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氷室京介35周年ファイナルイベント~②ギャラリー編<後編>~

【ご注意とお願い】

こちらには、「KING SWING GALLERY」に展示されていた『氷室京介直筆作詞ノート』の「歌詞」ではなく、「作詞ノート」そのものを見て感じた超個人的な感想と、そこから派生した独断と偏見に満ちた妄想しか書いておりません。よって、リリースされた詞との違いなど、原詞に関する情報入手を目的としていらっしゃった場合は、御期待に沿うことはできませんので、予めご了承願います。
なお、ここに記すあれこれは、あくまでも”私”の記憶に依るものであるため、情報の客観性や確実性を絶対的に証明できるものもございません。
それに加え、作詞ノートを見て、何を感じるか、何をピックするかは人によってそれぞれ異なり、私が大して重要だと思わず見過ごしたことが、他人にとっては重要であったりもします。逆も又然り。さらに、現物をその目で確かめた人と、人伝に情報――他人のフィルターを通した断片――を聞いて想像した人が感じたことでは、一層違ってくることになります。
よって、あの作詞ノートをご覧になっていない方(行ったけど覚えていない方も含む)が、「ここに書いてある断片」を御自分にとって都合の良いところだけ適当にピックしてSNSや動画サイトなどで拡散したり、Wikipediaに記載したりするのはおやめくださいね。

なお、GALLERY全体の感想は<前編>からどうぞ。


1.展示解説文

「作詞ノート」には、展示解説文がついていた。
とりわけ私の目を引いたのは「季節が~」のキャプション。
BOOWYの本(「RENDEZ-VOUS」と書いてあったように記憶しているが、帰宅して確認したら微妙に文面が違っていたので、なんとも言えない。き、記憶力が……。)から抜粋したとされる文章を引用して、武道館公演を終えた後のオフに、氷室は曲作りのためにロンドンに滞在していたとされる」といった旨の文章が書かれていた。
(注)あくまでもキャプションの要旨であって、一字一句同じではありません。

「……ん?『とされる』?引用元も書いてある。って言うことは、本人に訊いてないんかーい?!」と思わず心の中でツッコんだが、高橋氏が自伝「スネア」に書いていた「山下氏のツアーバンド事件からの、氷室氏のロンドン滞在」について知っていたら、本人に直接訊くなどできやしないよなぁ。
「公式で『そう』となっていること」を「本当ですか?」と尋ねるのも変だし、あの頃の複雑な事情に鑑みると、気軽に踏み込むことができるネタでもない。

BOOWYの本からの引用である以上、「とされる」という表現は正しい。正しい、のだが……公式で『そう』されているのだから、断定してもそう大きな問題は生じないように思われるのに、「(事実かどうかは別として)~と言われている(考えられている)」という意味を持つ「とされる」を氷室氏公式が敢えて使ったことを深読みすると、大変妄想が捗る。(笑)

実際のところ、情報の正確性を期するのであれば、「とされる」という表現は極めて妥当だし、氷室氏自身も「曲作りと自分を見つめ直す期間の半々の意味があった」という発言をなさっていたこともあるので、「そんなところにいちいち引っかかって妄想するな!」というご批判は甘んじて受けます。

2.「MEMORY」

解説文はこれくらいにして、本題の作詞ノートについて。
まずは向かって右側に飾られていた「MEMORY」を。

<前編>でも少し触れたが、こちらはかなり赤入れされており、創作経緯がわかる非常に貴重なもの。
加筆修正箇所以外で私の目を引いたのは、詞が書かれていた”紙”であった。
左下に赤字で”SEDIC”と印字されていたこの用紙。

”SEDIC”と言われてまず思い出すのは、かつて六本木にあったというレコーディングスタジオ。「MEMORY」が収録されているアルバム「PSYCHOPATH」のレコーディングが同スタジオで行われていたことは、当時の音楽雑誌やメンバーである高橋氏の自伝「スネア」にそう書かれていたことから、よく知られている。

1987年2月末に終了した”ROCK'N ROLL CIRCUS TOUR”の後、同アルバムのレコーディング前まで、メンバーは2か月半の長いオフに入っていた。

ツアーを終え、2度目の武道館公演を無事終了した後、メンバーは2か月半の長いオフに入った。氷室はロンドンへ、布袋は山下久美子の『POP』のプロデュース、松井も山下久美子バンドのメンバーとして、ツアーに参加。高橋はBOOWYフェアのために全国を飛び回るといった様子で、それぞれがそれぞれのやり方でオフを過ごした。

「RENDEZ-VOUS」

公式本「B to Y」及び当時の音楽雑誌の多くによると、氷室氏は休暇で訪れたロンドンで「PSYCHOPATH」のための曲作りを行っていたとされており、同アルバムに収録された12曲中3曲が氷室氏の作曲だ。
他方、同アルバム中9曲を作曲した布袋氏は、「久美ちゃんのレコーディングをやりながらBOOWYの曲も書いてた」或いは「休みの間久美ちゃんとやっていて、彼女の『POP』が終わってからBOOWYの曲を書き溜めた」というような発言が当時のインタビュー記事に残っている。

ということは、BOOWYのオフの間にお二人は曲を書き溜めており、オフに入る前にはまだ曲はできていなかったことになる。
氷室氏は、当時の音楽雑誌に「5月下旬、帰国の予定」と書かれていた。
同アルバムのミーティングのためにメンバーが集まったのは5月末だとされている。また、レコーディングは6月中旬から下旬にかけて行われたという。(アルバム「PSYCHOPATH」の先行シングル「Marionette」のWikipedia(2024年8月末時点)では、「リリース、チャート成績」において「1987年4月6日に東芝EMIのイーストワールドレーベルから7インチレコードの形態でリリースされた」と解説されているが、恐らく「ONLY YOU」と混同されていると思われる。よって、通説どおり「PSYCHOPATH」の楽曲は全て6月にレコーディングされたものと判断し、以下進めさせていただく。)

5月末からレコーディング開始の6月中旬までの間に、例の如くの選曲会議で収録曲を決定して氷室氏が詞をつけて(同アルバムは1曲を除き全て氷室氏作詞)、布袋氏が編曲して、となると、時間の余裕はそうない。
オフは長かったものの、アルバム制作スケジュール的には、それなりにタイトであったのではないか。まして、アルバム発売に先駆けて、夏には「CASE OF BOOWY」や各地でのイベント出演も控えており、そうそう延長はできない。

アルバムのトラック・ダウンのためにベルリンに発つ前日、録りを終えたリズム隊のお二人(氷室氏はまだヴォーカル録りの真っ最中)に行われたインタビューの中で、松井氏は「氷室クンは、みんながやってるときは詞を書いたりしてる」と話していた。
つまり、楽器隊が録りに入ってからもまだ氷室氏の詞の執筆作業は続いていたということだ。

“SEDIC”――レコーディングスタジオ名が印刷された用紙に書かれていた「MEMORY」の歌詞。
既に解散が決定事項となっていた中で始まった「PSYCHOPATH」のレコーディング。
そして”あの”歌詞。

『サイコパス』の中に「メモリー」って曲あるでしょ。あの曲は俺からしたら俺の美学なわけ。男の美学なわけ。”グダグダするんだったら俺がきれいに消えてやるよ”って。消えたっていいわけじゃない。その人が幸せになればいいし。当然実体験からもあるんだけど。「クラウディ・ハート」みたいな歌詞とは表裏一体なところがある。

宝島 1988年2月号増刊 ROCK FILE Vol.1  P19

アルバム「PSYCHOPATH」発売から約2か月後、吉川晃司氏がアルバム「GLAMOROUS JUMP」をリリースした。吉川氏は、BOOWY解散後に布袋氏とCOMPLEXを結成した人物である。このアルバム「GLAMOROUS JUMP」の作品解説の中で、吉川氏はCOMPLEX結成の経緯を明かしていた。

自分の中で、すごく高いところにハードルを設定すると、そこに至らない自分に跳ね返ってきちゃうものっていうのがヘヴィーでさ……。何やっても、「なんじゃこりゃ?なんじゃこりゃ?」って感じで……ドツボ。自分で自分をトンカチで叩いてるようなもんだよね。ドンドン落ちる、落ちるみたいな。じゃあ、もう落ちちゃおうって、ちょうどいいなと思って、じゃあ会社やめさせて下さいって言ったの。そうすると契約の関係でどうせ一年ぐらいは仕事できないじゃない。
それであれよ、布袋君が「俺もBOOWYやめるよ」って言ってたんで、じゃあ何か一緒にやろうってことになるんだけど……。一年は活動できないから、その後でやりましょうっていうことにしたの。

月刊カドカワ1993年3月号 P36

アルバム「GLAMOROUS JUMP」のリリースは、1987年11月21日だった。
BOOWYが解散宣言をしたライブは、1987年12月24日だった。
COMPLEX結成が発表されたのは、それらの約1年後の1988年12月10日だった。

同アルバムの表題曲にもなった「GLAMOROUS JUMP」は、大手芸能事務所を退所する予定の吉川氏とBOOWYをやめる予定の布袋氏が共作し、吉川氏が詞を付けた曲でもあった。この詞の中には次のようなフレーズがある。

GLAMOROUS JUMP 夢のつづき 二人ならつかめるさ

吉川晃司作詞「GLAMOROUS JUMP」より一部抜粋

布袋氏は表向きには自身の海外進出を盾にメンバーに解散(または自身の脱退)を迫っているため、この詞が書かれた時点で氷室氏は、布袋氏と吉川氏とのCOMPLEX結成の密約を知らないはずだ。(なお、内緒であったはずのBOOWY解散を布袋氏の口から聞いて知っていた吉川氏が、氷室氏の書いた詞を承知していたかどうかまでは存じ上げない。)

「君は彼の腕の中 多分今頃は 夢の続きだろう」(※リリース版)な「MEMORY」
「夢のつづき 二人ならつかめるさ」な「GLAMOROUS JUMP」

BOOWY解散後は布袋氏が海外進出すると思っていた氷室氏と、解散後は布袋氏と一緒にやる約束を交わしていた吉川氏。
そんな両者が奇しくも使った”夢の続き”というフレーズ。

解散間もない頃の氷室氏は、布袋氏の才能をリスペクトし、海外進出へのエールを幾度か送っていた。
無論、氷室氏なりの解散の理由はあっただろう。だが、海外進出という”布袋氏のBOOWYの後の夢の続き”を尊重して身を引いたという側面もあったのではないかと私は思う。解散が100%氷室氏自身の個人的理由であったのなら、ソロでの音楽活動における拘りの理由で、「解散した意味を探しているのかもしれない」なんて言葉を漏らすはずがないから。
そうして、”自分達のやりたい音楽を誰はばかることなくやる”ために、仲間を集めて「自分が創ったバンド」に終止符を打った。自らの手で。「音楽=バンドだったから」と言ってソロでのデビューの誘いを断ってBOOWYを結成した人が、バンドとして見る夢を断ち切らざるを得なかった。
BOOWYの成り立ちや氷室氏の発言等を考え合わせると、BOOWY時代の氷室氏は、「バンドとしての夢」と「自分自身の夢」が、ほぼイコールであったように見受けられる。だが、自分の夢を叶えるために他人の夢を犠牲にすることを良しとはしなかった。

「Dreamin'」って歌があって、その歌を演る時に、『夢を見てる奴らに、贈ります』って言うんだけど、最近俺も、27になって、メンバーもそろそろ大人になってきて、色々考えることとかあって、自分の夢っていったい何なんだろうってみたいな。歌を歌っているわりに、つい最近になってそういうことを改めて考えたりすると、未だに正直言って、何が夢なんだか、はっきりしたことは、わかりません

「BEAT CHILD」(1987年8月22日-23日)氷室京介MCより一部抜粋

「PSYCHOPATH」完パケ後の1987年8月、熊本阿蘇で行われた「BEAT CHILD」のステージで、氷室氏はこう観客に語りかけてから、「Dreamin'」を歌った。その姿は、バンドとしての夢を見失い、自分の本当の夢は何なのか改めて自問自答し、藻掻き苦しむ内心を吐露しているようにも見え、心が痛くなる。
なのに布袋氏は、「海外進出の夢」を大義名分に掲げて解散を迫ったその裏で、BOOWYをやめた後に吉川氏と組む約束をちゃっかり交わしていたという事実が、なんともやりきれない。

氷室京介は、メンバー4人の中で唯一、布袋寅泰が解散を言い出したとは言っていない。4人で決めたことだ、と。
「解散後は海外進出する」と約束していた布袋氏がCOMPLEX結成を発表した時も、インタビュアーから問われてはじめて「あれが布袋の本当にやりたいことなのかな」と疑問を呈しただけで、布袋氏が解散に向けてやったあれこれを暴露したり責めたりすることはなかった。インタビュアーがさらにコメントを取ろうと質問を重ねても、「いいじゃねぇかそんなこと。あいつらが好きでやっていることだから」と軽くいなした。
「解散は俺が悪者を買って出ただけ」ということにしたい布袋氏がどんなに誤解を招くような言い方をした時も、そんな布袋氏の言葉に踊らされた人々に誹謗中傷された時も、布袋氏らのイメージ悪化を回避するために、解散の原因は氷室氏にあるかのような悪質な噂を流された時も、口を閉ざしたままであった。

”グダグダするんだったら俺がきれいに消えてやるよ”という彼の美学。
後に氷室氏のサポートギタリストを務めた香川誠氏からも「すげえいい人だから、周囲にうまく合わせてあげているんだ。そして『ちょっと合わないな』というときには自分のほうから静かに消えていく」と評されたことがある。
解散に至るまでの複雑な事情を詳らかにせず、BOOWYを綺麗に終わらせたのは、氷室氏のそういった性格も大きく影響していたのだろう。
ただ、解散後も布袋氏の自分本位な言動や行動によってもたらされた理不尽な謗りを受けても尚沈黙を続けたのは、自身の美学のみならず、バンドへの愛であり、一緒にBOOWYを作り上げていったスタッフへの恩であり、かつて仲間であった者への情でもあったように、私の目には映る。

スタジオで楽器隊が音入れをしているその横で、”彼”は、スタジオ入りしてもなお、最後の最後まで諦めずに、さらにブラッシュアップしようと足掻き、闘い続けていたのだろうか。最後のアルバム、なのに。或いは最後のアルバム、だからこそ。
そこに刻まれた加筆修正は、完成までの試行錯誤が重ねられた彼の足跡だったのかも。
そんな風に思いを巡らすと、こちらも頗る妄想が沸る。

単純に時間が足りなかったのかもしれないけれど。(笑)
アルバム全12曲中11曲の詞を氷室氏が手掛けていることだし。

それにしても非常に物持ちが良いこと。保管は氷室氏がしていたのだろうか。それとも事務所?30年以上前のものなのに紙には皺一つなく(多分)、「MEMORY」も「季節が君だけを変える」も非常に保存状態が良かった。

3.「季節が君だけを変える」

向かって左側に飾られていたのは、「季節が君だけを変える」の詞。
BOOWYのラストアルバムの最後を飾る曲。そして解散宣言前にリリースされた、事実上BOOWYの最後のシングルとなった曲。
この歌詞にまつわる”曰く”については、ファンによく知られている。

それは、氷室氏が一度歌詞を書き上げたものの、「もっと深い、俺たちの関係を言葉にして欲しい」と布袋氏が要求し、氷室氏が書き直した、というもの。
氷室氏も布袋氏も、書き直しを認める発言をしている。(但し、氷室氏は、書き直しの理由については「(布袋氏が)すごく、ラブソングにしたいって言うから」と説明したりもしていた。)
BOOWYの楽曲で布袋氏が氷室氏に書き直しを要求したことは過去一度もなく、氷室氏が歌詞を変えたのはこの曲が最初で最後だったという。
また、その要求を呑んだ氷室氏からは、交換条件として、ラストシングルになることが決まっていた同曲のカップリングを、「CLOUDY HEART」にしてほしいとリクエストがあったと、土屋氏や高橋氏らの証言がある。

順調を極めたレコーディングだったのだが、ひとつだけ引っ掛かったことがあった。それは、氷室が書き上げてきた「季節が君だけを変える」の歌詞を布袋が読んで、「もっと深い、俺たちの関係を言葉にして欲しい」と氷室にリクエストしたことだ。
氷室がそうやって歌詞を変えたことは一度もない。この曲が最後のシングルになることは決まっていたから、今度は氷室から「そういう歌詞にするんだったら、カップリングには『CLOUDY HEART』にして欲しい」と逆に申し入れがあった。もちろんそれに対して誰からも異論はなかった。

高橋まこと著「スネア」

なお、公式本「BOOWY B to Y」の「WORKS」では、「通常ではこのアルバムが最後のリリースということであったが、アルバムの売上状況もよく、更に拍車をかける意味も含めてアルバムからセカンド・シングルをカットすることになった」となっている。だが、同アルバムのレコーディングは6月で、リリースは9月、同曲のシングルカットは10月である。
なのに、メンバーである高橋氏などは、レコーディング時点で同曲をシングルでリリースすることは決定していたと言う。
となると、公式本の記述が正しいのであれば、この「氷室氏が歌詞書き換えの交換条件として、事実上BOOWY最後となる曲に「CLOUDY HEART」を要求したという話」は成り立たない。
どちらが正しいのか私は知らない。
いずれにしろ、こういった逸話には多少なりとも脚色があるものなのだろう。
ちなみに、公式本「BOOWY B to Y」の「HISTORY」では、布袋氏が氷室氏に詞の書き換えを要求したこと、及び、書き換えの交換条件として氷室氏がカップリングに「CLOUDY HEART」を要求した逸話も紹介されている。
………校正ェエ?!

さて、そんな”曰く”付きの同曲ではあるが、今回展示されていたのは、明らかに「布袋氏から要求されて書き直した後の曲」である。(歌詞的に)
しかしながら、<前編>で述べた通り、実際にリリースされた曲の歌詞とは微妙に異なっていた。

それはそれとして、やはりこちらでも私の目を引いたのは、詞が綴られていた”紙”の方である。
それは、ベルリンのホテルの便せんだった。

解説文には、「レコーディング前のロンドン滞在時にベルリンにも滞在していたのか、敢えてその便せんを使ったのか、それともただの偶然なのか、それはわからない」とあった。(文面はうろ覚えです。こんな内容だったという程度に捉えていただければ。ギャラリーの後に行ったフィルコンがあまりにも楽しすぎて、そちらに記憶のリソースが取られてしまいました。観に行ったその日のうちに、忘れないよう書き留めておけば良かったと後悔しきり。)

まず、「2か月半のオフの間にベルリンにも訪れ、そこで書いた」説だが、これは一番可能性が低いと考える。
氷室氏がオフの間に主に滞在していたのはロンドンで、ベルリンに行ったかどうかを私は存じ上げないが、2か月半もあったのだし、行っても別におかしくはないだろう。
しかしながら「季節が~」を作曲した布袋氏は、「『PSYCHOPATH』の曲は、オフの間に、山下氏の仕事が終わってから(或いは平行して)書いた」と証言している。その言が正しいのであれば、たとえ氷室氏がベルリンに行っていたとしても、出来上がっていない曲の詞は書けない。
詞先ならまだしも、曲先詞後だ。さらに布袋氏が同曲を気に入っているからこそ氷室氏に書き直しを要求したという経緯に鑑みると、この説を採ることはできない。

オフの期間中に、完成した曲を氷室氏へ順次送った可能性も考えたが……。当時は一瞬でデータを海外まで転送できる時代ではない。氷室氏がソロになってからの時代でも、氷室氏がエジプトで作ったデモ曲を受け取るために関係者がわざわざケニアまで飛んだり、レコーディングされた音の確認のため国際電話回線を通じてニューヨークから日本へ音を送ったという逸話が残っているくらいだ。仮にオフの後半に布袋氏が同曲を完成させていて、且つ、氷室氏がたまたまベルリンに滞在していたとしても、海外にいる氷室氏のもとへ曲を届けるのは容易ではない。
そもそもアルバムのためのミーティングは氷室氏の帰国後に行われている。
となると、こちらも現実的な想像ではない。

では何故、ベルリンのホテルの便せんに書き付けられていたのか。
ベルリン滞在中に、宿泊先のホテルで、”展示されていた作詞ノート”が書かれたと考えるのが一番しっくりくるのでは?

同アルバムは日本のセディックスタジオでレコーディングされ、ミックス・ダウンはベルリンで行われたと言われている。
書き直しを要求され、氷室氏も同アルバム内で一番最後まで時間がかかった詞だと認めていたことから、同曲だけはベルリンでレコーディングされたというのであればまだ話はわかる。ベルリンに発つ前日なのにまだ歌録りをしていたくらいだ。間に合わなかったと言われても納得できる。
だが、ベルリンで行われたのは「ミックス・ダウンのみ」と伝わっている。もし仮に、BOOWY思い出の地ベルリンで、この1曲のみレコーディングされたというのなら、書き直しの経緯に絡めて大々的に宣伝するのではないか。何故かというと、その方がドラマチックだから。
それに「MEMORY」の歌詞原稿があれだけ加筆修正されているのに、「季節が~」は、(リリースされた実際の歌詞とは多少異なるとはいえ)修正の跡は1箇所のみ(だったはず)で、字の乱れもないまま、最後まで丁寧にしたためられていた。もしも、書き直しの末、同曲だけベルリンでレコーディングという切羽詰まった状況の中で、現地で書かれていたのであれば、「MEMORY」以上に加筆修正されていたのではないか。
彼は、時間の許す限り、歌詞を詰めて詰めて詰めまくる人だ。あれだけ手が加えられていた展示版「MEMORY」の歌詞ですら、リリース版とは異なっていたのだから。

では、レコーディングは既に日本で終え、ミックス・ダウンのために訪れたベルリンで、過去の出来事を追想しながらあらためて「季節が~」の詞を綴ったのだろうか。
だとすれば、実際にリリースされた歌詞と同じ「最終校」の歌詞が書かれていたことだろう。だが、展示されていた歌詞は、リリース版とは少々異なっている。ならば、初校なのか第何校なのかまではわからないが、最終校ではなかろう。
それとも、氷室氏はライブでよく歌詞を変えて歌う方であるから、レコーディングは終わってはいたけれども、さらに良いものにしようと書き換えたのか?
そうならば、展示されていた歌詞がライブバージョンとして残っていてもおかしくない。なのに、商品化されたライブ映像の中にそういったものはない(と思う)。もしも商品化されてないライブの中で展示されていた歌詞を歌っていたのであれば、ブートレグまで収集しているBOOWYマニアの方々が黙っちゃいないだろう。
となると、ベルリン滞在中に書いたという可能性は低いと私は考える。

次の「敢えてベルリンのホテルの便せんに書いた」説だが……もしもこれが正しかったら、胸が締め付けられる。

それ以前に、なんでベルリンのホテルの便せんを持っているのかという疑問もあるのだが。
当時の海外ホテル事情は存じ上げないが、日本のホテルに置き換えてみるなら、確かに、通常であればホテルの部屋にレターセットは用意されており、数枚程度であれば便せんは置いてある。それをもらってきちゃったとか?
それともホテルの売店にでも売っていて、それをお土産として買って来たたのか?……どちらも確証が得られない。

入手方法についての疑問はさておき、ベルリンはBOOWYというバンドにとってターニングポイントの地である。
ユイ音楽工房と東芝EMIと契約したBOOWYは、1985年に新たなスタートを切った。そんな彼らが新たな門出を飾るべく制作したのが、自らのバンド名を冠したアルバム「BOOWY」。
皆様ご存知の通り、バンドにとって初の海外レコーディングを行った同作のレコーディングの地こそ、ベルリンにあるハンザ・スタジオ(ハンザトン・スタジオ)であった。
このレコーディングでベルリンを訪れたことが、氷室氏を除くメンバー3人の初海外。このベルリン滞在時に高橋氏は日記を書いており、その一部抜粋を自伝に(原文ママ)掲載していた。
その日あった出来事を簡潔に箇条書きしているその「日記」には、3rdアルバムのレコーディングの折に滞在したホテル名も記載されていた。
そして、そのホテルの名前と、(私の記憶が確かならば)展示されていた「季節が~」の詞が綴られていた便せんのホテル名とが一致していたのだ。

私は、音楽性は別として、BOOWYというバンドの、バンドとしてのリレーションシップの頂点は、このアルバム「BOOWY」前後――ユイ音楽工房と東芝EMIと契約する少し前からアルバム「BOOWY」完成したあたりだと考えている。

アルバム「BOOWY」以降、BOOWYはもの凄い勢いで成功への階段を昇っていった。ちょうどブレイクするタイミングで作られた次のアルバム「JUST A HERO」も、レコーディング自体は国内だったものの、ミックス・ダウンは前作と同じくベルリンのハンザ・スタジオ。
氷室氏はアルバム「JUST A HERO」の頃を、「ガキの集まりで『ロフトで演ってて楽しければOK』という間柄から、メンバーにプロ意識が生まれ、それぞれバンド外の仕事もやるようになり、バンドの人間関係が段々「大人」になる複雑な関係になり始めた時期」だったと振り返っていた。
アルバム「BOOWY」の頃には同じ夢を見ていたはずなのに、僅か1年足らずで、「JUST A HERO」のミックスダウンのために再びベルリンを訪れた時には、それぞれが違う夢の続きを見始めるようになっていた。
そうして、全て日本国内で作業を終えた「BEAT EMOTION」を間に挟み、「季節が~」が収録された「PSYCHOPATH」のミックス・ダウンは再びベルリンで行われることになる。その時にはもう解散は決定事項だった。
ベルリンという地で見る夢のあとさき。

4人がまだ同じ夢を見ていて、夢を実現させるための第一歩を踏み出した時にはじめて訪れたベルリン。その時に泊まったホテルの便せんに、氷室氏はあの詞を綴った。
山下氏のツアーバンド事件を引き起こし、多くの媒体で解散の夢とバンド外の仕事への憧れを広言して、自身の独り立ちのための外堀を着々と埋めていた布袋氏の「もっと深い、俺たちの関係を言葉にして欲しい」とリクエストに応えて。

「それぞれが自分自身のことを考えながら、やがて一本立ちできるような方向へ進んだほうがいいんじゃないかな?」
「別に(ヒムロックにしても)俺といなくても平気じゃん」
と言い放ち、解散を切り出した布袋氏との。
後期にはもう、
「(氷室氏からボーカリストとしての光が消えたらパートナーシップを)切るかもしれない」
「(氷室氏とのパートナーシップは、)とりあえずここで止るんじゃないかな」
「(人との出会いで作業やって一番快感を得られたのは)久美ちゃんとか、吉川とかの時。BOOWYの時には言えないっていう」
と、BOOWYの外に関心が移っていることを隠そうともしなくなった布袋氏との。
そんな「俺たちの関係」を氷室氏が言葉にした「結果」が”あの歌詞”だというのなら。
そして、バンド初の海外レコーディングで宿泊したホテルを敢えて選んでその歌詞を綴ったというのであるなら。
どうにも、やるせない。

自分の中にある”想い”を言語化するには、自分自身を見つめ直し、その時の感情と向き合わなければならない。
BOOWYの始まりから終わりまで、心の中で過去の出来事を追体験し、どうしてそうなったのか、その時どう感じたのか、自分はどうしてそう感じたのか、気持ちを整理して”言葉”にする。
そうして出てきた言葉が、”あの詞”だったのだろうか。
決して誰かを責めることなく、何かのせいにすることもない。一緒に過ごしていくうちに手に入れた幸福と、時を経てそれが失われていく月日の無情さ。消え去り行く者への静かな諦念と取り残されし者の自嘲が滲むあの詞。
”変える前の3行”がとりわけ胸を締め付ける。

「『あ、そうか、あの時に他人が俺に対してこうやったから、俺はこういうことをやられた時にこう感じちゃうんだな』とかさ。それは自分で変えていくしかないんだなって。いつもそこに行き着くんだけど」
「人が悪かったんだって思うのってカッコ悪くてやなのね。そこは最後の意地だよね」
「もしもグチを言ったとしても、絶対自分の内ではさ、他人が悪いからじゃないんだよね、それは絶対、自分が悪いからだよね。だから、グチを言ってるやつを見てもカッコいいと思わないし。やだし。できるだけグチは言わないようにしようと思うし。起きることは全部自分のせいだよね。それを変えられる可能性も持っていたのも自分なのに、変えられなかったのは自分なんだからさ」

「人間、氷室京介の部分を今回はグチで言うんじゃなくて、作品として提示しようと思ったと」
そう問われ、肯定していた氷室氏。
『PSYCHOPATH』完パケ直後に行われたインタビューで発せられていた氷室氏の言葉の数々が切なく響く。

あの詞に込められていたは追憶だったのか。それども、”子供でいられた最後の時期”への訣別だったのか。或いは他の何かであったのか。
氷室氏は何を想ってベルリンのホテルの便せん――4人がまだ同じ夢を見ていた頃の――を手に取り、「BOOWY最後のシングル曲」の歌詞をしたためたのだろうか。

こういった一つ一つの積み重ねによって、氷室氏は解散への覚悟を決めていったように、私には見える。そうやって未練を封じ、過去に区切りを付けて、顔を上げ、真っ直ぐ前を向いた。

「想い出はくりかえさない 似ていても同じものじゃない」
ソロになってから、彼はたった一度だけ、BOOWYのベーシストであった松井氏を起用したことがある。自身のソロ活動がセールス面でもBOOWYを超えたタイミングで。
ソロになって間もない頃に、自身のライブを観に来ていたBOOWYのドラマー・高橋氏をステージに呼び込み、飛び入りでBOOWYの楽曲を叩かせたことはあった。しかし、自身のソロ楽曲をBOOWYのメンバーに正式に演奏させたのは、松井氏が参加した「SHAKE THE FAKE」ただ1曲のみ。
その曲が表題曲となったアルバムは「TRUE BELIEVER」で終わった。最後に辿り着くこの曲でも彼は、歌詞カードの詞から1字だけ変えて歌っている。
その”変えた1字”こそが、彼の”決意”を表しているようで……。
松井氏起用曲の曲調やそのタイトル、アルバムをこの歌詞の曲で〆た意味を妄想しだすと止まらなくなるし、アルバム「SHAKE THE FAKE」を巡るあれこれについては(現時点では未完ではあるけど)以前触れていることから、ここで詳細は記さない。が、このアルバム発売直前に、「一人で家で弾いてても寂しいもん」なんていう理由で「4人集まって、BOOWYをなんかやってみたいと思う」と、布袋氏が世間に向けてあっけらかんと宣いだしたことを思い出すと、未だに苦々しい気持ちで一杯になる。よりにもよって、「まるで氷室を除け者にしているようで、いくらなんでもまずい」とメンバーからですら言われるような真似をしでかし、BOOWYを解散へと追い込んだ貴方がそれを言うのか。渋公のステージで、ファンに解散を告げなければならなかったのは、誰よりも解散を望んでいた布袋氏ではない。「氷室はこの4人でのBOOWYでいたかった」と言われていた氷室氏だったのに。
そうして、バンドとしての方法論しか知らなかった氷室氏はソロになり、ブレーンを集め、多くのことを学び、5年掛けて「BOOWYのセールスを超える」というケジメを付けた。そこで漸く「自分の音楽」を追求できると新たに一歩を踏み出した、そのタイミングで、それを言ってしまうのか。
「そんな理由」で「また」を望むのであれば、どうしてあの時氷室氏に、BOOWYを殺させたのか、と。
1字変えて歌っていた氷室氏は、この時の布袋氏の言葉を一体どのように受け止めたのだろう。

「『自分は』再結成も共演も吝かではない」という態度を取る今の布袋氏を持て囃す一方で、そんな布袋氏を氷室氏が一顧だにしないことに対して、氷室氏へ恨み言や誹謗中傷をぶつける人もいる。特に布袋派と言われるBOOWYファンや再結成熱望派などが「布袋さんは過去を水に流して氷室に歩み寄ろうとしているのに、布袋さんを許さない氷室は心が狭い!再結成しろ!」と。(実際にはもっと口汚く罵ったり、氷室氏の才を過度に貶める方々を何人もお見かけした。)
だけど、かつての布袋氏の言動や行動こそが、氷室氏に解散の意義を自問自答させ、解散に対する覚悟を固めさせていった大きなファクターだと私は考えている。「もっと深い、俺たちの関係を言葉にして欲しい」と、書き直しを要求したことも含めて。
で、その氷室氏の「覚悟」こそが、BOOWYがファンの心の中で色褪せない存在であり続けた最大の理由だとも思っている。
私が思うに、だけれども。

そもそも氷室氏の言動や活動をきちんと追っていれば、再結成は布袋氏を許す許さないとか、好きか嫌いかといった問題ではないとわかりそうなもの。
それに、布袋氏の言動や活動をファンの欲目を抜きに冷静に追っていれば、布袋氏が折に触れて氷室氏の(昔の雑誌に掲載されていたような宣材)写真をSNSにアップしたり、BOOWY時代の(自分の都合の良いよう脚色した、又は当たり障りのない)想い出話を語るのは、ぶっちゃけ、そうすると「ウケるから」「世間の注目を集められるから」であって、本気で(少なくとも布袋氏が氷室氏に頭を下げてまで)再結成したいとは考えてはいないこともわかりそうなもの。
なのに、布袋氏のリップサービスを真に受けた人々がそうやって騒ぎ立てることによって、ファン以外までもが「BOOWYは氷室氏と布袋氏の確執で解散した」だの「2人の不仲で再結成できない」だの言い出すのが本当に不快だ。それはまるで氷室氏の”覚悟”を踏みにじる行為のようで。

……とまぁ、ここまで筆の赴くまま、言いたい放題書いてきたけれども、3番目の選択肢である「深い意味はない、ただの偶然」というのも十分あり得ると思っている。そいうところは割と無頓着な面もあると思うので。
但し「ただの偶然」として片付けるには不可解な点もある。

初海外レコーディングの時に泊まっていたホテルの便せんなんて思い出の品ではないの?だとしたら大事に仕舞っておいて気軽に使わないのでは?「近くに他の紙はなかったのかーい!!」とツッコんでしまう。
逆に便せん自体に大した思い入れがないのなら、帰国したらすぐ使ってしまうか、使わなくても適当に保管していたのではないかと思うのだ。なのに、偶々あんなに綺麗な状態で残っていて?
氷室氏が歌詞を書くときに偶然手元にそれしかなくて?
その便せんを何も考えずに使った……?
それもなんとなく釈然としない。

結局のところ、真実を知るのは氷室氏のみ。
実際にその時どのような想いを抱えて”あの歌詞”を綴っていたのかを知っているのは氷室氏だけ。そして氷室氏自身は黙して語らず。
わからないこそ、私もついついこうやって色々と想いを巡らしてしまうわけで。
とはいえ、私自身は関係者にも業界にも知り合いはおらず、ただ単に、当時の雑誌記事や関係者インタビューなどの「表」に出てきている情報を基に、当時の状況を掴もうとしているだけなので。当然知らないことも沢山ある……というか知らないことだらけ。当時の”表に出ない事情”を知る方が私の妄想をご覧になったら”なんじゃこりゃ。全然違うよ”と仰るかもしれない。今後、(誰かにとっての真実ではない)”新たな事実”が判明すれば、私の考えも変わるかもしれない。

なので、”知られていない情報(但し事実に限る)”をお持ちの皆様には、是非是非積極的に発信していただきたいもの。情報ソース付きで!!
氷室氏やBOOWYのエピソードをネットで発信されている方はそれなりにいらっしゃるが、たまに私の認識と異なることを発信されている場合もありましてね……。
情報ソースが書いてさえあれば、真偽の判断は比較的容易い。他方、ソースが書いてない場合は判断に迷うことも。
私が持っている知識の中では明らかに”おかしなこと”なのに、あんなに自信満々に言い切っているからには何かしら根拠があるのかな?「私が知らない」こと=「事実ではない」ではないから、他人様の話を闇雲に否定できないし。だけど、その他のエピソードや関係者の証言を考え合わせると、どう考えても”そう”ではないよなぁと悩んでしまうことが往々にしてある。
”事実”をどう受け止めるかはみんな違ってみんないいのだけれども、”事実そのもの”に誤りがあるのは、その後の判断の行方を左右するので、あまりよろしくない。
だからこそ私自身も、真偽の検証ができない、且つ、僅かな違いが大きな影響を及ぼす”歌詞”そのものについてここで直接触れることは自重したわけですが。「TRUE BELIEVER」の歌詞で1字の持つ重みを思い知らされただけに。

もっとも、直筆作詞ノートを見た感想だけでここまで話が膨らんでしまったのに、歌詞そのものまで触れたらさらに収拾がつかなくなりそうなので、かえって良かったのかも(苦笑)。
それでも、GALLERYやフィルコンの感想やレポをネットにあげている方の中で、私の感想(妄想?)が多分最長な気がします。(笑)
皆様遠慮せずにもっと書いていただいていいんですよ……?
余所様の感想やレポを拝見するのが大好き人間なので、色々探して読ませていただいたのだけれども、最近はブログやnoteにがっつりレポを書く方はあまり多くなく、Xへの投稿が主流なのがちょっと残念。Xはすぐ流れて行ってしまうし、何よりも短い!私は長文が読みたいんじゃー!!
結果や結論よりも、どうしてそうなったのか、何故そんな行動をとったのか、そうなるまでに何があったのかといった、結果に至る過程や経過に興味がある私にとって、140字は短すぎるのですよ。
……だとしても私の感想はやりすぎだという自覚はあります(笑)。140字どころかその100倍必要というのは、自分でもさすがにどうかと。
本当にすみません。行間を妄想で埋めるタイプの人間なので。
短く端的に纏められる文才が切実に欲しいです。

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