぐらいの気分はお互い許せるっていうかさ」な布袋氏と「好き勝手なこと言って俺と上手くいかなくなった馬鹿な女のことをじくじく考えるようなタイプではない。とっとと勝手に生きろよ」な氷室氏では、「解散に対する覚悟」は相当差があったのだと思う。

【結論】

私的には、解散の直接のきっかけとなったのは、この「山下氏のツアーに布袋氏がBOOWYの4分の3を連れて行こうとした件」だと思っている。
では、この事件がなかったらBOOWYは今でも継続していたかというと、甚だ疑問ではあるが。あのタイミングああいう終わり方をしたという意味では、この件が一番の要因ではないか。

布袋氏の志向性格が「ああ」であり、且つ「そうじゃないとイヤだ」と布袋氏が思っていた理想のバンド像が「ボーカルよりもギタリストの方が花形」のバンドである以上(※42)、そしてBOOWYは氷室氏が「金とか売れる売れないとか関係なしに、とにかく自分の好きな音楽をやり続けていきたい」と考えて結成されたバンドである以上、いずれ破綻は避けられなかっただろう。
だが、布袋氏と氷室氏のどちらか片方が欠けていたらBOOWYがあそこまでの成功を収めたかというと、それもまた疑問ではある。
そして、「あの時」に解散したからこそ、今でもファンの間に鮮烈な記憶を残す伝説的なバンドになったとも思っている。
だからといって、布袋氏がやらかした山下氏のツアーバンド事件はなかったことにはならないし、今ではそんな出来事はなかったような顔をして、己に都合良いように脚色した美しき想い出話を語り、BOOWY愛をアピールする今の布袋氏の姿を見る度、なんだかなあ……という気持ちでいっぱいになってしまうのだ。

この件については他にも色々思うところがあるけれども、きりがなくなるので、本編はここでひとまず終了とさせていただきたい。
なお、オマケとして、以前いただいた「3人参加の時、山下氏から反対の意見がでなかったのか?」というコメントに対する私なりの考えと、高橋氏の行動に対する私の疑問について、次(私見④)に書くので、よろしければお付き合い下さい。こちらについては検証材料が少なすぎるので、憶測・妄想の類いになってしまいますが……。


※「出典・参考資料」は「解散諸説(2)『山下久美子のツアーに布袋寅泰がBOOWYの4分の3を連れていこうとしたのが原因で解散』説に対する私見④」の最後にまとめて掲載する。


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