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BOOWYにまつわる噂のエトセトラ Vol.14-① ~解散諸説(1)「1位になったら解散」説に対する私見①~

「BOOWY 解散理由」で検索すると上位に表示されるモノ。
真っ先に表示されたのは、BOOWY解散理由は「チャート1位で燃え尽きる時が来た」と布袋寅泰氏が明かしたという記事(※1)。
次いで、「BOOWYの伝説のドラマーが明かす『いまだから言える秘話』」という高橋まこと氏のインタビュー記事(※2)。こちらは「活動当初から『ナンバーワンになったら解散する』を目標に活動をしていた」バンドだとBOOWYを紹介している。
これらに限らず、BOOWYを「結成当初から1位になったら解散すると決めていたバンド」と説明するマスメディアの記事をよく見かける。
アルバム「BEAT EMOTION」で、さらにシングル「MARIONETTE」でもチャート1位を取ったことで、バンドの完成を自覚したというような具合に。「誰にも似てない」「どこにも属さない」と称されるBOOWYを象徴するようなエピソードとして。
これほど引き際が完璧なバンドはそうはいないと。

んー。後からなら何とでも言えるからなぁ。
検索上位にある布袋氏の発言は2019年のものだし、高橋氏の記事も2021年(奇しくも配信日・投稿日はどちらも6月4日)。
近年のメンバーの発言だけを理由にこれが解散理由だと決めつけるのはいかがなものか。
なので、この話が後出しジャンケン的な言い訳ではないのかを検証するために、本当に結成当初からメンバーがそのようなことを言っていたのかをまずは調べてみたい。

【状況整理】

BOOWYというバンドは1980年に氷室京介氏が布袋氏に「カッチョいいバンドやろうぜ」と声を掛けたことから始まったとされ、1981年結成。(※53)
1982年3月21日、「MORAL」でレコードデビュー。
1987年12月24日、渋谷公会堂にて7年に満たない活動にピリオドを打った。(1988年4月のLAST GIGSは早すぎる同窓会扱い。)

解散を言い出したのは布袋氏
布袋氏は1986年12月16日、「ROCK 'N ROLL CIRCUS」ツアーの長野市民会館公演後に、メンバーに解散を提言したという。(※3  P136)(※4 P138-139)(ただし、松井恒松氏は「布袋くんから『辞めたい』と話があった」と語っている(※5  P101))
そして1987年2月24日、「ROCK 'N ROLL CIRCUS」ツアー最終日の日本武道館公演後の話し合いで、解散が決定的となる。(※3 P137)(※4 P139-140)
つまり、「結成当初から」というのであれば、1980年~1982年頃にメンバーがそう言っていたのでなければ、この解散理由はとなる。

BOOWYが一般的にブレイクしたと言われるのは1986年2月の「わがままジュリエット」発売以降だろうか。メンバーも売れたのは最後の2年間くらいだったとよく話している。
1stアルバムから2ndアルバムの頃までは、BOOWYというバンドは、音楽雑誌では「PLAYER」や「ARENA37℃」にたまーに小さく取り上げられるぐらいで、ごく稀に音楽とは関係ない雑誌に載る程度。後追いの私が知る限りではあるが、この時代にがっつり紙面を使って特集したような記事はほぼない。ビーイング時代にライブレポ+インタビューで1~2ページみたいなものはあるにはあるが、ライブ写真がドーンとあって、レポといいかげんなインタビューが少々。
B-PASSやらパチ・パチやらパチロクやらの音楽雑誌がBOOWYを取り上げ始めたのは、ユイ音楽工房と契約して東芝EMIに移籍した後。1985年に発売された3rdアルバム「BOOWY」の頃から。
3rdアルバム発売の頃であれば、このようなインタビューがある。

- これから先、BOOWYの最終目標っていうのはどんな感じ?
布袋:それは危険な質問ですね(笑)。何て言うか、4人が4人でずっとやって行って、例えば武道館でやった、とか形に表れないとしても、気持ちがどんどん高まって行って「あ、これで到達したな」と思えるようなところまで行けたらっていうかさ…。
氷室:だから最終的な目標ってのはそれぞれが「もうこれ以上やることは無いな」的な、全然ネガティヴな意味じゃなく、すごく前向きな考え方としてね、「もう、俺達って、本当にやっちゃったねー」みたいな。そこまで行くのが最終目標だと思ってる。 (※6)

3rdアルバムの時点では、「自分達でやりきったと思えるところまで到達すること」を、布袋氏と氷室氏の両氏がBOOWYの最終目標として掲げている。だが、あくまでも目標で、到達したら解散とは言っていない。そして「1位になったら解散」とも言ってはいない。
では、もっと前なら「1位になったら解散する」と言っていたのだろうか。
しかし前述のように、1984年以前のBOOWYに関する資料は少なく、それを証明する手立てがほとんどない。
実際、BOOWYライターの一人である佐伯明氏は、BOOWYのLAST GIGS直後にこのような文章を書いている。

氷室京介、布袋寅泰、松井恒松、高橋まことの4人が最初に出会ったときから<解散>をクチにしていたかどうか――それは知らない。ただ、4人が集まったことがとても必然的で"コイツとやらなきゃオレたちの音楽は実現できない”とゆーよーな大ゲサな感じではなかったろう。
COPY BY AKIRA SAEKI(※7)


当時BOOWYへの密着が許されていたBOOWYライター(といっても佐伯氏がBOOWYを初めて観たのは「『INSTANT LOVE』が出て少したったくらいのLive inn」で4人全員と初めて会ったのは「わがままジュリエット」発売直後だそう)ですら、「彼らが最初に出会った時から解散を口にしていたかどうかは知らない」と言う。
いわんや一般人たる私をや。

さらに色々調べていく中で、このような記事を見つけた。

ちょうど「インスタント・ラヴ」がリリースされた直後、彼らにインタビューした時に、4人が異口同音に言ってたことを思い出す。
「俺たちの夢は日本一になることとか、武道館でやることとか、そんな具体的な形じゃない。もちろんそういう事も含まれるけど、俺達はBOOWYというバンドで、やれるだけのことをやりたい。やれるだけのことをやったら、その瞬間にでもBOOWYは解散すると思うよ」(※9)


この記事を書いたライターは、BOOWYの2ndアルバムリリース時には4人が異口同音に「BOOWYでやれるだけのことをやったら解散する」と言っていたと書いている。
また、このライターは、同時期に別の雑誌にも似た趣旨の記事を書いている。
「まだ彼らが無名のバンドとして様々なイベントに出演し、他のバンドが目当てで来た観客にBOOWYという名前を焼き付けた」頃の話として。

この記事の初出は「ROCK’N’ROLL 1988年3月号」。つまり、1224の解散宣言直後に書かれた記事。
「メンバーが言っていた」とは書かれているが、発言当時(2ndアルバムの頃)の記事にこのような趣旨の発言は見当たらない。私が探し出せなかっただけかもしれないが、これらも後出しジャンケン――解散が決まった後に辻褄が合うよう後付けで創作したのではないかという疑いも捨てきれない。
とはいえ、「4人でやれるだけのことをやったら解散」というのは、3rdアルバム発売時点での布袋氏と氷室氏両氏の「4人でこれ以上やることはないところまで到達することが最終目標」との言葉とも矛盾してはいない
ついでに近年(といっても2013年だが)のインタビューでも、氷室氏は「バンドがもう機が熟してましたよね。BOOWYに関しては。やり尽くしたってことですよね。与えられた仲間達の中で、一緒にできることをやり尽くしたって感じですかね。」と語っており(※10)、この氷室氏の発言とも合致している。ならば、信憑性が全くないとは言えないかもしれない。
但し、あくまでも目標は「4人でやれることをやりきること」すなわち「4人でやれる最高点まで到達すること」であって、目標を達成して付随する結果が「解散」。

つまり、少なくとも3rdアルバムの頃までは「1位になったら解散」ではないのだ。実際、「日本一になることが俺たちの夢ではない」と言っていたと書かれてもいる。

「1位になること」と「自分たちでできる最高点まで到達すること」は同じではない。
頂点を極めるという意味ではどちらも同じ。
しかし「1位」は何かしらの客観的指標・基準があり、それに従って他者と優劣を競った結果1位になるということ。他方「自分たちでできる最高点」というのはもっと精神的・内面的なもの。誰かがこれが最高と言ってもメンバーがそう思わなければ最高点ではないし、逆に誰かが評価しなくともメンバー自身が最高だと思えばそれが最高点。メンバーの主観によるもの。この差は大きい。

BOOWYというバンドは4人中3人が(6人時代は6人中5人が)群馬出身。氷室氏と松井氏は幼なじみだったが、布袋氏は2人の1学年下で、多少の交流はあった程度で大して親しくはなかったそうだ。
実際、氷室氏は布袋氏を誘った理由を「他にギタリストの知り合いがいなかったから。それだけのこと」と語っていた。(※11)
布袋氏も「別にひっかかってたっていうよりも、東京出て来てさ、そんなにすぐに知り合いが出来ないし、ヒムロックもそんなに人に『ネエ、ネエ、ネエ』って言うタイプでもないし、だからすごい軽い気持ちだったんじゃないかな」「ヒムロックに聞かないとわかんないけど、まあ、俺じゃなきゃダメだっていう気持ちじゃなかったのは確かだと思う」(※12 P14)と話していた。(近年のインタビューでは、「自分がきっと氷室氏の中できっと何かひっかかる存在だったから電話してきたのではないか」に変わっているが…。)

そして故郷の1学年上のおっかない(と布袋氏は思っていたそうな)先輩である氷室氏に突然電話で呼び出されて(諸説あり)、何言われるんだろうと布袋氏がコワゴワ会いに行ったら、意外にもバンド結成のお誘い。
氷室氏が当時好きな音楽などの話を聞いて、「あ、面白そうな奴だな」「会ったらすごい勉強家だし真面目な奴で、へぇーって意外で」(※12 P14)、だったら一緒にやってもいいかと思って「軽い気持ち」で布袋氏が氷室氏の誘いに乗ったのがBOOWYの始まり
布袋氏は後にAUTO-MODやTHE PETSにも参加しているが、これらのバンドに参加した時と大して変わらないような気軽な感じでBOOWYにも加わったのではないか、と私は思っている。
佐伯氏が書いたとおり、「"コイツとやらなきゃオレたちの音楽は実現できない”とゆーよーな大ゲサな感じではなかった」ことが、本人の発言などからも垣間見えよう。

氷室氏は、自分のバンドを作ろうと思った理由について、後にこう振り返っている。

自分たちがほんとにやりたいことをさ、策略ぬきでレコード作って、みんなにアプローチをかけられるバンドを作りたかった。誰恥ずることなく表現できるバンドをね。(※11)

俺はBOOWYの結成直前にやってたバンドでいろいろすったもんだあって、とにかくそこから逃げ出したい一心で布袋(寅泰)のところに電話をして始めたバンドだったから、目算とかがぜんぜんない。とにかく自分の好きな音楽を、お金が入ってくるとかこないとかの次元じゃなくてやり続けていきたいなってところで組んだバンドだから。(※13)

布袋氏も氷室氏が自分に声を掛けてきた理由をこう推測している。

別にレコード出してどうのこうのっていうんじゃなくて、僕にとっても、ヒムロックにとってみても……ヒムロックはだから、別に前、挫折したからって『見返してやりたい』って気持ちではなくて、また高校の時みたいに楽しくやりたいんだって気持ちが強かったんだと思うんだ、きっと。だから、すごい、ほんとに高校生に戻ったようにリハーサルをやったりとか。(※12 P11)

そして、バンドを結成したばかりの氷室氏を布袋氏はこう評していた。

意気込むって言うよりはすげぇ嬉しかったんじゃないかな。そういう自分のやりたいことができるってことだけで満足だったんじゃないかな。(※14 P86)

元々BOOWYは、やりたくもない音楽をやらざるを得ず鬱屈していた氷室氏が現状を打破し、売れる・売れないとかは関係なしに、自分の本当にやりたい音楽を実現するために作ったバンド。
氷室氏に声を掛けられる前の布袋氏は、高校中退後にアマバンコンテストの審査員の社交辞令を真に受け上京するも、全く認められず、ろくな音楽活動もできずに彼女のヒモのような生活をしていた。
当時氷室氏が好んで聴いていた音楽が、布袋氏が好きな音楽の一部とたまたま合致したから、布袋氏がバンドに加わり、同郷の知り合いなどに声を掛けていってBOOWYとなった。
氷室氏のBOOWY結成の決意に鑑みるに、「1位になったら解散」を結成当初から掲げていたというのは違和感がある。布袋氏もそんな将来のビジョンなどを持って加入したというよりは、「成り行き」や「特に他にやりたいこともないから、まあいいか」的な気持ちで加わったように見える。

チャート1位獲得を知らせてもメンバーはとてもクールな反応だったとスタッフは語っていた。だが、本当に結成当初から「1位になったら解散」を目指していたのであれば、この反応は不自然。むしろ、3rdアルバム発売の頃に氷室・布袋の両氏が言っていたように、また、「INSTANT LOVE発売直後にメンバーが言っていた」とのライターの証言どおりに、「BOOWYでやりきれるだけのことをやる(このメンバーでできる最高点まで到達する)」が目標で、もしそれが達成できたのであれば解散しても構わないというスタンスであった方が納得できる。
海のものとも山のものともつかぬ時代の話なので、どちらかというと夢物語的なものであっただろうけれども。
そして多分に"格好付け”も入っていただろうけれども。

では、何故「チャートで1位を取ったのが解散理由だ」に変わったのか。
解散後、1988年2月9日に行なわれた音楽雑誌4誌の合同インタビューで氷室氏が語ったことが、その答えの一つと言えるだろう。
その時のインタビューの一部を、少々長いが引用させていただく。

- ずいぶん以前から、BOOWYというバンドは「これが自分たちが創りうる完成品だと自覚できたらバンドは終わりにするだろう」といった発言をしていましたよね?
氷室「そう、そうですね」
- で、実際に氷室さんの中でそういう自覚のような感触が芽生えたのはいつ頃だったんですか。
氷室「それはね、1年半くらい前かな。長い間音楽をやって行くうちに、当然それぞれのメンバーがチャンネルや許容量みたいなのを増やしていくよね。で、バンドっていうのはそれぞれがキャラクターを前面に打ち出しながら一つの作品を創っていくわけでしょう。それが少しツラくなり始めたかなって、少し意識し出したのが…俺に関して言えば1年半くらい前だったと思う」
- ほかのメンバーもその時期に同じような意識を持ちはじめたのでしょうか?
氷室「正確にほかのメンバーの意識まで俺にはわからない。でもその頃みんなで話したことは「『JUST A HERO』で音楽的な意味でのBOOWYの完成形はできたね」ってことだった。自分たちに創りうる最高の音楽はひとつ完成させたなっていう。
ただ、社会の評価っていうか――うーん、何かこういう言い方はヘンに聞こえるかもしれないけど――ここまで来たんじゃないか、だったら俺たち流のやり方で一番目指してみようよって。レコード・セールスももちろん含めてね「一番になる」っていうのをやってみようかという話を、実際にメンバー同士でしたんだ」
― 「JUST A HERO」で完成させた音楽の頂点とはまた違った、別の頂点を狙ってみよう、という?
氷室「音楽性うんぬんとはあまり関係ない部分でだよね。そう受け取られてもかまわないよ。ただ、じゃあ売るためだけの音楽をやろうって話になったのかっていうと、絶対にそれも違うんだ。どんな音楽をやっても流通機構を通って、プロモーションされてみんなの所に届くわけだし。
だから、プロでバンドを始めた以上のケジメとでもいうか。自分たちの中では本当はもうとっくに"最高のバンド、バンドの完成品"っていうのはできてたのかもしれないけど、今度はそれを具体的にどうすれば人に伝わり・広がっていくかって部分をね、ちゃんとやってみようという感じだったんだ。
ミーハーなヤツって思われるかもしれないけど、とにかく一番取りたかったの。日本で一番取りたいなって。(笑)。
それをBOOWYというバンドのケジメとしてやってみようと。で、やれるところまでやってみて、あとは一人ひとりが自分の許容量を増やして、それをそれぞれが表現していこうっていうね」
- じゃあ、はっきり言ってしまうと、「JUST A HERO」以降は<セールス>を第一に進めてきたと解釈していいんですか。
氷室「いや、セールスを第一ということでもないんだよね。確かにセールスという点をかなり念頭においたけどね。
とにかく、それまではホント“売れる”とか、そういうことは全く無縁なところでやってきてたからね。だから…やっぱり"一番を取る"って感覚の方かな。たとえばコンサートのMCで”みんなのおかげでベストテンの1位になれました”っていろんな場所で言ったよね。それは本当に嬉しいことだったからね。それもさ「マリオネット」みたいなシングルが1位になったから。BOOWYが1位を取るなら、あれじゃなきゃダメだったの。「季節が君だけを変える」じゃいけなかったんだ。それがなぜなのかは俺は説明しないけど。みんなに想像してもらうことにして。で、シングルもアルバムも1位になったし完全にBOOWYとしてのケジメがついた。じゃあ渋公を最後にしようってことだよね」(※15) 


BOOWYは元々自分たちに創りうる最高の音楽を完成させたら解散してもいいと言い続けていた。
そして「JUST A HERO」で、メンバーが思う音楽的な意味でのBOOWYの完成形はできた。
しかし「JUST A HERO」は、チャート的には1位を取れていない。
ならばプロとして名実ともに1番を取るために、自分たちのやり方で1位を目指した。
その結果、アルバム「BEAT EMOTION」と「PSYCHOPATH」で、シングル「Marionette」で1位を取ることができた。
これでBOOWYとしてケジメがついたから、クリスマスイブの渋谷公会堂公演をもって解散とする。

氷室氏の話は、一見、筋が通っているようにも見える。
この説明に引っかかりを覚えるのは、多分私の性格が悪いから。 (笑)

人生を振り返ってみたときに、何にせよピーク(頂点)は存在する。何かに一生懸命打ち込んでいた時、そういう経験がなければ気力や体力、情熱でもなんでもいい。後から考えると、「ああ、この時がピークだったな」と思う「時」が必ず存在する。
そう、「後から振り返ってみたとき」に、だ。
実際にピークにいる時はそんなことは考えない。「もっとできるはず」「もっとやれるはず」「もっともっと」と更に高みを目指すもの。
実際氷室氏は、「JUST A HERO」ツアーが始まって間もない頃に発売された雑誌のインタビューでこう語っている。

ただ1つ、間違えちゃいけないのはこれは俺達がやろうと思ってた「JUST A HERO」の完成形であって、決してBOOWYの最終形じゃないんだよね。(※23)

音楽が好きで楽しいからやってるんだよ。俺達は新しいアルバムが出来た時点でもう次のアルバムのこと考えてるから、次の事を考えられなくなったアルバムが出たら次は解散しかないわけ。今解散しないのは次にやりたい事があるから。それの繰り返しだよね。(※16)


音楽的な意味でBOOWYの完成形となったと語られる「JUST A HERO」。
少なくとも氷室氏は、「JUST A HERO」はあくまでもその時点での自分達が作りうる最高の形にすぎず、BOOWYとしての最終形ではない断言している。
そして、このアルバムが出た時点では、まだその次のアルバムのことを考えている。
さらに、「BEAT EMOTION」発売時のインタビューにおいても、「この4人でならまだまだいろんな事にトライできると思ってる」という発言が残っている。(※47)
つまり、この頃から1224までの間に、このアルバムが4人で作る音楽の最高点だと思うようなこと、裏を返せば、この4人ではもう「JUST A HERO」以上の作品は作れない、と思うような「何か」があったのではないか。そして、そんな状態でダラダラBOOWYを続けていくよりは潔くスパッと解散させた方がマシだと判断して「解散」を選んだのではないか。

「BOOWYでできる最高点まで到達したから解散」は多分ではない。
「チャートで1位を取ったら解散」というのも恐らく間違いではない。
でもそれだけが「解散の理由」ではないと思うのだ。ではないが真実でもないと。
「JUST A HERO」から1224までにBOOWYに何があったか
それを考えていくために、まずは、メンバー自身が「BOOWYの最終目標」を最初に語っている3rdアルバム「BOOWY」から、BOOWYが名実ともに活動を終えた「LAST GIGS」までの間を、メンバー達の当時の発言を確認しつつ、時系列で振り返ってみたい。

解散諸説(1)「1位になったら解散」説に対する私見②【年表】に続く。

※「出典・参考資料」は「解散諸説(1)『1位になったら解散』説に対する私見③」の最後にまとめて掲載する。



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