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BOOWYにまつわる噂のエトセトラ Vol.15-④ ~解散諸説(2)「山下久美子のツアーに布袋寅泰がBOOWYの4分の3を連れていこうとしたことが原因で解散」説に対する私見④~

前記事(私見③)で本編は終了しています。こちらはあくまでもオマケ的な話なので、ご注意下さい。
前記事分も含めて、出典・参考資料はこの記事の一番下にあります。

【当時の「山下氏の気持ち」についての憶測】

以前、別の噂の話を書いたときに「3人参加の時、山下氏から反対の意見がでなかったのか?」という疑問のコメントをいただいたことがある。「バンド活動が止まるし、氷室氏に対して失礼な気がする」ということで。

この疑問に対して、私は、山下氏から3人参加について反対意見がなかったと思っている。むしろ賛成していたと思う。
私は、それこそが山下氏がソロシンガーであるがゆえの無知とエゴだと思っている。(あくまでも私が思うに、というだけだが。)

山下氏は大分の別府出身。
高校を中退し、家出して博多へ居を移した後、パブで働きながら、大分のディスコで知り合ったソウル・バンドのメンバーに誘われて、ヴォーカルとして歌うようになった。
そこでスカウトされ上京。大手芸能プロダクションとして契約してレコードデビュー。
吉川晃司氏の初期専属バックバンドとして知られるロックバンド”PaPa“とともに”山下久美子 with PaPa”として各地の学園祭やライブで観客を沸かせ、”総立ちの久美子”の異名を取っていた。

山下氏は「私にはアマチュア時代がなかった」と語っていたことがある。
確かに彼女の自伝「ある愛の詩」を読む限り、博多時代は好きな歌が歌えて楽しい、好きなことで僅かでもギャラが貰えて嬉しいというだけで、音楽で身を立てることを目指していたようにはあまり見えない。
バンドで歌ってはいたけれど、バンドの一員として、一緒に成功を夢見て頑張っていこう的な感じではない。あくまでもバンドはバンドで、それに歌い手として自分が参加しているだけ。同じ釜の飯を食う仲間的な感じではなかったという印象を受ける。
デビュー後も、もう既にあるバンドを専属で付けてもらって、1人のソロシンガー+バックバンドという形で活動していた。
つまり彼女は、「バンドのメンバーとして活動するということ」を知らない。

バンドメンバー同士の関係性について、氷室氏はこのように語っていた。

バンドって特異な、やっぱ、何て言うんすか、安心感はありますよね。メンバーのこと好きでも嫌いでも(笑)。一つの集合体ってところでは、やっぱ、普通の人、会社の同僚とかとはもっと違う……特殊な連帯感で繋がってると思うので。会社の人たちが連帯感がないっていう意味じゃないんですけど(笑)。そのくらい特殊だっていう表現なので(笑)。(※40)

山下氏は、バンドのメンバー同士であーでもないこーでもないと言いながら楽曲を作った経験がない。食うに困っても、時にはぶつかり合いながらも仲間とともにバンドの成功を目指した経験がない。バンドにはメンバーの代替はいないが、ソロシンガーであればバックバンドの代わりはいるし、今やっているバンドが次も一緒にやるかの保証はない。ミュージシャンやプロデューサーの意向でバックのメンバーチェンジも可能。
だからこそバンドメンバーの間の特殊な連帯感や絆を、恐らく山下氏は、本当の意味で理解してはいなかったのではないか。

大抵のミュージシャンは、我儘だと思う。人間的に、という意味ではない。(勿論人間的に我儘な人も多いと思うけど。布袋氏などはその最たるもの。)自分がやりたい音楽を作り出すだめには、他人に気を使ってばかりではやっていけない。主張すべきところは主張し、可能な限り無理を通そうとする。自分の音楽を表現するために「その人」がどうしても必要であれば、どうにかして手に入れようとするだろう。
そんなミュージシャンの一人である山下氏が、BOOWYの3人を起用することをどう思っていたか。

アルバム「1986」発売時に行なわれた布袋氏と山下氏の対談で、BOOWYの3人がレコーディングに参加したことを、彼女は「一緒にやりたかったし、それが実現するのがこんなに早いとは思ってなかったので私もすごく嬉しくて。」と喜んでいた。(※19 P70-71)
さらに、「バンド・サウンド的なアルバムを作ったから、バンド的なものが実現出来るところで、何かステージをやるんじゃないかって思う」「もっとリラックスしてミュージシャンがやりたがってる、みたいな部分で、コンベンション的なニュアンスで参加してくれたミュージシャンを全部ひきつれて、入れかわりたちかわり…そういうステージは近いうちにやれそうな気がしないでもないね。」と語りつつ、「なにせBOOWYが忙しいからさ、そこはやっぱり…。」と言葉を濁した。
また、そのアルバムを受けたライブ、1987年1月7日に開催された山下氏初の武道館公演を迎えるにあたって、「私にとっては自分を改めたところのステージだから、みんなにも改めて見てもらいたい。今までのものを切り離したところで、やり始めたいの、「1986」を境に。だから、レコーディングメンバーで極力やりたいし、私のステージには彼が必要だし。」と語った。(※23 P24)
布袋氏と松井氏が参加した問題のライブ「ROCKIN' ROULETTE '87」が終わった後も、「ずーっとああいうやつがやりたかったの」「思い描いた所にようやく辿り着けました」という感想を残している。 (※41)

当時の山下氏のインタビューを読むと、彼女はバンドっぽさを体験できたアルバム「1986」を大層気に入り、ツアーもレコーディングと同じメンバーでやることを望んでいたようだ。勿論、「1986」のレコーディングメンバーはBOOWYの3人以外もいるので、直接3人とやりたいと言ってるわけではない。布袋氏と松井氏が参加したライブ終了後の喜びようを見ると、相当やりたかったのだろうと思われるが。

そんな彼女の願いは、対談相手でもあり、として一緒に暮らし、ギタリスト兼サウンド・プロデューサーとして一緒にレコーディングもしている布袋氏には当然伝わっていただろう。
とはいえ山下氏は、「BOOWYが忙しいから」とか「ミュージシャンがやりたがってる、みたいな部分で」などとも語っており、BOOWYが優先されることと、参加するミュージシャンがやりたいと望むことが大前提であることは、バンド経験がないなりに理解していたと思われる。自分のである布袋氏ですら、自分との仕事よりもBOOWYの活動が優先されるということを。

だからこそ、そこでBOOWYの一員である布袋氏が「BOOWYのメンバーはBOOWYとしての活動が優先されるので、久美ちゃんのツアーにまで参加するのは難しい」と説明していれば、そこで終わりの話だったろう。もしそれでも山下氏が諦めきれないのなら、メンバーや関係各所と時間をかけて調整していけば、或いは実現可能であったかもしれない。

だけど、布袋氏という御方は、自分の大切な人には(布袋氏の興味が続く間だけは)非常にまめで、とことん入れあげる人。歓心を買うためなら、自分に出来ることは「きっと何でもしてあげる」「何でも叶えてあげる」人。
そして、BOOWYはメインの活動の場であったけれど、恐らく当時の布袋氏の優先順位はBOOWYよりも山下氏の方がはるかに高かったように感じるのだ。
さらに布袋氏もまた、BOOWYというバンドの一員ではあったものの、バンドの特殊な連帯感や絆を、全く理解していなかったとまでは言わないが、「自分のやりたいこと」と「バンドメンバーとしてやるべきこと」を秤にかけた場合、容易に前者に天秤が傾くタイプのように見える。
というか、BOOWY時代にこんなことをやらかしておきながら、2004年に氷室氏がBOOWYの楽曲を演った時、「他のメンバー3人メチャクチャ哀しい気分にさせられた」とコメントを発してしまうあたり、解散後であってもメンバーの絆を盾に、相手には自分への気遣いを過大に求めるのに対し、自分がバンドのメンバーとして不適切な行動をとった場合には、逆に「メンバーなのだからそのくらい理解を示すべき」とメンバーの立場を笠に着て全力で甘えてくるタイプではないかと思う。さらにこの時、同じくメンバーの高橋氏は、氷室氏にポジティブなコメントを発し、氷室氏のサポメンの相談にものり、ライブ当日もノリノリで客席で楽しんでいたにもかかわらず、哀しい気分にさせられたのは「他の3人」と、他のメンバー全員の想いを自分が代弁したかのように言い切ってしまうあたり、自分の意に沿わない行為はメンバーみんな不快に思うはず、自分の考えることはみんなの総意、と考える自分本位な性格でもあるように思う。(「なった」ではなく「させられた」という言葉を選択するあたり、布袋氏の性格がすごく出ている。)

で、布袋氏がそんな人だと仮定して、「バンド・サウンド的なアルバムを作ったから、バンド的なものが実現出来るステージをやりたい」と言っている妻を窘めるかというと……やらないのではないかなぁと思うわけで。むしろ愛する人の望みを全力で叶えようとするのではないか。
アルバム「1986」の対談記事でも、BOOWYのメンバーやらローディーやらが山下氏のレコーディングに参加できたことを非常に喜んでいたと強調していたし。ましてアルバム「1986」は好評価で、布袋氏のサウンド・プロデュースも脚光を浴びたから、布袋氏もライブでの再現を目指しても不思議ではない。

とはいえ、アルバム「1986」に参加したミュージシャンはBOOWYの3人だけではない。実際、BOOWYのツアー中に行なわれた、山下氏の武道館公演に参加したのは、BOOWYの中では布袋氏のみ。
ただ、他のミュージシャンの方々は布袋氏より歳もキャリアも上。多少なりとも遠慮がある諸先輩方よりは、ある程度我儘がきいて、自分の思うとおりに動かせるBOOWYの2人の方がやりやすいだろう。

単純に「音」そのものを考えて、松井氏と高橋氏の方が優れているとの判断でBOOWYの2人に声を掛けたわけではないと考えている。
何故なら、3月からのツアーに参加したドラムの古田氏も、元々参加予定だったベースの浅田氏も、布袋氏のソロ活動のサポートメンバーを務めたことがあるからだ。布袋氏は2人の音をかなり気に入っていたからこそ、ソロ活動でもサポートに起用したのだろう。
実際、松井氏と高橋氏も参加したアルバム「1986」の対談で、布袋氏は2人のプレイをこう語っていた。

― BOOWYのセットはどうだった?
布袋:マコッちゃんにしろマッちゃんにしろ人のに参加することって少ないじゃない。もう大緊張で。デモ・テープをずい分前から渡して、完コピして来たらキー合わせでキーが変わっちゃって(笑)。マッちゃんとかてんで大変だったみたい。でも人のだから「キーが○○になりました-」とか言うと「はい、わかりましたー」とか言ってるんだけど、それがもう…(笑)。大変みたいでさ。マコッちゃんはキー関係ないからね。
山下:ニコニコしてた。一緒にやりたかったし、それが実現するのがこんなに早いとは思ってなかったので私もすごく嬉しくて。マッちゃんもマコッちゃんも私とやって氷室君が見直されてんの(笑)。「うまいのなぁ、おマエら」って(笑)。
布袋:久美ちゃんはよくBOOWYのステージとか見に来て、結構評価してたから。…オレは評価してなかったし(笑)。
山下:もちろん、どんな曲でもって感じじゃなくて、「これはマッちゃんとマコッちゃんだね」っていうのを、何でも出来ますよ的なニュアンスじゃないから、そこを大切にしたっていう感じ。(※19 P70-71)

山下氏はBOOWYのステージを観て、松井氏と高橋氏のプレイを評価していたが、布袋氏は彼らのプレイを評価していなかった、と。
また、ほぼ同時期、1986年10月28日に行われたとされる布袋氏のインタビューでもこのように語っている。

■■ 他のメンバーから「もっと練習して、上手くなれよ」とか言われませんでした?
他が下手ですからねえ。今でもダメですから(笑)。それは本当に、山木(秀夫)さんに言われたら『ハイ』って言うけど、マコッチャンに言われても『うるせえ』って言うしかないでしょ。『てめえ人のことを言えるのかよ』って(笑)」(※22 P69)

バンドメンバーという関係性があるがゆえの軽口、悪口という側面もあるだろうから、布袋氏の言葉を100%そのままに受け取るわけにはいかない。とはいえ、レコーディングに参加した他のサポートメンバーと比べて、BOOWYの2人への布袋氏の音楽的評価が群を抜いて高かったわけではないことが窺い知れよう。
まして、アルバム「1986」には参加していなかったドラムの古田氏や山木氏はともかくとして、ベースの浅田氏はレコーディングにも1月の武道館ライブにも参加していた。なのに3月からのツアーは松井氏が起用された。浅田氏側の事情で参加できなくなったのでかわりに松井氏が起用された、ということであれば、松井氏起用の理由を大々的に公表すると思うのだ。「急遽参加できなくなった浅田氏にかわり盟友松井氏が駆けつけて布袋氏とその妻の窮地を救う」的な美談として。
だから、2人の起用を布袋氏が希望したのは、元々のサポートメンバーの事情でも、他の人より2人の音の評価が高かったわけでもなく、「僕はやっぱり、年上の人には気を使うんですよ。で、みんな今回年上でしょ。先輩的なニュアンスもあるし。松っちゃんとまこっちゃんは関係ないっすけどね(笑)。」と「1986」のアルバムインタビューで布袋氏が語っていたとおり(※23 P22)、布袋氏が気を使わず自分の自由に動かせる人材を選んだと考えている。

要するに、私としては、山下氏から反対の意見は出なかった。むしろ、レコーディングのメンバーでツアーをやりたいと望んだのは山下氏だと思っている。
「氷室氏に対して失礼」という感情も、最初からソロシンガーのキャリアを歩んでいた山下氏にはピンとくるものではなく、自分のやりたい音楽をやるのに必要な人材が身近にいて、彼らも望んでくれているのであれば、当然起用したい。
「バンド活動が止まる」といっても、BOOWYのツアー終了後のことだし、バンドメンバーである布袋氏自ら、メンバーは山下氏と一緒にやりたがっていた、参加できたことを喜んでいた、と強力にプッシュされてしまってはねぇ…。そりゃあ気付かず、無邪気に「一緒にやりたい」「ずーっとああいうやつがやりたかったの」「思い描いた所にようやく辿り着けました」とはしゃぐでしょうよ、と。
レコーディングのメンバーでバンドっぽいステージをやりたかった山下氏と完全に自分の自由に動かせるメンバーとやりたがった布袋氏の利害の一致が、この事件を生んだと私は思っている。

まぁ、私の勝手な憶測だけど。

【2つの疑問】

蛇足として、最後にもう一つ妄言を。
山下氏のツアーバンドの件――氷室氏に黙って布袋氏が松井氏と高橋氏を自身の妻のツアーに同行させようとした件を振り返ってみて、疑問に思ったこと。
この件は高橋氏の自伝「スネア」にしか書かれておらず、情報があまりにも少なすぎる。検証しようにも信頼するに足る他者視点がなく、高橋氏の証言のみ。そのため、私の勝手な妄想として本編とは別に書かせていただく。

私が高橋氏の自伝に書かれたこのエピソードを読んだとき、引っ掛かったところが2箇所あった。
一つは「久美ちゃんのプロデューサーがわざわざ俺一人を呼び出して」という点。
もう一つは、「氷室に直接事情を伝えることにした」という点。

まず1点目。
「山下氏のプロデューサー」が「わざわざ高橋氏一人を」呼び出して「布袋氏が高橋氏にドラムを叩いてほしいと言っている」って……何故布袋氏が直接言わずに山下氏のプロデューサーが言うのだろうか。
「1986」のレコーディングに参加しているので、山下氏のプロデューサーが高橋氏の連絡先を知っているのはわかる。だけど、私の推測では、このオファーがあったのはBOOWYのツアー中。長期オフ中でメンバー同士が顔を合わせないというならともかく、ライブがあるから毎日とはいかなくても数日おきにはメンバーは会っているはず。その時直接布袋氏が誘えばいいのではなかろうか。何故それをせずに、プロデューサーがわざわざ高橋氏一人を呼び出すの?というのが私の最初の疑問

次に2点目。
「氷室に直接事情を伝える」って、どういうこと?
私の言語感覚(なのでもし世間の感覚とズレていたらすみません)では、「事情を伝える」とした場合、表面上に見えている事実のみを捉えた場合は誤解されかねない状況であることが前提で、事情を説明せねばらない事実について、相手が既に認知しているか、又は相手にその事実が伝わることが確実で、それに至った状況を相手が誤解せずに正しく認識してもらうために説明するときに使う言葉なのだ。或いは、自分が困っている状況にあって、誰かに助けてもらいたいときに、その誰かに状況を話すときに使う言葉。

相手が知らない方が丸く収まることであれば、いちいちその事情を伝える前に、その事実が起きないように行動する。この場合では、一旦回答を保留して、「それはバンドとしての筋が通ってない。やるならメンバー全員で話し合ってバンドとしての同意を取るべき」と布袋氏を諫めるといったように。若しくは自分の胸だけに納めて、オファーは断るといったように。

高橋氏がわざと波風を立てて面白がるような性格ならともかく、ことBOOWY関連のインタビューなどを読む限り、高橋氏はメンバーに気配りする性格だと感じるのだ。(まぁ、近年のTwitterはアレですが……。BOOWY関連のインタビューでは極めて常識的な発言が多い。)
氷室氏がツアー終了後にロンドンへ行ってしまう直前に、ただ一人だけ氷室氏を気遣うような発言をしているインタビューもある。(同日、他の2人は山下氏のツアーメンバー全員で某来日ミュージシャンのライブを満喫中。)

ここで不用意に事実を告げて氷室氏と布袋氏の間に不和を生じさせても、高橋氏には何のメリットもない。仮にここで氷室氏と布袋氏の間に深い溝が出来てバンドがバラバラになったら、高橋氏だって困る。その結果、BOOWYが解散してしまったら、ドラマーがバンドに属さずに活躍していくのは容易ではないし、独り立ちしてもBOOWY以上に華々しく活躍できると考えるほど、高橋氏が自分の才能を過信していたとも思えない。(BOOWYが解散していち早く他のバンドに所属していたし。)職を失っても養ってくれる妻が当時いたわけでもない。高橋氏とメンバーそれぞれとの関係もそれほど悪かったようにも見えない。
ゆえに、「自分自身のことを考えながら、やがて一本立ちできるような方向へ進もう」と、布袋氏がそう遠くない未来での解散を願う言葉を吐いていたこの状況下において、揉め事を起こしてさらに波風立てるようなことをするとは到底思えないのだ。
なのに、布袋氏を窘めることなく、「氷室に直接事情を伝えることにした」。それは何故?

1点目の、布袋氏が直接高橋氏にオファーしなかった点については、布袋氏のこれまでの言動・行動に鑑みると、何となく納得できなくもない。(あくまでも私の想像だけど。)
私がリアルタイムで見ている布袋氏の言動・行動は近年のものでしかないが、布袋氏は何かやろうとする際に兎に角「それは相手が(相手も)望んだことだ」「(俺がそうやることを)みんなも望んでいる」という状況を作り出そうと工作するきらいがある。(注:布袋氏にとって都合の悪いことは。賞賛を受けたり成功に繋がる出来事は、(他人がやったことでも)後出しジャンケンで「俺がやった」「俺が考えた」と俺だけの功績アピールがすごい)

もしも山下氏のプロデューサーが独断で、布袋氏の意思だと騙ってオファーしたのであれば、布袋氏の性格上、ほぼ確実に「BOOWY以外での活動の成果を持ち帰る」なんて言い訳はしない。「俺はそんなこと言っていない!濡れ衣だ!」と殊更被害者アピールすると思うので、布袋氏が2人を誘いたいと考えていたのは紛れもない事実なのであろう。

当時のインタビューを読むと、山下氏はBOOWYのメンバーと一緒にやることをとても喜んでいたようだ。もっと一緒にやりたいけれど、BOOWYの活動もあるからできないといった趣旨の発言も残っている。
彼女も望んでいるし、自分も気を使う先輩よりも気心の知れた仲間の方がやりやすいし、みんなも久美ちゃんのレコーディングに参加したのを喜んでたし、何だ良いことづくめじゃん。2人にツアーにも参加してもらいたいなぁ、でもヒムロックがなぁ……3人でやるのがいいと『俺は』思っているんだけどねぇ……という感じで、山下氏のスタッフの前で常の如くチラッチラッと匂わせをやっていたのではないかという疑いが捨てきれない。(笑)
BOOWYが6人から4人になった時に、諸星氏と深沢氏の音に苛立つ布袋氏を見かねてスタッフが2人を斬ることを進言したことが成功体験となり、自分が態度に出せば周囲が動いてくれると考えていたのでは?と思っている。現在でもアドバルーン発言が多い御方でもあるし。

それに、布袋氏の意を汲んで山下氏のプロデューサーが動くという形をとれば、布袋氏は如何様にも言い逃れが出来る。もしそれで2人がオファーを受けたら「参加は2人が望んだこと」「2人がやりたいと言っているんだからしょうがないでしょ」とメンバーの総意を盾に開き直ることができる。
氷室氏が2004年にBOOWY楽曲を演ったことに対する「メンバー3人メチャクチャ哀しい気分にさせられた」コメントでわかるとおり、自分の考えを勝手に「メンバー3人」の総意であるかのように装ってしまうような御方でもあるし。
そもそも、いくら2人へのオファーをこっそりやっていたところで、実際にツアーに参加するとなったら、絶対に氷室氏が知るところになる。隠し通せなどしない。ならば、あくまでも山下氏のスタッフが動いて、2人がやりたいと言ったから参加してもらうだけという体裁を整えれば、布袋氏は矢面に立たずに済む。そうすれば自分が悪者にならずに済む。

ツアー中で、その気になればいくらでも布袋氏が直接話すチャンスが作り出せたにもかかわらず、山下氏のプロデューサーから高橋氏にオファーさせたのは何故か。その理由として、私の頭で考えつくのはこの程度。
そんな簡単にツアーメンバーを変えられるの?という疑問もあるが、布袋氏が才気に溢れていた時代の話であり、山下氏も望んでいたことなので、ある程度の無理はきいたのかな?と想像する。
氷室氏も後に、「四人が何かアクションを起すことに関して全てがものすごい動き方で動く」と当時を振り返っていたように、向かうところ敵なし状態だったのかも。
(注:これらは、あくまでもこれまでの布袋氏の発言等から類推した布袋氏の性格をもとに導き出した私の妄想です。)

2点目の高橋氏が氷室氏に直接事情を伝えた件だが、まず前提条件として、山下氏は事務所も違えばレコード会社も違う。サウンド・プロデュースは布袋氏なので、高橋氏に布袋氏の意思を伝えたプロデューサーは、山下氏の事務所かレコード会社のプロデューサーだろう。そのプロデューサーが出張ってきてしまえば、ある程度オフィシャルな話、ビジネスめいた話にならざる得ない。当然、プロデューサーは色々なパターンを想像して動くはず。

私の想像が正しければ、1987年2月はじめの時点では、まだ2人の参加が決定していない。だが、山下氏のツアーは3月15日には始まってしまう。スケジュール的にはかなりタイト(と思われる)。先述の通り、山下氏とBOOWYは事務所もレコード会社も違うが故に、仮に本人たちの同意が取れたとしても、事務所やレコード会社との調整も必要になってくるだろう。そうなると、時間はあまり残されていない。となると、山下氏の事務所やスタッフにも同意を取り付けた上で、メンバーへのオファーと同時進行で、2人も参加することを前提に、BOOWYの事務所やレコード会社へも根回しを始めるのではないかと思うのだ。

つまり何が言いたいかというと、高橋氏が事情を伝えるよりも前に、山下氏のツアーに3人が参加すると氷室氏の耳に入ってしまったのではないか?ということ。
同じバンドのメンバーなのだから当然知っていると思って不用意に、或いは、布袋氏の希望を知って面白半分に(しかし表面上は心配している風を装って)氷室氏に伝えてしまった関係者がいたのではないかと疑っている。
でなければ、どストレートに「山下さんのプロデューサーから他のメンバー全員をバックバンドとして起用したいとオファーがありましたがどうします?もう既に3人には話を通してあるそうです」と氷室氏に訊いてしまったとか。
もしそうであるならば、高橋氏が氷室氏に直接事情を伝えようとした行動も理解できる

当時の音楽雑誌に掲載されたライブレポなどで、たまに打ち上げの模様が描写されることがある。そういう時は、大抵氷室氏は、近くにいるスタッフを捕まえてその日のライブの反省点などを議論している様が書かれている。お酒を飲まないというのもあるだろうけれども、次のライブはもっと良いものにしようととにかく真剣。そんな一つ一つのライブに全てを賭けている人間が、BOOWYのツアー中に、自分には何の話もなく、他のメンバー全員が、間もなく始まる他のミュージシャンのツアーに参加しようとしている、と他人の口から知ってしまったら、多分とても動揺するし、怒る。メンバーに対する不信感だって生まれるだろう。

個人的には、「3人で参加しようとしている」ことよりも「氷室氏に黙って動いたこと」の方がはるかにマズイと思っている。報連相は大事だ。相談できないような状況にあるならまだしも、ツアー中で毎日のように顔を合わせているのであれば尚更。せめて事前に相談していれば…。氷室氏には事前相談する価値もないと言っているようなもの。布袋氏は大事な相手には非常にマメなので、そんな態度は相手をどう思っているかの何よりもメッセージになってしまう。

氷室氏はBOOWYの顔だ。BOOWYのヴォーカルだ。後期はキャーキャー言うファンに嫌気が差してずっとステージでふて腐れていた布袋氏とは立場が異なる。何があろうと氷室氏には布袋氏のような甘ったれた態度が許されない。フロントである氷室氏がそんな態度を取れば、即BOOWYの評価に直結する。
バンドのメンバーを「自分の後ろを固めてくれて、いっしょに攻めて行くべき人間」と評していたように(※31 P43)、氷室氏にとってBOOWYはあくまでも4人で一つ。メンバーは自分の後ろを守ってくれて、一緒に戦っていく仲間だった。そんな味方であったはずの彼らに裏切られて、背後から斬り付けられたようなもの。ツアーはまだ残っているのに、最悪の精神状態で、信頼関係が損なわれた「仲間だったモノ」に囲まれて、しかしステージではいつも通り自信満々に歌わないといけない。
どんな地獄だ。
だから、高橋氏はツアー中の氷室氏のメンタルを慮って、直接事情を伝えたのではないだろうか。「俺は久美ちゃんのツアーには参加しない」という結論とともに。

もし「3人への山下氏のツアーサポートのオファー」の件が先に氷室氏の耳に入ってしまっていたのなら、氷室氏が直接高橋氏に事情を尋ねた可能性もある。例えば「3人が久美ちゃんのツアーに参加するという話を聞いたけど本当か?」或いは「まこっちゃんにも久美ちゃんのツアーサポートのオファーがあったと聞いたけど、まこっちゃんも参加するのか?」といった具合に。
そんな風に尋ねられたら、正直に事情を話すしかない。下手に誤魔化そうとしても、多分すぐにバレる。特に氷室氏は嘘をつくのもつかれるのも嫌いなタイプだと思う。嘘がバレたら、更に氷室氏を傷つけることになるから。(しかも今回は、その場しのぎの嘘や誤魔化しを言って後に事態を悪化させるのが得意の布袋氏が火元だから、バレることはほぼ確実)

あともう一つ。
もし、氷室氏から事情を訊かれたのではなく、高橋氏の方から氷室氏へ事情を伝えに行ったのであれば、高橋氏の自己保身も多少はあったのかな?と疑っている。(笑)
もしも高橋氏と松井氏が同時オファーではなく、先に松井氏の参加も決まっていて、それから高橋氏にオファーがあったのならば、BOOWYの4分の3が山下氏のツアーに参加するのは「高橋氏のせい」にされかねないから。

この「3人を山下氏のツアーに参加させようとした件」については、布袋氏の行動を批判する声が圧倒的多数だが、もし高橋氏が「布袋氏も松井氏も参加することがわかっているツアー」への参加を希望したのであれば、批判の声の行き先が分散する。または逆転する。
「BOOWYの4分の3が参加することになってしまうのがわかっていて参加を希望したのか」と高橋氏を責める声が上がるのは確実。今でさえ、布袋氏の信奉者達は布袋氏の行動を棚に上げて「高橋氏が氷室氏に余計なことを告げたから解散になった」と解散の原因を高橋氏になすりつけようとしているし。(高橋氏が告げ口したことが解散原因だと逆恨みしている方々は、もし高橋氏が氷室氏に何も告げずに山下氏のサポートを引き受けたのなら、メンバー間を取り持つ行動をしない高橋氏が悪いと、やっぱり高橋氏を攻撃すると思う。)
その上、山下氏のプロデューサーがわざわざ高橋氏「一人だけ呼び出して」オファーしているのだから、布袋氏が「俺はまこっちゃんに叩いてくれなんて言っていない。オファーはあくまでプロデューサーの独断」と言い逃れをして、プロデューサーも口裏合わせて「前回のレコーディングに参加されたのを非常に喜んでいらっしゃったので、お誘いしただけ」と、わざと高橋氏が望んでいたからオファーしたという体にされてしまったら、否定しようにも証人がいない。

だからもしも、3人が参加すると先に氷室氏の耳に入ってしまっていたのなら、最後に承諾した(=3人とも参加するのは自分のせい)という形にさせられてしまう高橋氏は、何を置いてもまず、直接氷室氏に事情を伝えに行くと思うのだ。

あと考えられるとしたら、山下氏のプロデューサーが高橋氏にオファーした際に、氷室氏には既に了解を得ている的なことを言ったとか。
念のため高橋氏が直接氷室氏に確認したら、「何それ聞いてない」となって、事情を洗いざらい話さざるを得ない状態になってしまったとか。
でもこれだと「まるで氷室を除け者にしているようで、いくらなんでもまずい」と思ったことと整合性がとれないからなぁ…。

高橋氏が「事情」を氷室氏に伝えた経緯については情報が少なすぎるので、私の妄想はまるっきり的外れかもしれない。高橋氏だって自分に都合の悪いことはわざわざ自伝に書かないだろうし。
ただ私は、「高橋氏が氷室氏に直接事情を伝えた」のは、そうせざるを得なかった何らかの理由があったのではないかと考えているのだ。そこで、こういうことであれば私は納得できるというものを推測していくつか挙げてみた。そのため、この私の想像はちょっとした与太話程度に思っていただきたい。
……だけど、布袋氏も松井氏もこの件の真相については恐らく口を噤んだままだと思うので、このままずっと真実は闇の中、だと予想。
この件についてファンの皆様はどのように考えているのだろうか。「高橋氏が山下氏のツアーバンドの件を氷室氏に告げた」という話をしているファンは偶に見かけるけれど、高橋氏が何故そうしたかを考察されている方はほとんど見ないので気になっている。

もしも新たな事実が判明したら、書き直すか、追記します。


【出典・参考資料】

※1「スネア」/高橋まこと著
※2 氷室京介ぴあ
※3 ROCKIN'ON JAPAN 1988年6月号 / インタビュー日1988年4月23日
※4「ある愛の詩」/山下久美子著
※5「秘密」/布袋寅泰著
※6 B・PASS SPECIAL EDITION BOOWY 1986-1988 P65-66 初出:B・PASS 1987年1月号
※7 B-PASS 1987年8月号P93
※8 きくちPの音組ブログ「2006/07/29『僕らの音楽』第58回収録」
※9 「BOOWY B to Y」
※10 2011年頃の布袋寅泰公式Twitter
※11 PLAYER 1986年4月号
※12 KYOSUKE HIMURO LASTGIGS 東京公演最終日 2016年5月23日 氷室京介MC
※13 KING SWING 1989 WINTER P21
※14 PLAYER 1984年1月号 P237
※15 FOCUS 1986年1月10日・17日合併号 P33
※16 PLAYER 1986年3月号 P72
※17 PLAYER 1986年6月号 P243
※18 月刊カドカワ1991年4月号 「総力特集 氷室京介」本人自身による全作品解説「JUST A HERO」P42
※19 PLAYER 1986年11月号 
※20 PLAYER 1985年11月号 P251
※21 KYOSUKE HIMURO LASTGIGS 福岡公演 2016年5月14日 氷室京介MC
※22 ROCKIN'ON 1988年3月号増刊 ROCKIN'ON JAPAN FILE 布袋寅泰インタビュー 初出:ROCKIN'ON 1986年12月号増刊 vol.3 / インタビュー日1986年10月28日
※23 ARENA37℃ 1986年11月号
※24 PATi PATi 1986年12月号 P121
※25 「記憶」/松井恒松著
※26 2016年1月25日 FM COCOLO J-POP LEGEMD FORUM/田家秀樹(ゲスト子安次郎)
※27 B-PASS 1987年4月号 P104
※28 FRIDAY 1988年12月30日号 P50-51
※29 2019年5月6日付サンケイスポーツ
※30 宝島 1986年10月号P87 宝島ロングインタビュー「最後の賭け(ラスト・チャンス)」氷室京介(BOOWY)
※31 「路傍の岩」/佐伯明 ロック・インタビュー&評論集
※32 B-PASS 1991年9月号 P21
※33 宝島 1987年12月号 P32
※34 宝島 1990年4月24日号 P36  
※35 パチ・パチ・ロックンロール 1992年8月号 P76
※36  PLAYER 1987年6月号 P243
※37 The BEST HIT 1988年2月号P12
※38 1987年11月8日付デイリースポーツ
※39 FRIDAY 1987年12月25日号 P23 
※40 DOCUMENT OF KYOSUKE HIMURO“POSTSCRIPT” 第3章「decision」
※41 ARENA37℃ 1987年6月号 P89
※42 PATiPATi 1986年10月号 P72
※43 2021年12月24日配信 現代ビジネス「氷室京介は“解散”と決して言わなかった」BOOWYドラマー高橋まことが語る「一番悲しいクリスマスイブ」/ライター:白鳥純一
※44 Rock’n Roll 1992年8月号 パチ・パチ・ロックンロール第1期最終号 BOOWY SPECIAL P76
※45 GIGS 2002年10月号 P13
※46 Guitar magazine 2022年3月号 P27

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