見出し画像

BOOWYにまつわる噂のエトセトラ Vol.14-③ ~解散諸説(1)「1位になったら解散」説に対する私見③~

ここから、「1位になったら解散」説に対する私の個人的見解を書いていくが、先に前2つの記事(私見①私見②)をご覧いただいた後にお読みいただきたい。何故私がそう考えるのかの前提条件がそこに書いてあるので、これ単品で読むと唐突な箇所や論理が飛躍していると思われる箇所が多数あると思う。特に私見②の年表に記載した流れとメンバーの発言時期を把握していないと、「何言ってんだコイツ」となるかもしれない。
それから、Vol.13の前置きにも書いたとおり、あくまでも私はそう思う、私がその立場だったらこう感じるということをつらつらと書いてみただけなので、考えが異なる場合はご勘弁願いたい。

【当時を振り返っての私見】

BOOWYの成り立ちをも考慮すると、BOOWY時代の氷室氏は、作りたい最高の音楽、音楽の完成形は、4人で目指すもの、バンドで辿り着くところだと考えていたように見受けられる。
他方、布袋氏は、メンバーの中で唯一プロの経験がなく、BOOWYへの参加も「まぁ、いいか」的な軽い気持ちであった。それ故に、彼にとってBOOWYは、あくまでも自分の音楽の最終形に辿り着くための「ステップ」で「自分を高めるための手段」であったようにも見える。そのスタンスは、バンド外活動に熱心であることへの批判に対する反論私見②の年表参照)からも窺い知れる。

氷室氏にとってBOOWYは当時、唯一無二一心同体的な存在であったのかもしれない。しかし、布袋氏にとってBOOWYは、誤解を恐れずに言えば、”one of them"だったのではないか。
メインはBOOWYであるものの、BOOWYの他にも色々大切なもの、興味があるものが同列に存在している状態。BOOWY時代に既に「俺にとって山下久美子と吉川晃司と氷室京介は同次元で必要」と言っていたように。
氷室氏が「バンドに執着してるっていうより、この4人に執着してる」「メンバーチェンジなんてことになれば、みんなやめちゃうんじゃない?」と言っていたのと、ある種対照的。
恐らくではあるが、布袋氏のメンタリティは、最初からバンドメンバーのそれではなく、限りなくソロミュージシャンに近かったのではないかと推察する。(であるのに、布袋氏が最も評価されるのはサポート的立場に立った時であったのが、布袋氏を拗らせる要因の一つであったと思っている。そしてそういう性質であったが故に、同じようにどこまでいってもソロミュージシャンでしかない山下氏や吉川氏とずっと一緒にステージに立ち続けられなかったとも思っている。)
現在はともかくとして、BOOWY後期の布袋氏の発言からはBOOWY及び氷室氏に対する執着は微塵も感じられない。

だからといって、布袋氏がBOOWYを適当にやっていたと言いたいわけではない。彼らの間にバンドメンバーとしてのが全くなかったとも思っていない。布袋氏なりに大事にしていたし、一生懸命やっていたと思う。ただ布袋氏には、BOOWYと同じくらい、或いはBOOWY以上に大切なモノが他にもあって、後になればなる程、増えていっただけ。BOOWY以外の比重が布袋氏の中で大きくなっていっただけ。

「『生涯バンド一つ』みたいな感じは嫌い」(※28 P9)との言葉どおり、布袋氏にとってBOOWYはオンリーワンではなかった。
勿論、BOOWYはバンドのメンバーであるという点では特別であった。だが、特別な点はそれのみ。バンドメンバーであるが故に他に大切なモノが出来てもBOOWYをメインとせざるを得ず、自分の活動が制約されてしまう。やりたいことを自由にやれないじゃないかとBOOWYに対する不満が募るようになる。
そしてBOOWYよりも大切になった最初のモノが「山下久美子」氏であったように思うのだ。

布袋氏と山下氏は、3rdアルバム「BOOWY」の発売後間もなく、山下氏のアルバム「BLONDE」のレコーディングで初めて出会い、すぐに激しいに落ちた。
それまで自分が作った曲以外もデモを作っていた布袋氏は、「久美ちゃんのアルバムで忙しいから」という理由でこれを拒絶
結果、氷室氏は機材を買い揃えて自分でデモを制作するようになった。そんな経緯で初めてデモを作った曲が「わがままジュリエット」。
この曲を聞いた東芝EMIのディレクター子安氏は、「これまでBOOWYは知る人ぞ知るバンドにすぎなかった。しかし、ヒムロックの歌の凄さを世の中に伝えていくことによって、このバンドがもっと大きく広がっていく可能性がある。だからシングルはヒムロックが前面に出ているこの曲しかない」と「これはBOOWYじゃない」という周囲の反対を押し切り、先行シングル・カットを決定した。(※31)
そして、この曲を偶然耳にしたフジテレビのきくちP(当時はAD)が番組ディレクターに猛プッシュして、人気テレビ番組「夜のヒットスタジオ」にBOOWYが出演することになった。(※32)
そうして露出が増えていくことによって、「布袋氏のギターをろくに聴かないファン」がライブ会場に現われるようになったのもちょうどこの頃

さらに、BOOWYは、ユイ音楽工房及び東芝EMIと契約して以降、信頼出来るスタッフに囲まれ、漸く音楽活動に専念できる環境が整い、ブレイクの階段を上り始めた。それまでのオンボロハイエースで全国のライブハウスを回っていた時代とは異なり、メンバーにも段々と金が入ってきて(それでもこの時点ではまだ大した金額ではなかったろうが)、それぞれがプライベートに過ごす時間が増えてきた。
この時代のことを、布袋氏と氷室氏はいずれも「それまでの人間関係が変わっていった時期」「みんながもっとプライベートになっていって、一緒にいなくなっていった時期」というような趣旨の発言を後にしている。

「いつも一緒、何をするにでも4人だった」時代から個々の時代への過渡期。
布袋氏と山下氏はちょうどそんな転換期に出会った。そして布袋氏が山下氏に入れ込んでいったことと、ブレイクしてBOOWYの活動のサイクルも早くなっていったことが、関係性の変化をさらに加速させたようにも見える。
氷室氏の幼馴染みでもあり、後に布袋氏と行動を共にする松井氏も、自身が山下氏のレコーディングやツアーに参加するようになってから、氷室氏とはあまり密に話をしなくなり、2人だけになる時間も少なくなっていたと語っている。(※5 P126)

山下氏は「赤道小町ドキッ」の大ヒットもあり、”総立ちのクミコ”の異名を取っていた有名歌手。そんな山下氏と出会ってすぐ、布袋氏は彼女の住んでいた高級マンションに転がり込み、同棲を開始。出会いから僅か半年で結婚した。そうして布袋氏は、彼女と共に、彼女のテリトリーである「レッドシューズ」などの多数の有名芸能人・業界人が集う場所で飲み歩き、山下氏を介して、それまでと違ったバンド外の交友関係を深めていった。そしてそのことが、その後の布袋氏の仕事と人脈にも繋がっていったのであろう。

売れる前から布袋氏は「何でもやるよ」的な感じで色々細かなバンド外の仕事も積極的に受けていたが、この頃から「大きな仕事」が増え、「山下久美子」や「吉川晃司」などの誰もが名を知る有名人との仕事も、相手から望まれて参加するようになった。また、BOOWYでも3rdアルバムで佐久間正英氏をサウンド・プロデューサーに迎え、さらに佐久間氏のリクエストでベルリン・レコーディングも体験したことで、布袋氏は様々なノウハウを学び、段々と自信をつけていった。

そうやって音楽的才能を開花させていった布袋氏を周囲も信じ、BOOWYのサウンド・プロデュースを布袋氏に委ねた(氷室氏は当初からメンバーがサウンド・プロデュースをすることを希望し、「バンドを纏めるのは楽器をやってるヤツじゃないと」「布袋がプロデュースもやればいい」的スタンスであったそうだが)。
これらのことで布袋氏は、自分の才能を過信し、次第に増長していった(と言うとちょっと大袈裟かもしれないが、かなり調子に乗っていたのは確かだろう)と思われる。

「(BOOWY結成時は)ヒムロックがいて、それにぶら下ってるような、バンドにのっかってる感じで、推進力じゃなかった」と語っていたかつての布袋氏の姿はそこにはない。(※33)
果ては、(その考えが正しいかどうかは、とりあえず横に置いておくとして、)「サウンドだけでなくバンドとしてのプロデュースを一歩下がって考えられるのは、メンバーの中では俺だけ」と大言壮語するまでに至った。
この言葉は、布袋氏が他のメンバーよりも自身が一段高い位置にいるという自意識を持っていた(悪く言えば、自分がいなければ大したことは何もできないと他のメンバーを見下していた)ことの表れであろう。実際、布袋氏が解散を切り出した時の言葉は、「みんなしっかりしてきたしたくましくなってるし、別に(ヒムロックにしても)俺といなくても平気じゃん」という、なかなかの上から目線であった。(※12 P20)

一方で、BOOWYがメジャーになっていったことに対するやっかみや有名人と結婚した布袋氏に対する嫌味なども増えていった。
これまでのインタビューや自伝、近年のSNSにおける投稿・対応などから考えるに、布袋氏という御方は、「自分」や「自分が本当に大切にしているモノ」のことを悪く言われることをひどく嫌う。兎にも角にも、自分が悪者とされたくない人で、非常に他人の意見を気にする人だという印象を受ける。
勿論、誰だってそういうところはあるし、「じゃあオマエはそれを批判できるほどの聖人君子なのかよ!」と言われたら言葉がないが、布袋氏のそれは常人の比ではないように見えるのだ。
そんな布袋氏が、愛する女性との活動や結婚を他人から中傷されたら怒り狂うのは火を見るより明らか。

ライブハウス時代に布袋氏を支持していたギターオタクの一部は、有名歌手と結婚したことにガッカリして、そんなヤツだったのかと批判。当時の音楽誌の読者欄に、「やたら偉そうに言ってたくせに、結局相手はあんなもん」といった意見が掲載されて布袋氏がキレたことも。
バンド外の仕事に力を入れたら「BOOWYというバンドがあるのに節操なし」と批判される。
BOOWYはBOOWYで、洋楽至上主義な音楽評論家やロックな人から「BOOWYはロックじゃない」と論じられる。
さらに、BOOWYとしてテレビに出演すれば、時代性も多少あるとはいえ、カメラが追うのは氷室氏で、テレビの現場では「ヴォーカルさんとバックバンドさん」扱い。BOOWYの露出が増えたことによって増えたファンのお目当ては主に氷室氏。布袋氏へ声援が飛んでいても布袋氏の心には届かず「誰も俺のギターを聴いてない」とステージ上ですらふてくされる始末。
山下氏と結婚した後、「JUST A HERO」の頃から、心ない「周囲の声」に対する布袋氏の不満悪態がインタビューなどで散見されている。

後期には(事実はともかくとして)「俺がBOOWYの舵取りをしている」と吹聴するようにまでになった布袋氏。
「ライブ・ハウスでやってる時はヒムロックの歌を嫌いな奴が多かったのよ。でも大きくなっていくうちに、俺のギターが邪魔な奴が増えてきた」(※34)と後に振り返っていたように、ミーハーなファンが増えて氷室氏ばかりに注目が集まる、本来なら自分が評価されるべきなのに、自分が正当に評価されていないという想いを募らせていったようだ。
実際、氷室氏が歌っていたが故にBOOWYが売れたことを認めながらも、自分が表現しようとしていた「アートな音楽」への評価ではなかったことへの不満を、布袋氏が解散後にもらしていたこともある。(ちなみに、渋谷陽一氏はそんな布袋氏を指して「ヴォーカリスト・コンプレックスと過小評価コンプレックス。これは病的なものがあるぜ」と評していた。(※35)恐らくそのコンプレックスは、BOOWYで氷室氏の隣でギターを弾くことによって培われたものであったのだろう。そして今でも布袋氏(及び布袋氏の信奉者)の仮想敵は氷室氏なのだろうなぁと思うようなことが多々ある。)

その結果、どう頑張っても絶対に自分が一番になれないBOOWYよりも山下氏をはじめとするバンド外活動へと、布袋氏の気持ちがより傾いていったのは、ある意味当然の帰結。(勿論、それだけが理由ではないと思っているが。)

「B-BLUE」の頃に発売された音楽雑誌にて、布袋氏はギターを始めた頃のことを振り返り、「ちっちゃい頃からピアノとか、ずっとやってたけど、あの頃ギターって花形だったじゃない。ヘタすりゃボーカルよりもギタリストの方が花形だった。今もぼくはそう思ってる。そうじゃないとイヤだなって。」と語っていた。(※51)
LAST GIGS直後に行なわれたインタビューでも「色々考えるとボーカルの方が楽だったかなとか思うんだけど、ボーカリストはカッコ良く見えなかったから」ギターを手に取ったと話していた。(※14 P79)

このように、ヴォーカリストよりもギタリストの方が格好良いのが正しい姿ギタリストこそがステージ上で最も光り輝き、注目を集める存在であるべきだという信念を持つ布袋氏にとって、花形であるべき自分のギターはろくに聴かれず、ヴォーカリストの氷室氏ばかりが観客の視線を集めてしまう状態は耐えがたかったのだろう。ただでさえ、ギターよりもヴォーカルの方が楽だと、ヴォーカルの果たす役割や責任について誰よりも過小評価していたのだから。

その上、布袋氏がライバル視してその存在感を喰ってやろうとしていた氷室氏は「オレは布袋をライバルだと思ったことは1度もない」。
あくまでも布袋氏を「一緒に戦っていく仲間」としてしか認識しておらず、そういう意味では全く歯牙にも掛けていなかった。(※38 P43)それも悔しかったのではないか。(布袋氏は絶対に認めないだろうけど。)

皮肉なことに、BOOWYを広く世に知らしめるきっかけとなった「わがままジュリエット」は氷室氏の作詞作曲で、布袋氏が山下氏を優先してデモ作りを拒絶した曲だった。
布袋氏が拒絶した時、氷室氏は「オマエがいないとダメなんだ」と布袋氏に縋ったりはせず、機材を揃えて自力でデモを作った。
そんな曲をディレクターは「BOOWYが世に出て行くためには絶対にこの曲が必要」と周囲の疑問の声を押し切り、とても氷室色の強いこの曲をシングル・カットした。BOOWYっぽいとされる布袋氏作曲のアッパーなギターサウンドのものの曲を押しのけて。さらにこの曲がきっかけで、人気テレビ番組の出演にも繋がり、ファンも増えていった。
正直言って、それも布袋氏は面白くなかったのではないか。
当時、「(わがままジュリエットの)ギターソロは僕の奥さんの"星になった~”にインスパイヤされた」と語っていたのは、意地悪な考え方をするなら、BOOWYで使ったアイデアは山下氏の作品の使い回しなんだという隠喩にも受け止められる。こういった布袋氏の発言や、布袋氏のファン曰く「曲そのものはBOOWYよりも優れている」そうな山下作品のクオリティの高さから、布袋氏は良曲をまず山下氏に回し、山下作品からあぶれた残り物をBOOWYに回したという噂が発生する原因となったのかもしれない。
この辺りの布袋氏が抱く氷室氏への複雑な感情については、別の解散諸説に対する私見の中でいずれ触れたいと思う。

興味深いのは、「僕らの夢は解散」と布袋氏がはっきり口にしたのは、「JUST A HERO」発売後に行なわれたツアー中であるということ。
布袋氏は、「今回のツアーも武道館もそのための1歩」「男4人が、その為に心焦がしている姿は素敵なものだ」と語った。
それまでは、「4人で到達できる最高のところまで行きたい」「4人でやれるだけのことをやったら解散」だった。事実、氷室氏はこの頃も「”これこそBOOWYサウンドだ!“というのを見つけ出せたその時は、もう解散してもいいと思う」と話している。
やりきることがであり目標であり、やりきったその先に「解散」がある。
しかし、この布袋氏の発言は少々ニュアンスが異なるようにも感じる。
「解散」が先にあって、色々やるのは有終の美を飾るため。BOOWY初の武道館ですら、解散という目標を達成するために上っていく階段の一段だ、と言っているようで。
そしてこの文章のタイトルは「帰結への向けての第一歩、武道館。」。「帰結」という言葉は様々な想像をかき立てる。

布袋氏はこの雑誌の前号で、「結婚にチャチャ入れられる覚えはない」「俺がどう生きようといいじゃんか」「信頼を第一に考えているので、こんな読者の声を載せる雑誌にショックを受けた」と山下氏との結婚を中傷する読者の声とそれを掲載する編集部に怒りを露わにしていた。(※24)
また同文中では、BOOWYや自分のイメージを決めつけられることに反発し、「他のラーメン食べた事がない奴が、ここのラーメン最高って5年間食べ続けるのは馬鹿げてる」「10の中から何かを選ぶのと100の中から何かを選ぶのは違う」と持論を展開した。

布袋氏の発言は、一般論としては確かにその通りではあると思う。
だが、深読みしすぎかもしれないけれども、この文章が書かれたのは、BOOWY結成からちょうど5年くらいの時期
布袋氏は「JUST A HERO」制作前に山下氏や吉川晃司氏、泉谷しげる氏の仕事に参加している。それまでも数多くの人の仕事に参加していたが、一般人にも名を知られる存在の仕事に呼ばれるようになったのはこの頃。さらにスター「山下久美子」と結婚したことで、それまでの原宿のボロアパートでの貧乏生活から一転、金に困らない、衣食住満ち足りた生活となった。山下氏を介して、山下氏の友人知人の芸能人、業界人とも知り合い、それまでとは違う人脈を広げ始めた。
このように、バンドでなくとも自分一人でやっていけるという自信がつき始めた頃の発言であることを踏まえると、BOOWYに自分の活動を縛られるのは馬鹿げてる、兎に角面白そうなもの、興味が惹かれるものを手当たり次第やっていき、その中から、若しくはその経験を活かして自分が本当にやりたいものを探していくんだ、と言っているようにも受け取れる。(最初の店に不義理を重ねて、「他の店のラーメンを食べ歩いてみたけど、久し振りに原点の味を体験するのもいいね!」と最初の店のラーメンをまた食べてみようとしても、その店の店主が再び受け入れてくれるかどうかは全く別の問題として。)

そういったことを考え合わせると、布袋氏の中では「僕らの夢は解散」と言った時点で既に「そう遠くない未来にBOOWYを終わらせること」への青写真を描いていたのではないか。但しそれは、公式が喧伝している「引き際の美学」的なものではない。あくまでも、布袋氏がやりたいことを、完全に自分の自由に、好き勝手にやるためのもの。当時の布袋氏にとって、BOOWYの解散は、自分のステップアップのためのもの、自分がより高く飛ぶための踏み台の1段にすぎなかったのだと私は捉えている。

「僕らの夢は解散」だけにとどまらず、「解散に向けて頑張っている」にまで発展したのは、山下氏のアルバム「1986」発売直後に行なわれたインタビューであった。
これもやはり布袋氏の発言
山下氏のアルバム「1986」は、布袋氏がサウンド・プロデュースとギターを手掛けるとともに、氷室氏以外のBOOWYのメンバー、すなわち松井氏と高橋氏もゲストミュージシャンとして参加している。
このインタビューで布袋氏は、「(氷室氏からボーカリストとしての光が消えたらパートナーシップを)切るかもしれない」「(BOOWYが魅力のないユニットになったら続けていくのは)あり得ない」と、売れる売れない関係なく、やることやったと思う時が来たらそこでおしまいだと語った。

「BOOWYが終わって、俺が違うバンド始めたとしても」
「無理矢理そのBOOWYを長引かせてずっと続けていくよりも、自分の人生をBOOWYの中で楽しもう」
「(氷室氏とのパートナーシップは、)とりあえずここで止るんじゃないかな」
「持続させるのは難しいから面倒くさくていや
「いろんな時期を味わいたくないっていうか、いつもピークでいたいっていうか」

この時点で布袋氏がかなりBOOWYへの興味を失っていること、さらに「BOOWYを終わらせた後」のことを夢見ていることが、発言の端々から滲み出ている。

そもそも「この時のインタビューは、布袋と氷室別々のパーソナル・ヒストリーを聞き、それをひとつの原稿にまとめることによってBOOWYの多面性を浮き彫りにする」という主旨で行われたものであったとされる。そのため、初出の記事の段階ではこの部分はカットされているが、布袋氏の当時の気持ちを示す貴重なものと言えよう。また、布袋氏自身は、この気持ちを周囲に全く隠そうとしていなかったことを表している。
布袋氏のインタビューはROCKIN'ON JAPANの編集部の佐藤健氏により行われたものだが、記事を纏めたのは氷室氏のインタビューを担当し、BOOWYライターでもあった佐伯明氏である。そのため、初出の記事では丸々カットされていたとしても、布袋氏のこの考えがBOOWY界隈にも当時から伝わっていた可能性は否定できない。

佐伯氏は、このインタビューの記事の最後に、関係論の定義する"関係"のたとえである"箱の中のまんじゅうと風船"という比喩を用いて、BOOWYのメンバーの関係性は"風船的関係"であるとまとめた。その際「BOOWYから氷室京介が脱けた場合、他の3人がふくれあがって(かのジェネシスのように)すき間を埋めてしまうかどうかは疑問だが」と記している。
この数ヶ月後に、布袋氏が氷室氏以外のメンバー全員を引き連れて山下氏のツアーに参加することを望んだことを考え合わせると、なかなかに暗示的な一文である。

そして、このインタビューからほどなくして、1986年12月16日の長野市でのライブ終了後に、布袋氏がメンバーに「解散」(又は「バンドからの脱退」)を提案した。
この時は、とりあえず解散は保留となった。
解散の口火を切った布袋氏も、解散を切り出したその場で「『そうか、じゃあ解散しよう』みたいな話ではない。色々考えてやってみようみたいな」と話しており(※12 P20)、オフをとって、もう1枚アルバムを出そうという方向に落ち着いたとのこと。
しかし、年が明けて1987年、「ROCK 'N ROLL CIRCUS」ツアー中に出た音楽雑誌のインタビューでも、布袋氏の解散への思いの丈は止まらず

「(生涯バンド一つみたいな思い込みは)全然ない。」
「せっかくなんだからいろいろやりたい」
「(人との出会いで作業やって一番快感を得られたのは)久美ちゃんとか、吉川とかの時。BOOWYの時には言えないっていう」
「(BOOWYの完成形は)近い」等々。

そんな中、布袋氏が山下氏のツアーに氷室氏以外の全BOOWYメンバー、つまり松井氏と高橋氏をも、布袋氏と一緒に参加させようと画策していたことが明るみに出た。
但し、高橋氏は「まるで氷室を除け者にしているようで、いくらなんでもまずい」と誘われたものの参加しなかった。そのため、実際には布袋氏と松井氏の4分の2の参加となったが、布袋氏がBOOWYの楽器隊そっくりそのまま山下氏のバックバンドとして連れていこうと考えていたことが氷室氏の耳に入ってしまった。(この辺りの経緯などは、詳しくは別の解散に対する私見の中で触れたい。)
そんなこともあり、「ROCK 'N ROLL CIRCUS」ツアー最終日、ライブ終了後の打ち上げにて、スタッフも交えて解散についての話し合いが行なわれ、解散が確実なものとなったとのことである。

面白いのは、解散が確実になった途端、布袋氏の解散に関する発言がピタッと止まったことだ。解散後はまたペラペラと(自分の都合の良いように脚色して)しゃべるようになったけれども。
解散発表までは箝口令が敷かれていたとは思うが、意に沿わないことがあるとそんなの関係ねぇ!とばかりに言葉と態度に出す布袋氏が黙った
そしてステージ上でもふてくされて全然アクションしないようになっていたそうな布袋氏が、最後のツアー終盤に向けて徐々に布袋氏らしい派手なパフォーマンスが復活していったという。
まぁ、そういうこと、なんだろうなぁ…。

「ROCK 'N ROLL CIRCUS」ツアーが終わって間もなく、布袋氏の他に松井氏も参加した山下氏のツアーが始まった。
このツアーにおいて、布袋氏は「僕らは2度を見た」「ステージ上の4人はひとつになり、それを越えたと実感した」と感想を述べた。所謂「ゾーンに入った」状態とでもいうのだろうか。「味わった事の無いもの」と、BOOWYではそんな経験がないことも告白した。
当時の布袋氏にとって、山下氏らとの活動こそが心技体揃って最大限のパフォーマンスを発揮できる場であったことをこの言葉が示している。

一方で氷室氏は、この時期のBOOWYの音についてこのように振り返っている。

バンド時代の後期になると、なかなかコミュニケーションもうまく、正直言って、いってなかったんで。この間たまたま、前の事務所からBOOWYの素材を、これちょっと確認してくださいってことで、素材をもらったんですけど、普段、BOOWYの画を見ることないんですけど、久しぶりに見てみたらかなりひどかったですね。やっぱね、お互いの間での勘違いがね、後半にいけばいくほど。俺が犠牲フライを打っているつもりなのに、メンバーにはニュアンスっていうか、気持ちが伝わって――うまくコミュニケーションが取れていないと、単なるただの凡フライになるわけで。そこのところが大事ですよね、やっぱね。意志の疎通がされてはじめて犠牲フライが成り立つわけで。それを思いましたね、見てて。あ、これじゃ、解散するわと思ってね。(※52)


布袋氏が、山下氏(及び松井氏)とともに立ったステージで感じた想いとは正反対。
「メンバー同士の心が通じ合っていないから、やりたいことを表現できていない」と氷室氏は言った。BOOWYは後期に行けば行くほど「ひどかった」と。
また、氷室氏は「PSYCHOPATH」完パケ直後の1987年7月19日に行なわれたインタビューで、こうも語っている。

(BOOWYをメジャー・ブレイクさせるために)頑張ったと思うよ俺、自分で。うん、根性っていう言葉を使うとすればさ、根性あったと思うよ。『あったと思うよ』って、終わった話になってる(笑)。

「あった」と過去形で語ることによって、この4人でこれ以上の高みを目指すことへの諦念自嘲が透けて見える。

このインタビューの中で気になったのは、「布袋も前にインタヴューで言ってたじゃん。BOOWYは完成形に近づいてるってさ。」という言葉。
この言葉によって、「ROCK 'N ROLL CIRCUS」ツアー中に出た、布袋氏が解散への想いを散々語ったインタビューを氷室氏が読んでいたことがわかる。
BOOWYは終わりに近づいている 完成したら終わりかな バンド幻想を持たない 自らのプロデューサー的資質を クールに語る布袋寅泰」というタイトルが付けられた、あのインタビューを。
目次にははっきりと「BOOWYの解散は近い!?」と書かれていた、あのインタビューを。

確かに、読んでいても不思議ではない。同じバンドのメンバーのインタビューで、氷室氏はリーダーだから。何を言ったか把握していないと後々フォローもできないから。
だが、解散したいと直接言われ、対外的にもあちらこちらで解散の夢とバンド以外の色々な仕事への憧れについて語られ、挙げ句、妻といえども別のソロミュージシャンのサポートをBOOWYの楽器隊全員を引き連れてやりたいと言いだし、氷室氏に黙ってその実現に向けて水面下で動く…。

「このシステムに乗ってあと1、2年はバンドをやり続けるだろうけど、それぞれが自分自身のことを考えながら、やがて一本立ちできるような方向へ進んだほうがいいんじゃないかな?」(※4 P139)
布袋氏はこう言って解散をメンバーに切り出したという。
成功したシステムに乗っかって、あともう少しだけバンドを続け、自分達が独り立ちする準備を整える――布袋氏が思い描く「BOOWYで築いた名声を布石とした、自分だけの新たなステージ」に向かってどんどんどんどん外堀を埋められていく。それも、氷室氏を精神的に追い詰めるような手法をとって。
当然のことながら私には、氷室氏が実際にBOOWYをどうしたいと考えていたのかを正確に知ることはできない。しかし、仮にもっとBOOWYでの活動を望んでいたとしても、一緒に成功を夢見てやっていたはずの仲間がこんな行動を取り始めたら、どう感じるだろうか。布袋氏のはもうBOOWYにはないと突き付けられたようなもの。そこまでされて「4人であり続けること」にしがみつくことに何の意味があるのだろう。
かつて氷室氏は「次のステップを見つけ出せなくなった時が、もう到達点というかその人の限界なんでしょうね」と語っていた。この時布袋氏が見出していた「次のステップ」は「BOOWYの4人」で上っていくものではなく、「布袋寅泰個人」のものだった。4人でやるBOOWYの限界はここまで
この山下氏のツアーバンドの一件で、氷室氏は「この4人でこれ以上BOOWYの完成形を追求すること」を諦めてしまったのではないか。

気持ちがバラバラの状態でこのまま続けても、バンドとしてこれ以上(音楽的な意味で)高みには行けない。一応は、当時の自分達がやりきったと思えるアルバム「JUST A HERO」も作ることができた。元々BOOWYは「自分達が本当にやりたい音楽」を、誰にはばかることなくやるために作ったバンドだった。仲間としての許されざる一線を越えてしまった布袋氏の我儘にこれ以上付き合って、ズルズル続けてバンドの本質が歪んでいってしまうくらいなら、お望み通りここで終止符を打つ。そして今度は一人ひとりの道を模索すべきだろうという判断が下されたのではないかと私は考える。

かつて高橋氏は「ヒムロックはバンドを守ろうと必死だった」「バンドを守らなければという強い使命感があった」と語っていたが、BOOWYを壊したのは外からの攻撃ではなく、内側からだったのだろう。

そうして、1987年12月24日の夜、渋谷公会堂のステージを最後に、BOOWYは解散した。
氷室氏は、解散を宣言している途中で、何度も振り返り、布袋氏の方を見た。
布袋氏はそんな氷室氏から顔を背けた
高橋氏の自伝によると、「これは聞いた話だが、氷室が布袋を見て布袋が横を向いたあの瞬間、氷室には『布袋が笑った』と映ったらしい。」とのこと。(※4 P158)
高橋氏は「布袋が氷室を見て笑ったとはとても思えない」と語り、氷室のほうを向きたくても向けないという布袋の気持ちもよく判ると布袋氏を庇ったが、ここで重要なのは、実際に布袋氏が笑っていたかどうかではなく、「氷室氏にはそう見えた」ということ。普通、笑うのは嬉しいときや喜んだ時だ。つまり、氷室氏には布袋氏が解散を喜んでいたように見えた、と。
それは氷室氏の布袋氏に対する不信感の表れ。だが、それまでの布袋氏の解散に関する発言や行動の数々を知ってしまうと、氷室氏がそう感じたことを責めることはできない。もっとも、高橋氏も「聞いた話」「~らしい」としており、直接氷室氏から言われたわけではないようなので、本当の話なのか確かめる術はないが。

ともかく、布袋氏は色々やりたい人で、さらにそれぞれで1番になりたい(正確には、1番に見られたい)人だった。
吉川氏がCOMPLEX破綻後に「自由になる歌い手を入れたバンドだと布袋ちゃんは合うんだと思う」と話していたように、常に自分が中心にいて、何もかも全て自分がイニシアチブを取り、自分の思うが儘に動かしたい人。他人からの賞賛を自分一人だけで独占したい人。しかし、BOOWYのリーダーは氷室氏で、布袋氏がBOOWYのメンバーである限りは自分のやりたい活動が制約される。さらに氷室氏の隣にいる限り、布袋氏は決してBOOWYで1番にはなれない。(氷室氏は、土屋氏曰く「バンドの天才」であった。そんな氷室氏の隣にいたからこそ布袋氏は光り輝く存在になることができたと個人的には思っているが…。)
そのうえ、飽きっぽく、移り気で、良くも悪くも我儘な人。

ROCKIN'ON 1987年3月号増刊(ROCKIN'ON JAPAN vol.3)において、「プラモデル作ってさてどういう風に塗るかってとこまで行かないから、そりゃ作ったらおしまい」「完成できたら、また違うプラモデル買って、それを完成させたい」「それが人生の中で何個できるかな、みたいな感覚」とプロデュース作業を評していたのは、布袋氏の本質をかなり的確に表現していると思う。
ただ、自分の関わったモノに対していい加減に手を抜いてやっていたということは、決してないと思っている。(但し気分屋なので、不快なことがあればステージ上でも平気でふて腐れたりはする。)
プラモデルを例に出されていたが、いくら作りたいプラモデルが沢山あったとしても、そのプラモデルを作っている間は一生懸命やるはず。ましてそのプラモデルによって、自分の評価が高まるとなれば。
後から作り始めたプラモデルの方が魅力的になってきたら、今作ってるプラモデルは塗装しなくてもいいや、素体をとっとと完成させて、早く次のプラモデルを作りたい、もっと他のプラモデルも買いたい、オイシイところだけ摘まみ食いしたいというのはあるだろうけれど。
BOOWY時代の布袋氏の発言を追っていった私の目には、「JUST A HERO」後の布袋氏は、BOOWYを早く終わらせて別のことをやりたくてたまらない状態に見える。

だから「自分たちに創りうる最高の音楽を完成させたから解散」というよりは、「『JUST A HERO』でその時点の4人が満足できる作品を完成させた後、良く言えば、4人の成長がめざましくてバンドの枠内に収まらないようになって――言葉を選ばずに言えば、自分一人でやっていける自信がついてしまった布袋氏の興味がBOOWYから別のものに移り、それをあからさまに態度に出し始めたことで――この4人ではもうこれ以上の作品は出来ないと判断して終わりにした」方がより事実に近いのではないかというのが私の解釈

【1位になったら解散】説について】

で、「1位になったら解散」である。
近年、メンバーやら関係者やらがやたらと推してくるこの説。
まぁ、「自分達に作りうる最高の音楽を完成させたから」だと再結成アピールはやりにくいが、「1位になったら」なら適当な理由をでっち上げて再結成アピールをやれなくもないという大人の事情もあるかもしれないけれども。
なのに、BOOWY存命時にこんなことを言っているインタビュー記事が見当たらないのだ。
とは言っても、所詮私は後追い。収集できた資料は主要な音楽雑誌が多く、全ての記事を網羅できているわけではない。もしかしたら、私が所有していない資料の中にあるのかもしれない。或いは、うっかり見落としてしまった文章があるのかもしれない。しかしながら、近年のこの説のアピールっぷりを考えると、現役時代にさぞかし色々な媒体でメンバーが吹聴していたことだろうと想像するのだが、当時メンバーがよく取材を受けていたような主要な雑誌のインタビュー記事の中にはないのだ。

この説がよく出てくるようになったのは、解散後の1988年2月の氷室氏のインタビュー以降
「『JUST A HERO』でBOOWYの音楽の完成形が出来たが、自分たちの音楽を正しく人に伝えるという意味で、日本で1番を取りたかった。そして『BEAT EMOTION』と『MARIONETTE』でそれが実現できたから解散」という、一応筋が通った説明をしてから。

ただ、現役時代にそう言っている記事が見つからないからと言って、まるっきりのだと決めつけるつもりもない。
満足できる出来だった「JUST A HERO」でチャート5位を獲得した。後出し発言ではあるが、ディレクターの子安氏は「『JUST A HERO』でメンバー的にはこれでいいと思っていたかもしれないが、我々レコード会社としては、これからだということが当然ある。まだ1位取ってないから、どうせなら1位を取ろうと取り組んでいったアルバムが『BEAT EMOTION』だ」と語っている。(※36)

レコード会社がそう思うことは当然のことだし、メンバーも「よーし、次は1位を獲るぞ」と思うこと自体は別に不思議ではない。当時の布袋氏のインタビューを読むと、山下氏との活動の方に気持ちの天秤が相当傾いていたようにも感じるが、布袋氏とて、BOOWYを中途半端な形で放り出す気はなかっただろう。自身の次のステージをより自分の望む形に近づけるためには、足がかりとなるBOOWYで確実な実績を残すことが重要でもあるし。

そして布袋氏が解散(若しくは脱退)を言い出したのは、「BEAT EMOTION」がチャート1位を獲得した約1か月後であった。

「BOOWY'S BE AMBITIOUS」ツアー中に出た雑誌のインタビューで、既に「バンド自体、自分を高めるための手段」「最終的にやりたいところに行く為のステップを確実に踏んでいる」と豪語し、「BEAT EMOTION」制作の頃には、山下氏をはじめとするBOOWY以外の活動にかなりの熱意を見せていた布袋氏にとって、「BEAT EMOTION」のチャート1位獲得は、まさに「次に移るためのステップを踏んだ」ようなものだったのではないか。(ちなみに布袋氏がソロになってから節目節目でよく言うフレーズは「これまでの人生は今まさにより高く飛ぶための滑走路だった」である。)

つまり、「BEAT EMOTION」でメンバーやスタッフが一丸となって1位を目指していたとしても、目指した時点ではまだ「1位を獲ったら解散」ではない。しかし現実に1位を獲得してしまったことで、他にやりたいことが沢山あった布袋氏が「BOOWYを卒業して次に行く言い訳」を得てしまった。後に布袋氏が解散の切り出し方を(解散後に)問われて「1位っていう座も手にしたし」と答えていたように、1位を獲った時点で布袋氏の中では「もうBOOWYでやりたいことがない」「BOOWYはもう上がり」という気持ちがあって、解散をメンバーに提言した。そうしてBOOWYをあともう少しだけ続けつつ、BOOWYでの成功を担保に自分の次のステップへの準備を整えていくつもりだったのではないか、と私は思う。

実際、BOOWY解散後すぐに布袋氏とCOMPLEXを結成した吉川晃司氏は、COMPLEX結成の経緯をこう証言している。

- (笑)で、布袋くんとのCOMPLEXっていうのは、いつぐらいから決まってたの?
吉川晃司「何かいっしょにやれればおもしろいねっていうふうに話してて。で、僕が『会社もうやめるんだあ』っていう話をしてて、あいつはBOOWYでまあ何かひとつ終わったっつってたね。オリコンで1位を獲って『ひとつ終わったと思うから次に行きたいんだあ』とかなんとか言ってて。(※54)

というわけで、最初から「1位になったら解散」を本気で目指していたわけではなく、1位になったことで、解散する大義名分が(布袋氏に)できてしまったというのが私の見解
布袋氏が言ったとされる「チャート1位で燃え尽きる時が来た」というのは、チャート1位で布袋氏のBOOWYにかける情熱が燃え尽きて「もうBOOWYで何もやることないでしょ。バンドに縛られず俺のやりたいことを好きなようにやりたいよ。早く俺だけの次のステージへ行きたいよ。BOOWYとしてではなくて俺を評価してほしいよ。」となってしまっただけ。ユイ音楽工房と東芝EMIと契約する際に布袋氏が言ったとされる「どこに行っても好きなことやるよー」との言葉どおりに、どこまでもずっと自分の好きなようにやろうとして、自分が好き勝手できないならBOOWYは必要ないとなってしまっただけ。布袋氏がかつてAUTO-MODよりもTHE PETSよりもBOOWYを選んだように、今度はBOOWYでよりも他で描く未来を選んだだけ。

「1位を『獲ったら』解散」ではなく、「1位を『獲ったから』解散」。
「最初から目指していた」のではなく、体のいい「解散を正当化する言い訳」として、昔から夢物語的に、冗談まじりに言っていた話を持ち出しただけ。そんな風に私は捉えている。

布袋氏が解散を切り出して取りあえず保留となった後、布袋氏が山下氏のツアーバンドの件でやらかして解散が決定的になった。
高橋氏曰く「そんな経緯があって、氷室は『もう知るか』とばかりに単身ロンドンへ飛んで行ってしまった」と。(※4 P141)
ロンドンへ行ってしまった氷室氏を説得しに行った時のことをディレクターの子安氏はこう語る。

子安:このアルバム(「PSYCHOPATH」)もひょっとしたら世の中に生まれなかったかもしれないアルバムというか、「BEAT EMOTION」が1位になったということで、もういいだろうと。
- もういいだろう(笑)。目標は達したと。
子安:達したと(笑)。
- 「JUST A HERO」で完成形も作ったし。「BEAT EMOTION」で1位も獲得したし。
子安:で…ただ、やっぱり我々としては、どうしても、もう1枚は、作りたいという我々の思いをメンバーに伝えて
- その…2月24日、87年2月24日の武道館で、その前の年からのツアーの「ROCK 'N ROLL CIRCUS」が終わって、みんな休養に入るわけですよね。で、氷室さんはロンドンに行かれて。子安さんはそれぞれと話をされた?
子安:あの…ロンドンに行きました。
― ロンドンに糟屋さんと行かれて。
子安:行って、やっぱりもう1枚アルバムを、我々としては是非やりたいという。で…この時も…非常にベタな話なんですけど、「アルバム1位取ったけど、シングル1位取ってないよね?」と。
- (笑)その手があった。
子安:もうねぇ、何かネタを持ってかないと。あの、イギリスまで行って。やっぱり、あの…シングルヒットで1位、我々としても取りたいんだと。いうことで。もちろん、本人たちにしてみればそれだけの理由でないと、もちろん、思うんですけども。結果として、じゃあ、もう1枚だけ作るよと、いうことを承諾してくれましたね。
- 4人全員にその話はされてるんですか?
子安:えっとですね…えっと…ま、私…が、直接話したのは氷室さんだけです。
- 最後の場面だけ、ディレクターとして出て行ったと。あの…氷室さんの方は、こう、なかなかガードが堅くてみたいな、そんなに、もう作る気はないみたいなところを説得していったっていう感じですか?
子安:んー。まぁ…そうですよねぇ。その時の、氷室さんのその心情が、どうだったのかってのは…正直わからない、今でもわからない…ところではあるんですけども。あのー、なにせ、「JUST A HERO」を作ったところで、えー、あのー、一つの完成形だって話がありましたけども、あのー、そういうこともやっぱり彼の中にはあったと思うんで、もうこれ以上別に作る、バンドとして作るということよりは、多分、もう、自分は自分として新しい道を、っていうところにやっぱすごく意識がいってたんじゃないかなって思いますけどね。
- 子安さんの中では、ひょっとしたらダメかもしれないという気持ちはあったんですか?ロンドンに行かれた時に。
子安:ありましたね。50×50でしたね。無理かもしれない、というのは。そういう気持ちは持って向こうに行きました。正直言って。(※36)


レコード会社のディレクターと事務所のプロデューサーが揃ってロンドンまで説得しに行くというのは、相当深刻な状況であったと推察する。
これまで氷室氏が残してきた言葉や行動、スタッフなどの関係者の証言から推測するに、氷室氏という御方は、相当に頑固であると思う。頑固というか、確固たる信念を持っていて、自分が納得しないと梃子でも動かない
そんな御方が「解散」を決断した。それも"そんな経緯"で。
もしかしたら「PSYCHOPATH」を作らずに本当にこれで終わりになっていたかもしれない。それでも最低限の後始末をしてから終わりにしただろうけれども、アルバムはこれからレコーディングを予定していたわけだから。

ただ、氷室氏にとって、本来、BOOWYは漸く手に入れた「自分のやりたい音楽をやれる場」であったはず。バンドに対する愛情も深かったであろうし、決断したとはいえ本当にこれでいいのかという迷い葛藤も多少はあったろう。これまでサポートしてくれていたスタッフに対する恩義も感じていただろう。

「本当は『BEAT EMOTION』が出て終わりにするはずだったんですよ、解散しようと決めてたから。だけど、もう1年、もう1枚だけやるべきだ、そしてあと東京ドーム、そこだけは当時のみんなのある妥協点だったのね。氷室にとって『PSYCHOPATH』の1年はつらかったと思うよ。」と後にマネージャーの土屋氏が語っていたように(※37)、あと1枚だけ作ってシングルでも1位を獲ることが氷室氏にとっての妥協点、バンドに対するケジメだったともいえる。
そう言う意味では、「(シングルでも)1位を獲ったら解散」というのはあながち間違いではないのかもしれない。例え獲得できなかったとしても解散は避けられなかっただろうけど。

【BOOWYの活動終了後のメンバーの発言】


さて、このようにBOOWY存命時は「1位を取ったら解散」という言い方をしていなかったメンバー達だが、解散後はどのように語っているのだろうか。彼らの解散後の発言の一部をピックアップしたい。

- 氷室京介 -

※1988年2月に行なわれた4誌合同インタビューの内容については、私見①に記載しているので、そちらを参照してください。(長文のため再掲載が憚られるため。)

- 一人ひとりが違いながらも、見ているものは同じものだったのかな?
氷室「深いね。同じものを見てたかどうかというのは、正直言って確認し合ってやってたわけじゃないからわかんないけど、もう結論は言ってると思うのね。お互いがお互いのことを、たとえば布袋がオレをボーカリストとして、あるいはオレが布袋をギタリストとして、それぞれを最高だと思ってたから続いてただけの話じゃないかな。
それが”バンド美学”みたいなところで、自分たちの美学にバッチリはまってたからじゃないかな。別に解散しなくてもよかったかもしれないよね、突きつめて言えば。でもそうじゃない。次に行きたい場所というのがみんなそれぞれにあってさ、そこに行くために、そろそろ一段落つけてもいいんじゃないかという結論が出ただけの話だと思うよ」(※38 P42)

- BOOWY時代のことですが…。なぜ解散に至ったのでしょう?
氷室 BOOWYは解散に向かって結成されたみたいなところが、いま考えるとあると思うんですよね。ズレが生じたというよりも、それぞれ、暗黙のうちに到達しようとしていた約束の地に到達したから…。
- 当時よくいわれていたように布袋さんとの仲が悪くなったわけではないのですか?
氷室 組んだときから仲はもともと悪かったですからね。ライバル意識というよりは、まったく違うキャラクターだったから…。(※39) 

- ボウイ(BOOWY)が解散してから、約三年が経ちますが、人気絶頂の時期だったのに、なぜあえて終止符を打ってしまったんでしょう?
氷室「確かに、あの時期の解散なんて無謀だという意見もありましたけど、メンバー四人の中にはそれぞれ”これ以上昇りつめることって、何の意味があるんだろう”っていう気持ちがあったんですよ。それが一致したんです。だから(解散は)俺らにとっては良かったんです。それにバンドとしてでなく俺自身の問題として、身動きできない状態にあったことも確かです。ものすごく煮詰まっていて、精神的にガタガタになっていたんですよ」
- ガタガタに!?
氷室「ボウイを始めた頃はね、ライヴ・ハウスから始めて、上に上に昇っていくことがとりあえずの目標だったんです。それがかなえられ巨大になるにつれて、今度は一種の不安にとりつかれるようになっていったんですよ。」
- 不安…ですか?
氷室「そう。だからボウイの後期は、ものすごく辛い時期だったんです。回りにはわからなかっただろうけど、自分が自分でないような感じ。つまり五のものが十にも二十にも評価されていってしまう怖さ…。”ちょっと待ってよ、そんなんじゃないだろ””俺ら、そんな大仰なもんじゃないぜ“って、思ってるそばから、パブリック・イメージだけがものすごい勢いで、どんどん大きくなっていってしまって、俺自身の実像との距離がみるみる広がっていってしまったんです」
- 虚像が作られていってしまったというか。
氷室「虚像という言葉が当てはまるかは分からないけど、自分が自分でいられないような空気があって、追いつめられていくのがわかりました。けっこう神経症的になってしまったこともあったんですね」(※40)

BOOWYの解散めいた話が出たのも『JUST A HERO』を作った後なんだけど、それだけ満足感があったということなんだ。そんなに唐突な話でもないんだよ。バンドを組んだ時からもう解散するのは宿命的なモノだから、四人がやりたいことを表現しきったら、何かもっと違う刺激が欲しくなるのは当然の要求だから。
もちろん『MORAL』の頃にそんな話はしてないよ(笑)。ただある程度頂点まで行ったらそれを維持するみたいな姿はやめようねって部分は、確認しなくてもメンバーみんな思ってたことだと思うよ。で、オレはこのアルバムの頃から、何かけっこうピークは目の前だなって気はすごいしたし。
確かにピークっていうのは、表現としてやるべきことは全部やったんだって意味合いとそれが受け止められて評価やセールスになる二つの意味合いがあるね。『JUST A HERO』は前者の意味でピークだと思った。セールスは…どのくらい売れたか覚えてないけど、確か十万枚とかそんなもんじゃないかな?オレにとってはそれすらピークなわけよ(笑)。(※41)

このアルバムで解散せずにあと一枚二枚作ってたとしたらねぇ…やっぱり一度確立したBOOWYのメジャー的な部分は壊せなかったと思うよ。壊せないと思ったからこそ解散したんだし。
やっぱり何かひとつの転機がないと、あそこまで大きくなったら難しいよ。もう個人の意思だけではさ。四人が何かアクションを起すことに関して全てがものすごい動き方で動くわけだから。
そうなると、流されてしまう。その姿ってオレの中では不本意な姿だから、やっぱりあの時の解散は今考えても正解だった。バンドに対しての愛情があるからこそ解散しなきゃいけない時ってあるもんなんだよ。自分がやってきて、別に苦労もしちゃいないんだけどさ、それでも本当に好きでやってきたこのバンドが、もしもパブリック・イメージとかで歪んでいっちゃうんだったら、やっぱそこは四人で決着をつけたいというね。(※42)

氷室氏の場合。
この御方はメンバーの中で唯一、布袋氏が解散を言い出したとは言っていない人物。
他のメンバーは、言い出しっぺの布袋氏でさえも、布袋氏が解散を望んでメンバーへ提案したことは認めている。(但し布袋氏は、BOOWY人気が今でも衰えないためか、後になって真の理由は他にもあるかのように匂わせたり、言い訳めいたことばかり言っているが…)
頂点に達したら解散することは、「確認しなくてもメンバーみんな思ってたこと」で、解散はあくまでもみんなで決めたこと。4人が次の場所へ行くための前向きなもの。特定の誰かのせいにしたり、他の誰かを責めたりすることはない。
布袋氏に対して苦言めいたことを言ったのは、氷室氏に約束していた「解散後の海外進出」を布袋氏が有耶無耶にしてCOMPLEXを結成した時のみ。それも「あれが布袋の本当にやりたいことなのかな」程度で、それでも「あいつらが好きでやっていることだから」と、自分がそれについて口を挟むことではないとしている。

てんでばらばらの4人が、それでも自分たちの中の重なり合う部分で結びついていたのがBOOWYの7年弱であった。4人でやりきれるところまで行ったから解散したという立場を現在に至るまでずっと貫いている。(後に、後期に行けば行くほど辛かった、解散には複雑な事情があったなどとは漏らしたりはしているが、詳細は語らず。)BOOWYの解散が格好良さげに語られるのは、氷室氏と布袋氏両氏のソロ活動が成功したこと以上に、氷室氏のこの態度によるものが大きいだろう。
その上で、あくまでも氷室氏個人の理由として、バンドが巨大になりすぎたこと、大きくなっていくにつれ、実力以上に評価され、本来の自分との乖離が激しくなっていって苦しんでいたことを挙げている。

実際、氷室氏はソロになってからの音楽活動は非常にマイペース。BOOWYの後始末を付けなければならなかったソロ初年度は精力的だったし、ここぞという時は動くけれど、それ以外はスローペースすぎる活動。むしろやるべき時はきちんとやって結果を出し、納得いくまで制作活動することが許される環境を作り上げていった人。そんなじっくり制作活動をしたい派の氷室氏にとって、イベント出演が終わって羽田に戻ってきたら空港からスタジオへ車で直行、レコーディングは纏まった時間を取れずにツアーの合間合間に、ステージを振り返る間もなくまた次のステージへ、といった人気が急上昇したが故に兎に角時間に追われ、気を抜くと望まぬ方向へ流されてしまいがちなBOOWY後期の状況は相当ストレスフルであったと思われる。
まして、そんな状況下において山下氏のツアーバンド事件が仲間であったはずの布袋氏の手によって引き起こされたわけだから、余計にキツかっただろう。後半は精神的にも追い詰められて、かなり苦しんでいたと思われる。「神経症的になってしまったこともあった」と語っているし。
また、ソロになってからも「毎回毎回自分の手に入れているビートとか、外部が思っているパブリックな氷室京介っていうイメージじゃないところへ逃げたくて仕方ない」(※48)と、実像と虚像との乖離についての悩みをたまに吐露していることから、BOOWY時代も同様の考えであったとしても不思議ではない。
よって、氷室氏が解散を承諾した理由の一つ(解散を承諾するに至ったシチュエーションと言うべきだろうか)としては、こちらも恐らく間違いではないと考えている。

だが、「次に行きたい場所というのがみんなそれぞれにあって」と対外的には言っているものの、メンバー各人のインタビューを読むと、「次に行きたい場所」を解散の話し合い前に明確に持っていたのは布袋氏だけで、他の3人は布袋氏が解散を言い出すまでは、BOOWYの次を考えていなかったように見受けられる。布袋氏から解散を突き付けられて、BOOWYが終わったその次を考えざるを得ない状況に追い込まれたのだと思う。
「布袋がオレをボーカリストとして、あるいはオレが布袋をギタリストとして、それぞれを最高だと思ってたから続いてただけの話」という言葉が切ない
そして、この時に布袋氏は「BOOWY」と「氷室京介」をともに切り捨てた(と言うと語弊があるかもしれないが、両方とも当時の布袋氏にとって非常にプライオリティが低かったと思われる)ものの、現在ではそれらをこの上なく大切なものであるかのように、さらには今までずっとそのように扱っていたかのように世間にアピールしているのは、何とも皮肉なことである。

氷室氏は、解散を決断する直前まで、「この4人でまだまだいろんな事にトライしたい」と考えていた人だと思う。高橋氏が自伝「スネア」に「氷室はこの4人でのBOOWYでいたかった」と書いたように。
ただ、そのために自分バンドの在り方枉げることはできなかった。(それでも多少の打算や妥協はあったろうが)
BOOWYを作った時の「格好良いことをやりたい」という初期衝動を貫いた結果が「解散」。

4人の気持ちがバラバラなのに、ビジネスとしてBOOWYを延命させて、これ以上昇りつめることに意義を見いだせなかった。
自分達が好きなことをやるために始めたバンドを、誰かの好きにさせることは許せなかった
自分にとって絶対に汚されたくない部分を汚される前に、最初に目指していた「カッチョいいバンド」像から外れる前に、自分達の手で終わらせた。そう私は思っている。

そして苦悩の末に決断したら、バンドやメンバーへの未練は断ち切るべきと考えて、ソロ活動では、自分のやりたい音楽の追究に気持ちを切り替えたのだと思う。音楽の最高形は4人で探していくものから自分一人で探すものへと変わった。
1987年12月24日、ステージ上にて発した「これから、一人ひとりが、一人ひとりの為に、今まで4人でしかできなかった音楽をやってきたように……、一人ひとり、これからやっていこうと思います」との言葉どおりに。

- 松井恒松 -

- ほら、布袋君の口からよくいろんな形で言われてるけれども、まあBOOWYは解散すべくして解散したというか、ある意味でかなり前からみんな解散は見えていた、みたいなことをよく言ってますよね。まあ限界に来ちゃったんだと。そういうのは松井さんにもありました?
松井「うん、あのう僕自身が解散したいって思ってたわけじゃないんだけど。バンドはそういう時期んなったら解散するもんだと思ってました」(※43)

松井  いつだったかははっきり覚えていないけど、布袋くんから「辞めたい」という話がありました。
- けっこう、ダイレクトに言ったわけですね、布袋さんは。
松井  海外自分の可能性を試してみたい、いつかデヴィッド・ボウイの横でギターを弾けるようになりたいんだ、というような話だった。実際、のちに彼はその夢を実現しているしね。
ただ、本当に、それだけがバンドを辞めたい理由だったのかどうかは、布袋くん本人にしかわからないことだけど。
いずれにしても、自分たちで好きなメンバーを集めて活動を始めたバンドである以上は、その誰かが「辞めたい」と言ったらそれはもう終わりということ。解散ということです。4人で作ってきたものだから。
- 残りのメンバーだけで「BOOWY存続」という発想はあり得んかったんですか?
松井  それはもうBOOWYではないから。(※5  P101-102)

松井氏の場合。
この御方のインタビュー記事はあまり多くはない。但し、自伝は書いている。
自伝では、布袋氏が海外進出を理由に、BOOWYを辞めたいと言ったと証言している。そして布袋氏がバンドを辞めたい理由がそれだけだったのかどうかはわからない、と含みを持たせた書き方をしている。
それから、松井氏自身は解散したいとは思っていなかった模様。

最初に引用した記事で、インタビュアーが「BOOWYが完成形に達したから」ではなく「まあ限界に来ちゃった」から解散と言っている時点で、当時の業界人がBOOWYが解散した理由を本心ではどう捉えていたのかがわかる。(笑)

個人的には、山下氏のツアーバンドの件など、この御方がもう少し上手く立ち回ったり、2人の間を取り持つような動きを見せていたら、また違う未来もあったのかなぁ…などと妄想したり。んー、でも当時の布袋氏やら周囲の状況やらを考えると、松井氏には荷が重いかな。(上から目線で偉そうに言ってスミマセン)
結婚したばかりで自分の将来設計やら打算やらもあっただろうし。
今更言っても詮無いことではあるけど、実は解散にあたっての影のキーマンだったのではと疑っている。(笑)


ー 高橋まこと -

「印象に残っているのは86年6月福井でのライブの打ち上げで、布袋が酔ってみんなに喧嘩ふっかけるような感じだった。俺は布袋に怒ってバカヤローとか言って悪酔いしたからよく覚えている。客とのギャップというのが解散の1つのきっかけでもあった。でも俺はそういうのがあっても仕方ないと思っていたんだけどね。『BEAT EMOTION』はもう一度4人でしか出来ないロックに戻ろうという感じで作ったアルバムだね」(※3 P40)

「まずズバッとやめるわけにはいかなかったし、メンバーで決めたことでまだ誰にも言ってなかったから、ここでいきなり解散したらいろいろと問題もおこるし。だからあと1年くらい一生懸命やっていい感じになってやめようぜって。一人一人バラバラになってもちゃんとやっていけるようなものを残しておこうって感じだった。でも最後のツアーは一番脂が乗っていてよかったんじゃないかな。メンバー間で解散をいつ言うかは決めてなかった。氷室がライブで言うんだろうと思っていたけど、最後のライブまで言わなかった。ツアー途中にもしかしたらこのまま解散宣言しないんじゃないかって思ったよ」(※3 P40)

(解散の)話を切り出したのは、布袋だった。
「このシステムに乗ってあと1、2年はバンドをやり続けるだろうけど、それぞれが自分自身のことを考えながら、やがて一本立ちできるような方向へ進んだほうがいいんじゃないかな?」
そう布袋は言い放った。
(中略)
一番になって立ち向かうものが日本に何もなくなった時、スパッと潔くバンドを辞めるのが格好いいよなという認識が、俺たちの間で確認された瞬間だった。
具体的にいついつまでに解散しようというのは決めてなかったが、とにかくそんな漠然とした話はすでにあった。(※4 P139)

ただひとつ記憶が明瞭なのは、話し合いが終わった後に憮然と無言のまま立ち去った氷室の後ろ姿だ。
その後ろ姿は、怒りに打ち震えていたようにも見えたし、どこか力なく寂しげでもあった。
それぞれがソロ活動をやってバンド活動は休止状態にしようという案は不思議と出てこなかった。辞めるなら辞める、オール・オア・ナッシングだった。BOOWYという名前だけを残して、でもやっぱり何も動きませんでしたとなればファンにをつくことになるし、それだけは避けたかった。
これは個人的な意見だが、長野の夜のミーティングはあったものの布袋以外は本当に解散することなど誰も現実的に考えていなかったのではないかと思う。氷室も解散したいなんて微塵も思わなかったはずだ。
松井も同行した久美ちゃんのツアーに、実は俺も誘われていた。久美ちゃんのプロデューサーがわざわざ俺一人を呼び出して言うには、「まこっちゃんにドラムを叩いてほしいと布袋が言っている」ということだった。それではBOOWYの4分の3がツアーに参加することになってしまう。
まるで氷室を除け者にしているようで、いくらなんでもまずい。
それで、俺は氷室に直接事情を伝えることにした。そうしたら、即「来月解散しよう」という話になった。
氷室はこの4人でのBOOWYでいたかった。布袋はBOOWY以外での活動の成果を持ち帰るんだと話していたが、この時点ではもう意味合いが違ってしまっていた
そんな経緯があって、氷室は「もう知るか」とばかりに単身ロンドンへ飛んで行ってしまった。
俺は布袋から初めて解散の話を聞かされた時、エーッ、やっと軌道に乗り始めたばかりじゃないかと驚いた。ファンに支えてもらっている間は、ずっとバンドを続けるべきなんじゃないかとも思っていた。ただ、解散という選択肢が確実になった時に、このままダラダラとバンドを続けるか、潔く終わりにするかのどちらを取るか考え抜いて、やっぱりここでスパッと辞めたほうが新たな気持ちで次の人生を歩めるのかなと思い直した。(※4 P140-141)

― 1986年には5thアルバム『BEAT EMOTION』がオリコン初登場1位を獲得。バンドは頂点に上り詰めます。このとき、すでに解散を考えていたという説がありますが。
高橋「12月16日の長野市民会館でのライブの後、布袋が「マネージャー抜きで話したい」って言うんで、メンバー全員ホテルのラウンジに。そこで布袋が「売れたら辞めよう」と言い出した。売れたら解散するってのは、結成当初から冗談みたいに漠然と語っていたことだったが、『BEAT EMOTION』が1位になったので、そろそろ真剣に考える時期が来たんじゃないかという話だった。」
俺にしてみりゃ、「ちょっと待て。話はわかるが、ここまで来たからにはもう少しやろうぜ」って気持ちだったけど、布袋は「バンドとしてこれ以上、何をすればいいんだ?」と考えていたのかもしれない。(※44)

高橋氏の場合。
この御方は、インタビューやらトークイベントやらでBOOWY時代の想い出話をよく語っている。それこそここに全てを書き切れないほど。でも話の内容は、さほどぶれていない。
共通しているのは、布袋氏が解散を言い出したこと。それは長野でのライブの夜であったこと。
長野の夜は、「BOOWY'S BE AMBITIOUS」ツアー中のことだと発言していることが多いのは気になるが、「BOOWY'S BE AMBITIOUS」ツアーには長野公演はないし、オフィシャルブックの「BOOWY B to Y」でも「ROCK 'N ROLL CIRCUS」ツアー中の長野公演の出来事として記されている。また、ここには引用していないが、氷室氏や土屋氏も、解散のプロセスを訊かれて「長野のコンサート」と話しているので、「BOOWY'S BE AMBITIOUS」ツアー中というのは高橋氏の勘違いだと考えている。ツアー直前に布袋氏によるデモ作り拒絶事件などもあったし、もしかしたらこのツアー中にも多少揉めたりして、それと混同しているのかもしれない。

高橋氏も、布袋氏から解散を切り出された時点では、「ようやくここまできたんじゃないか」と解散を望んでいなかったとのこと。ただ解散が確実になった時には、このままダラダラと続けるより、スパッと辞めた方が新たな気持ちで次の人生を歩めると思い直したと。

高橋氏の自伝が一部の布袋氏の信奉者から問題視されるのは、布袋氏が氷室氏に黙って山下氏のツアーサポートに松井氏と高橋氏を参加させようとしたエピソードを書いたこと。山下氏のツアーサポートの件は、また別の解散の噂の時に触れるが、これを自伝に書いたことにより、高橋氏は布袋氏の信奉者から一方的に敵視されている。
布袋氏の盲目的信奉者の中には、高橋氏のソロアルバムに布袋氏が参加したことや、布袋氏のソロアルバムに高橋氏が参加したことを取り上げて、氷室氏を仲間はずれにしたのは高橋氏だとSNSで触れ回り、高橋氏に解散の原因をなすりつけるようなことをしている方もいる。布袋氏が好きすぎてアクロバティック擁護したくなる気持ちはよくわかるけど、そういうデマを飛ばすのは本当にどうかと思う。布袋氏自身もタチの悪い印象操作をよく仕掛けるし、都合の悪いことは全て他人のせいにしがちな人だけれども、そういうところは布袋氏のファンも見習わないで欲しい。
高橋氏は確かに山下氏のツアーバンドの件を自伝に書いてしまってはいる。だけど、布袋氏がBOOWY時代によくファンへ悪態をついていたように、客とのギャップに悩んでいて、それが解散のきっかけの一つだったというようなこともきちんと伝えているので、決して布袋氏を貶めようとしたわけではないだろう。(そもそも批判されて然るべきなのは、布袋氏の行動)


- 布袋寅泰 -

布袋「それ(1224)が終わって、何となく完結したんですよ、僕やみんなの気持ちの中で。すごい良かったね、みたいな感じで握手も交わしたし、長い間ありごとう、みたいなところまでやったし。それを噛み締めに外に出て。ところが、その後ロンドンに行って帰ってきたら、なんか周りがまた変わってるし…何かがすごい多かったりとか、俺が悪者にされたりとか(笑)。そういうことが多くあって、結構また落ち込みましたよね。それこそ『山下久美子とバンドを組むらしい』とかさ。僕は彼女とバンドを組むつもりは一切ないしさ。そういう全く根も葉もないようなことが、気持ちを鎮めて帰って来た俺に急に襲いかかって、すげえつらかったの。」(※12 P20)

- で、その当時『JUST A HERO』でBOOWYは成功の階段を登っていこうとしてるわけですけど、それでもみんなBOOWYは生涯俺にとって一バンドだみたいな意識はなかったんですか。
布袋「どうなのかな。何というか、生涯一バンドにしちゃいけないような気がしてました。ヒムロックともよくその話をしてたな」
- へぇー。この段階でも?
布袋「うん、結構。だから、いつかやめようぜって話じゃなくて、ずーっとズルズルやるよりは、ガーンって登りつめて、例えば、打ち上げ花火ならでかい方がカッコいいみたいなさ。で、バーンっていってバーンって俺らはやめるんだみたいな、それが一番カッコいいんだみたいな意識があったな」
- だけど、『BOOWY』あたりまでは、それどころじゃなかったでしょ?
布袋「その段階からも冗談まじりに言ってましたね。ガシーンといってガシーンとやめるんだみたいな。結構男気が入ってたな」
- というか、もともと氷室君と布袋くんがお互いミュージシャン・エゴをぶつけながら20年、30年続けていくとはハタから見ても思えないわけだから。その辺は自分達なりにある程度のクールな感覚というのがあったんですか、この段階でも。
布袋「うん。それが直接解散に結びついたとは思わないけど、ありましたね。そういう話はよく出てた
- ふーん。そういう事も話し合うんですか(笑)。
布袋「話し合うっていうか、楽屋なんかで結構アッケラカンとして話しちゃうの」
- へぇー。俺達違うしなあ、みたいな。
布袋「うん。『なんかやっぱ、長くやってりゃいいってもんじゃないよね』みたいなさ(笑)。」
- (笑)ヘンなバンド。
布袋「もちろん長くやることの素晴らしさは知っていながら言ってるんだけど、自分らはそういうタマじゃないなって感じはあるんじゃないかな。それよりもとりあえず、登りつめるって事に必死で、もちろん一つずつ登ってるとは思ってんだけど、まだ登りつめた気はしないわけですよ。まだ途中の途中ぐらいで。」(※12 P18)

- あの、1位を取るという事は、ある意味で一つの完成形なわけですよね。で、完成したらやめるつもりだったんでしょ?
布袋「1位を取ったら、それは完成形じゃないような気がしてきた。なんか飛び抜けて1位じゃなかったっていう感じがするな。もっと出来るっていう自信にまたつながっちゃった。だから、ここでやめるって感じにならなかったな。」
- だけど、解散っていう終着点があるんだっていうのは、この辺からもう強固に?
布袋「僕個人的には、なんとなく見えてきたかなっていう」
- そういうのはバンドの中で話したりするんですか。
布袋「それは話さなかったな。僕が思った事は、その場で話したって形じゃないけど。でも、結局1枚目とか2枚目からそういう話はしてるわけでしょ」
- けど、それは遠い先の、近い将来には絶対来ないお伽噺としてじゃない?
布袋「まあね。でも、冗談まじりに言っていながらも、冗談がどんどん本当になってくるわけじゃん。昔、冗談のつもりで、『1位になったらやめようぜ』って言ってたのが、1位になった時に4人の中にすごい出てきたと思う」(※12 P18)

- 『BEAT EMOTION』が1位になって、とんでもないBOOWYブームが起きて、空しい気持ちを持ちつつもツアーをして。その時『PSYCHOPATH』をラスト・アルバムにしようと思ったんですか。
布袋「そうです。それはみんなで決めていた。…そうだ、それは決めていたんだ。レコーディングした時から、これは最後のアルバムだって、気持ちだったっけかなあ…そうだと思うな…そうだ、うん。そう言いながらも、事務所にちゃんと言ってるわけでもないし、結構自分たちの意識の中だけ。特に僕の意識--僕が切り出したんですよね。で、ヒムロックとかの意識の中にもそういうのがあって」
- それは『BEAT EMOTION』を作った後に決めたんですか・
布袋「もちろん」
- ひょっとしたら『BEAT EMOTION』で終わるかもしれないなって言う気持ちはあったわけでしょう・
布袋「ひょっとしたらね」
- だけども『BEAT EMOTION』は1位になったはいいけども、どうも完璧にBOOWYっていいうのに自分の中でピリオドを打ったような気はしませんでした?
布袋「うん。それでだから、何がピリオドなのかって言ったら――変に取る人もいるかもしれないけど――例えば、ナンバー1バンドの座っていうのはさ、本当の意味では、そのバンドとかの持つ意識が全てだと思うのね。僕からしてみれば――色んなインタヴュー読んだりレコード聴いたりして――こいつらナンバー1だなって思うバンドもたくさんいるしさ。ことBOOWYに関しては――『BEAT EMOTION』で1位を狙ったってとこからはじまったのかもしれないけど――もっとデカく行けるってとこから始まったのかもしれないけど――もっとデカく行けるっていうところが見えてきたっていうかさ、そこまで行きたいっていう気持ちも出てきたな、なんか」
- だけど逆に言うと、この段階で布袋君が解散を言わなければ、もうちょっと続いたと思いません?
布袋「わかんないですね、そればっかりは」
- ただ、言い出すのは自分だと思ってたでyそう。
布袋「いやそれもわかんない、ヒムロックかもしんないし。何度も解散話は出ていたしさ、もう辞めようって言う話は。でもそれはその場で出た話であって」
- シリアスなものではなかった?
布袋「うん。例えばヒムロックがさ、虫の居所が悪くて――みんなで、どうしようかっていう話している時とかに――いきなりもう『もうやめた、解散だ、俺ら解散』みたいな場面は何度もあったな(笑)。でもそれは、最終的な意味での解散ではなかったし。」(※12 P19)

- 『BEAT EMOTION』を作り終えて、次のアルバムを作る段階で、もうこれはラストだと?
布袋「ツアーの最中にそうなってたんだよね」
- それはバンドのメンバーにどういう形で言ったんですか。
布袋「僕はその頃ちょうどすっごいね、海外に出たかったんですよ。1位っていう座も手にしたし――僕の切り出し方としては、すごいわがままな切り出し方で――もうちょっと大きいところで勝負がしたくなった、みたいなさ。だから俗に(フォーカスとかで)言われているような意味での解散ていう言葉の出し方じゃないんですよ。例えば、もうやりたくない、もう行くとこまで行ったからやめようぜ、とか、そういう言葉ではなかったな。で、みんなしっかりしてきたしたくましくなってるし、別に(ヒムロックにしても)俺といなくても平気じゃん、みたいな、そういう切り出し方だったな」
- みんなの反応は?
布袋「んー、黙る人もいれば…ヒムロックは『うん、そうだな』って言ったな」
- だけど『そうか、じゃあ解散にしよう』みたいな感じですっぱり話は終わったわけじゃないでしょう。
布袋「うん、もちろん、その場でそういう話じゃないけど。まあでも色々考えながらやってみよう、みたいな」(※12 P19-20)

(布袋寅泰)
成立したら解散しようって言うのは、暗黙のうちの約束事だったのが大きかった。実際にメンバーの口にその言葉が出てくることもあったし、インタビューなんかで"夢はなんですか?“なんて聞かれると、ヒムロックなんかは、"一位になったら解散すること”なんて答えてるのを聞いててもメンバーは不思議に思わなかったしね。「BEAT EMOTION」を創った時は、みんなのパワーが一位に向かって終結されてたようなところがあって、案の定一位になった時は”やったー!“って喜ぶよりも"とうとうこの時が来たんだな”っていうかんじ。そこら辺から終わりに向かってるんだろうね。今思えばあのラスト・スパートも美しい瞬間だった。その状況の中での細かいことはあまり言わないっていうのもなんか暗黙のうちのBOOWYの美学でさ。今は気分が軽くなってるから、このままいくと言えちゃいそうなんだけど(笑)。それは俺だけのことじゃないから、ね。俺自身は気持ちよかったな、決して喧嘩別れじゃないわけだしさ。喧嘩別れだって言われれば最初から個性対個性の部分で喧嘩ばっかりしているようなバンドだったし。俺とヒムロックの仲が悪いなんて言われてたけど、そんなこともなかったよ。ただ、それが普通の人が言う仲の良さとはちょっと違ってたわけで、解散するほど人に認められたいと思ってた部分では同じだったし、それを本当に思った通りにできたバンドだったんだよね。(※45) 

「BOOWY解散の謎……。
それは永遠に謎のままであってかまわない。メンバーが何ら関与しないCDや商品が毎年のように作られ、そのたびに「BOOWY解散の謎」が様々なメディアによって語られてきたようだが、俺が死ぬまで、謎は謎のままであってほしいと思う。
決して一つの理由などではない。
きっと今、メンバーの四人が集まって「なぜ、解散したのか」という理由を同時にしゃべるという機会があったなら、きっとそれは笑ってしまうほどバラバラなのではないかと思う。
BOOWYはBOOWYのもの。四人のもの。俺にはこんな理由がある…などと四分の一の存在が解散の理由を軽々しく語ってはならないと思う。
確かに、解散を最初に言い出したのは俺だった。熱心なBOOWYのファンならば、それがツアー先のホテルでの出来事であることも知っているはずだ。だから俺は、BOOWYファンから悪者の烙印を押されているのかもしれない。しかし、結成以来、揺れに揺れ続けてきたバンドを崩壊に至らないよう手を尽くしてきたのも俺である。俺がBOOWYを愛していなければずっと昔に解散していたはず。最後の最後で俺がワルの役を買って出ただけの話だ。俺には俺の、”絶対に解散せねばならない理由“があった。しかし、その理由は墓まで持って行くつもりだ。」(※46 P173~174)

布袋氏の場合。
この御方がBOOWYや氷室氏関連を話題に出すのは、大抵自身のツアー発表前やアルバム発表前など。自分の大きな仕事の前又はBOOWY関連商品が発売される前ばかり。布袋氏とBOOWYは同じレコード会社なのでお互いのプロモーションも兼ねてというのは理解しているが、あまりにも頻発するので、近年ではこの御方がSNSにBOOWY関連の投稿をすると、「数日内に何か発表があるな」と思うようになってしまった。前振りがBOOWYか氷室氏。そして、発表された仕事の前のインタビューでBOOWYや氷室氏に対する想いを語り、ニュースとして取り上げられるのが近年のデフォ。(氷室氏が卒業宣言した後に開催した布袋氏の新アルバムの試聴会には、布袋氏の「隣でギターを弾きたい」コメントを受けて、異例の数のマスコミが集まったそうだ。しかしながらどれを読んでも、布袋氏のアルバムの良し悪しについては全く触れられておらず(試聴会を開催したこととアルバムの発売日くらいは書いてあった)、大見出しに「布袋オファー待つ 氷室の最後の舞台」「氷室のラストステージ 布袋『断る理由はない』」「布袋『BOOWY』再結成意欲」等々と付けられた布袋氏から氷室氏へのラブコール中心の記事であったことを遺憾ながら記しておく。)

この御方は、状況に応じて言っていることがコロコロ変わるため、その真偽については状況や他者との発言とを慎重に比較衡量しなければならない点に注意が必要である。但し彼にも首尾一貫していることが一つだけある。それは「俺のせいじゃない」「俺だけが言った(やった)ことじゃない」という態度。
「1位になったら解散」説・私見②の年表に引用したBOOWY時代の発言と解散後の発言を比較してほしい。

なお、上記で私が引用させていただいた布袋氏の「解散後の発言」は、最後のBOOWY解散の謎云々のみ布袋氏の自伝「秘密」(2006年2月刊行)からの引用であって、それ以外は解散から間もないソロ初期のインタビューから抜粋したものである。
急速に人気が出て、その絶頂で解散した言われるBOOWYは、実際に目にすることが出来なかったファンも多かった。解散直後は、そんな「間に合わなかった」ファンや好きになってすぐに解散されてしまったファンの嘆き恨み節が渦巻いていたであろう時期。

最後の解散の謎云々の件は、2006年2月に発売された自伝の一節。離婚・再婚のすったもんだ以降、CDバブル崩壊もあって、布袋氏のCD売上は加速度的に落ち続けていた時期。(オリジナルアルバムの売上比較(オリコン調べ):離婚の前年に発売されたオリアル最高セールスの「King & Queen」約90万枚 → 自伝発売の前年に発売された「MONSTER DRIVE」約5万枚。ちなみに現時点での最新アルバム「Soul to Soul」は(吉井和哉氏やコブクロ、氷川きよし氏ら錚々たる有名人が多数ゲスト参加したにもかかわらず)約1万枚)
他方、自伝発売の1年半ほど前には、氷室氏がBOOWYの曲とソロ曲を歌う“史上最強のトリビュートライブ”を開催し、チケットは発売5分でソールドアウトと報道された。ライブ自体も、観客が演奏と一緒に歌う声が五月蠅いと会場に苦情が来るほど大盛り上がり。 氷室氏が歌うBOOWYの楽曲に未だに強い訴求力があることを世間に知らしめた。そんな頃に書かれたたもの。

お気づきだろうか。

解散直後の発言は、
ヒムロックともよくその話をしてた」
ヒムロックとかの意識の中にもそういうのがあって」
「(解散を切り出したのは自分でなく)ヒムロックかもしんないし。何度も解散話は出ていた」
ヒムロックがさ、虫の居所が悪くて――みんなで、どうしようかっていう話している時とかに――いきなりもう『もうやめた、解散だ、俺ら解散』みたいな場面は何度もあった」
「(俺が解散を切り出したら)ヒムロックは『うん、そうだな』って言った」
「(インタビューで夢を訊かれた時に)ヒムロックなんかは、"一位になったら解散すること”なんて答えてるのを聞いてても」

いや、ちょっと待って!?

「ヒムロックが-」「ヒムロックはー」って、アナタBOOWY現役時代のインタビューで、ほとんどそんなこと言ってないよね…?
BOOWY時代の解散への憧れ発言は、布袋氏の考えを話しているようにしか見えない。散々自分の考えを話した後に「メンバーみんなそう」と付け足すことはあったけれども。
大体、氷室氏が1位になったので解散と言ったのは1224後のインタビュー。BOOWYはもう終わっていて、BOOWYで叶えたい夢云々とは全く関係のない話の時。なのに「ヒムロックなんかは、インタビューで"一位になったら解散すること”なんて答えてるのを聞いててもメンバーは不思議に思わなかった」って、さあ。(呆)後出しジャンケンにも程がある。

それまでの自身の持論を展開しつつ、それは氷室氏が言っていたことですよ、氷室氏もそう思っていたことですよ、と。「暗黙のうちの約束事」と言いつつも、氷室氏が解散するのが夢だと言っていたとアピールせずにはいられない。(実際に「僕らの夢は解散なのです」と音楽雑誌に寄稿していたのは布袋氏(※25))
そして、1224後に行ったロンドンから帰国したら「山下久美子とバンドを組むらしい」と自分が解散の原因にされていた。悪者にされて辛かった…ってあのツアーバンド事件があったら、そのくらい言われても決しておかしなことではない。むしろそれだけで済んだのが奇跡的。(それは多分、氷室氏がそれについて一切口を閉ざし、独立された形の事務所が"布袋潰し”に動かなかったおかげ)

LAST GIGS直後に行なわれた布袋氏のこのインタビューでは、布袋氏はいいことを言っている。
本っ当にいいことを言っているのだ。
BOOWYファンがこのインタビューだけ読んだのであれば、布袋氏はとてもBOOWYを愛していて、氷室氏のことも非常にリスペクトしていたと感じて、感動するだろう。それどころか「なのに解散で布袋氏のことを悪く言う人がいるの?許せない!解散は誰も悪くない」と思うことだろう。
以前の布袋氏の発言を知らず、このインタビューでも肝心の所は「ヒムロックがー」と逃げていることを知らなければ。

インタビュアーが「このインタヴュー読んだらファンは喜びますよ。周辺情報でまだネガティヴなものが残っていると思いますからね」と話し、布袋氏が「それは一掃したいな」と答えたように(※12 P21)、布袋氏にとってネガティヴなもの、すなわち「布袋氏が山下氏と活動したくて解散させたという噂」は、このインタビューを読んだBOOWYファンの中ではかなり払拭されたのではないか。
実際、このインタビューが再録された「ROCKIN'ON JAPAN FILE Vol.2」のリード文でも、「このインタビュー掲載後、BOOWY・ファンから胸のつかえが取れたという感謝の投書をたくさんもらった。話を聞いていても、なかなか感動的なインタヴューだった」と書かれている。
そして布袋氏は、「一掃したいな」に続き、「俺が思うに、ヒムロックも多分そう思ってくれてると思う、っていうさ。最近会ってないし、しゃべってないから、気持ちはよく知らないけど」という言葉を付け加えた。
ここでも「気持ちはよく知らない」としながらも、やはり「ヒムロックもそう思ってくれてると思う」…。
確かに氷室氏は解散に限らず、BOOWYについて部外者からあれこれ言われるのは好まないとは思う。解散のゴタゴタを衆目に晒したいとも思っていないだろう。ただ、解散前後のメンバーの発言などを追っていくと、周辺情報でネガティヴなものが発生した原因のかなりの部分が、布袋氏の言動行動に起因しているように見えるわけで。
解散前のように「俺がそう考えた」という立場を貫いていれば、せめて「みんな(4人)で決めた」と言っていれば納得できるけれども、「ヒムロックがー」ばかりの布袋氏の言い方では、氷室氏に解散の責任をなすりつけて、布袋氏が自己弁護自己保身に走っているようにも見えてしまう。さらに「俺が解散で悪者とされるのはヒムロックも望んでいない」とファンの思考を誘導しようとしているようにも思えて、ちょっともやっとしてしまう。BOOWYから2人が脱退した時の「布袋氏の自伝での書き方」のこともあるし。(これまで色々な噂を調べてきたけれど、氷室氏への風評被害の原因の多くが、布袋氏の誤解させるような言い方が発端だったりする……。それに加えて「ヒムロックは僕に憧れてたと思う」「ヒムロックは僕のことを誇りに思ってたはず」などと言って、あたかも氷室氏が布袋氏の我儘も何もかも受け入れ応援していたかのような印象操作をして、自分は間違ってないアピールをよくやるのがなぁ……。)

氷室氏は解散前も後もずっと「BOOWYでできる最高の音楽が出来たら」「BOOWYの4人でやれることをやりきったら」解散してもいいと思っていたとは言っていた。但し、ことあるごとに言っていたわけではない。少なくとも対外的には。
BOOWY時代に解散について具体的に言及していたのは、圧倒的に布袋氏が多い。意図的に布袋氏の発言を年表に多く引用したわけではない。インタビューなどに残されている解散に関する発言をピックアップすると、本当に布袋氏の発言だけが突出しているのだ。

勿論、記事にならなかっただけで話していた可能性はある。しかし、あれだけ布袋氏の解散に関する発言が取り上げられていることを考えると、インタビューで氷室氏の発言だけ取り上げられなかったという可能性は低いだろう。実際、松井氏へのインタビューでの問いかけが「布袋君の口からよくいろんな形で言われてるけれども」だったように、BOOWY時代に解散について思わせぶりなことをよく口にしていたのは主に布袋氏

メンバー内での冗談やお巫山戯で、或いは口喧嘩の際の言葉の綾で、売れないバンドあるあるとして「解散」の言葉が出ることは当然あっただろうが、それをここで持ち出すのは意味合いが全然違う

解散直後の布袋氏の発言を眺めていると、まるで氷室氏がしょっちゅう本気で解散を口にしていて、本当は氷室氏の方が解散を望んで動いていたかのような印象を受ける。しかも、後に出した自伝で「最後の最後で俺がワルの役を買って出ただけの話」と書くことで、本当は氷室氏が望んでいた解散を俺が代弁したがために俺が悪者になってしまった、と匂わせているようにも見えてしまう。

その上、だ。
布袋氏は、「BEAT EMOTION」で1位になって「そこら辺から終わりに向かってる」が、「その状況の中での細かいことはあまり言わないっていうのもなんか暗黙のうちのBOOWYの美学」だと宣う。
布袋氏曰く、美しい瞬間だそうな、その「ラスト・スパート」の状況の中で、布袋氏が山下氏のツアーにBOOWYの楽器隊全員を引き連れていこうとした事件(高橋氏が「まるで氷室を除け者にしているようでマズイ」と拒否したため、実際は4分の2参加)を引き起こしているわけで…。
で、その期間中に起きたことを詳しく語らないことが「BOOWYの美学」ですかそうですか。

えーそれ布袋氏が言うの。

やられた側の氷室氏が言うのならわかる。中立だった高橋氏が言うのもわかる。でも布袋氏に対しては(ついでに松井氏も)「おまいう」と、どうしても感じてしまうのだ。
確かに解散直後にこの件が暴露されていたら、滅茶苦茶格好悪い。みっともない。そういう意味では沈黙を守ることを「BOOWYの美学」と言えなくもないかもしれない。でもそれが暴露されたらとんでもなく批判されたであろう布袋氏が「語らないことがBOOWYの美学」とドヤるのは何か違う。美学ではなくて自己保身ではないの、と。
さらに、「言えちゃいそう」だけど「俺だけのことじゃないから」言わないと付け加えるって、さあ…(呆)。

確かに「俺だけのことじゃない」けれど!それをアナタが言いますか?!
その言い方だと「俺に解散の原因はないけど、それを語るとみんなが困るから、みんなのために語らないでいてやっている」と言っているも同然。
こういうところも、解散の原因を自分以外の他者に責任転嫁しているように見えてしまうのだよなぁ…。

一方で、布袋氏のソロセールスが絶好調な時期は、
到達したならそれを維持するより破壊してからやるっていうのが俺の流儀だから。」(※49)
「自分の中でやり遂げた感みたいなものを手にしてしまったらね、その時はもう次にいけっていうシグナルだと思ってますから。その時を迎えた瞬間、俺は恐れずすぐに幕を引きます。」(※50)
「自分の作ったものは自分で壊したいじゃない?」(※50)等々…と、
BOOWYが絶頂期で解散したのも、COMPLEXが僅か2年で活動休止したのも布袋氏の意思や信念によるものだと匂わせ、過去をバンバン捨て去る自身を誇るかのような発言が残っている。

本当に、もう。
布袋氏に一言言わせていただきたい。

「そういうとこやぞ!!」(←本当は4倍角くらいで表現したい)


【結論】

というわけで、「チャートで1位を取ったら解散」も「BOOWYでできる最高点まで到達したから解散」も解散の理由の一つとしては確かに存在するのかもしれないけれども、問題はそこじゃないよね?世間で捉えられているニュアンスとはかなり違うし、そんなに格好いい話でもなければ、そこまで美談的に語られるような内情ではなかったのでは?というのが私の持論
ぶっちゃけ、伝説のバンドどころか、一歩間違えたら、メンバーの自分勝手な振る舞いにより絶頂直前で解散した馬鹿なバンド扱いになっていてもおかしくなかったと思う。
そうならなかったのは、ひとえにこのバンドに「氷室京介」がいたからではないかと。

最後にもう一つ。
布袋氏が「ヒムロックも~」と言い出した時は責任逃れの可能性が極めて高いので、ご注意を。(笑)


【出典・参考資料】

※1 Smart FLASH 投稿日:2019.06.04 16:00FLASH編集部/光文社 「布袋寅泰、BOOWY解散理由は『チャート1位で燃え尽きる時が来た』」
※2 FRIDAY DIGITAL 2021/6/4(金) 13:32配信「BOOWYの伝説のドラマーが明かす『いまだから言える秘話』」
※3 「BOOWY B to Y」
※4 「スネア」/高橋まこと著
※5 「記憶」/松井恒松著
※6 PLAYER 1985年7月号 P63
※7  GB 1988年6月号 P18
※9 ROCK’N’ROLL 1992年8月号 パチ・パチ・ロックンロール第1期最終号 BOOWY SPECIAL P42 パチロク88年3月号vol.10より再収録 / 文:福岡紀行
※10 DOCUMENT OF KYOSUKE HIMURO“POSTSCRIPT” 第3章「decision」
※11 「BOOWY HUNT vol.1」 P28 PERSONAL INTERVIEW〔1981〕KYOSUKE HIMURO
※12 ROCKIN'ON JAPAN 1988年6月号 / インタビュー日1988年4月23日
※13 月刊カドカワ1991年4月号 「総力特集 氷室京介」本人自身による全作品解説「MORAL」P39
※14 ROCKIN'ON 1988年5月号 増刊 ROCKIN'ON JAPAN FILE Vol.2 P86/インタビュー日1988年4月23日
※15 PATi PATi 1988年4月号 P18
※16 宝島 1986年5月号 P139
※17 KING SWING 1989 WINTER P21
※18 PLAYER 1985年11月号 P251
※19 ARENA37℃ 2001年12月号増刊 ARENA37℃ SPECIAL vol.3 P34 初出:1986年2月号

※20 PLAYER 1986年3月号 P72
※21 PLAYER 1986年4月号 
※22 GB 1986年5月号 P76
※23 RockShow 1986年4月号 P109
※24 PLAYER 1986年5月号 P269
※25 PLAYER 1986年6月号 P243
※26 marie claire 1986年7月号 P63
※27 ROCKIN'ON 1988年3月号増刊 ROCKIN'ON JAPAN FILE 布袋寅泰インタビュー <初出:1986年12月発売の「ROCKIN'ON JAPAN vol.3」とあるが恐らく 誤りで、本当は「ROCKIN'ON JAPAN vol.2」だと思われる/ インタビュー日1986年10月28日>
※28 ROCKIN'ON 1987年3月号増刊 ROCKIN'ON JAPAN vol.3
※29 PLAYER 1987年6月号 P243
※30 ROCKIN'ON 1988年3月号増刊 ROCKIN'ON JAPAN FILE 氷室京介インタビュー P57 < 初出:ROCKIN'ON JAPAN vol.6(1987年8月発売) / インタビュー日1987年7月19日(「PSYCHOPATH」完パケ直後))>
※31 2016年1月18日 FM COCOLO J-POP LEGEMD FORUM/田家秀樹(ゲスト子安次郎)
※32 きくちPの音組ブログ「2006/07/29『僕らの音楽』第58回収録」
※33 宝島 1987年12月号 布袋寅泰 LONG INTERVIEW「ギタリストの栄光」 P32
※34  ROCK’N’ROLL 1992年8月号 パチ・パチ・ロックンロール第1期最終号 BOOWY SPECIAL P43 パチロク91年9月号vol.51より再収録
※35 ROCKIN'ON JAPAN 1991年4月号 vol.47 P41
※36 2016年1月25日放送 FM COCOLO J-POP LEGEMD FORUM/田家秀樹(ゲスト子安次郎)
※37 宝島 1990年4月24日号 P36
※38 「路傍の岩」/佐伯明 ロック・インタビュー&評論集 
※39 PLAYBOY 1990年2月号 P180
※40 With 1991年4月号 P10
※41 月刊カドカワ1991年4月号 「総力特集 氷室京介」本人自身による全作品解説「JUST A HERO」P42
※42 月刊カドカワ1991年4月号 「総力特集 氷室京介」本人自身による全作品解説「PSYCHOPATH」P45
※43 ROCKIN'ON JAPAN 1989年10月号 P28
※44 「週刊プレイボーイ」2021年6月21日号 P164 BOOWY結成40周年記念インタビュー 高橋まこと
※45 B-PASS 1991年9月号
※46 「秘密」布袋寅泰著
※47  PATi PATi 1986年12月号 P121
※48 KYOSUKE HIMURO 20h ANNIVERSARY TOUR 2008 JUST MOVIN'ON-MORAL~PRESENT- ツアーパンフレット
※49 「スコラ」 1994年6月9日号P182)
※50 「週刊プレイボーイ」 1999年8月3日号 P52
※51 PATiPATi 1986年10月号 P72 COPY by Yuichi Hirayama
※52 2007年6月9日放送 FM NAK5「 J-POP MAGAZINE 特別別冊増刊号 日本のロックspecial」
※53 ROCKIN'ON 1987年1月号増刊 ROCKIN'ON JAPAN Vol.2 P90
※54 ROCKIN'ON JAPAN 1992年11月号 P85

※チェックしきれてなくて、多分誤字もたくさんあると思いますが、見つけたらその都度訂正します。

※次に取り上げる解散諸説は、「山下久美子のツアーに布袋寅泰がBOOWYの4分の3を連れていこうとしたことが原因で解散」説の予定です。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?