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草津温泉と栗生楽泉園・重監房

これは草津温泉の時間湯と、ハンセン病患者の栗生楽泉園、およびベルツ博士についての下書き。詳細資料は、後日の補足とする。まとめ方は未定。

草津温泉の大火

草津温泉には、冬住みという習慣が、万座温泉と共にあった。これは高原の厳しい冬の期間、湯治客も少なく、経営の問題もあったのだと思う。
草津温泉は10月8日から、翌年の4月8日まで。万座温泉は12月から、翌年の4月末まで。この冬住みが行われなくなったのが、明治30年からで、万座温泉の村民が共同で使用してた宿を、山田温泉の中沢たつという人が買い取り、常盤旅館としてはじめてから。時を同じくして、草津温泉も同明治30年から通年経営をはじめた。(要略)

参考図書『上州の温泉』みやま文庫

草津温泉は、幕末頃までは各地の大名や湯治遊山の客で、大いに繁盛していた。幕末の政情不安の頃から次第に客足は減り、衰退をはじめた。とはいえ、慶応元年(1865)頃には「時間湯」という独特な入浴法は出来ていたとの記録もあり、各地から病気療養の客は絶えなかったようだ。

この頃の湯畑周辺は、草津温泉草創期からの支配層(大家)、特に十一軒が力を持っていた。その中でも山本十右衛門と湯本三家が中心だった。

明治2年、冬住みが終わり、開業の準備中に出火し、地蔵の湯周辺を除き、全集落を焼き尽くすという大災害を被った。この火災により、再建の借り入れが多額になり、湯畑一帯の土地を有していた山本十一郎は、中心的大家の地位から退き、土地と宿を手放すことになった。

江戸時代から続く有力者の支配構造が大きく変化して、経営の世代交代が起きた。再建された草津温泉は、大きな湯畑を中心に、三層構造の木造船枻(せがい)造り建築が並び、後にここを訪れたベルツ博士を驚かせた。

大火後の時間湯

明治13年、新潟県出身の野島小八郎が初代湯長として、熱の湯で「時間湯」をはじめた。それ以前にも、既に江戸後期から時間湯の原型は出来ていて、共同湯には湯長がいたといわれてる。

草津温泉の泉質は強酸性泉で、しかもかなりの高温のために、一人の管理者のもと一斉に入浴して安全を保っていた。湯長制度の管理下では、入浴前に健康状態などをチェックし、入浴中の事故は起きていなかった。
2019年5月の黒岩信忠草津町町長の、健康状態を事前に聞くという行為は、問診にあたり医師法違反であり、時間湯を廃止するとの意向を受けて、2020年3月をもって幕末頃に完成した時間湯は完全に廃止された。

草津温泉の効能を充分に活かすための時間湯が、特に皮膚疾患に効果があることが広まり、多くの湯治客が集まり、しだいに草津温泉は活況が出てきた。明治30年から通年営業になり、多くの湯治客が集まる中、明治政府からの要請を受けたドイツのベルツ博士も訪れた。

ベルツ博士は、温泉の湧き出る湯畑の様子と、それを取り囲むように建てられた伝統的三層構造の木造船枻造りの湯宿を見て、大変に感動したようだ。高山地帯の空気と美味しい水と、湯畑周辺の景観と、何よりも時間湯に大勢が入り、皮膚疾患に効果があることを知り、大いに医学的な興味も持ったようだ。

この頃は各地のハンセン病患者や、様々な皮膚疾患や病気や怪我の療養で、この時間湯の救いを求めて湯治客が集まってきてた。1週間から10日間の時間湯で、大きな効果を知り、ドイツの友人にも手紙を書き、草津温泉の名を世界に広めることになった。

ハンセン病患者の住宅

しだいに客が集まると、後遺症の見た目から、ハンセン病患者との入浴は嫌がられることになってきた。まだ日本では感染症という認識はなく、遺伝病と思われたようで、宿も時間湯も一緒だったようだ。感染症といっても感染力は弱く、この時期に感染したということは起きていなかった。

ベルツ博士も、完治しないまでも効果は有るとして、広大な土地を私費で購入して、療養所を作ることを計画した。草津と共に箱根も考えていたようだが、箱根は土地購入と湯口権の関係から断念した。草津でも反対運動が起きて、以後ベルツ博士は草津から離れた。経営者の世代交代で、博士に対して招聘の要請をしたが、叶うこと無く帰国した。

時間湯で湯治客が増加し、ハンセン病患者に対する風当たりが強くなり、湯治客として宿泊しにくくなった。やがて湯ノ沢地区(現大滝の湯辺り)に自費で家を建てて、一つの部落を形成することになった。同じ湯ノ沢地区でも、下湯ノ沢地区として分離され、健常者は上湯ノ沢地区と住み分けがされた。

明治40年(1907)に「癩予防に関する件」が制定され、感染症としての癩予防から、放浪患者を1ヶ所に隔離するようにした。実際にはわずかなようだった。長く遺伝病と思われていたので、発症すると周囲に分からないように患者は放浪してたようだ。大正9年(1920)にはさらに強権的な、懲戒検束権が付与され、各地の収容所に強制隔離されるようになった。

昭和7年(1930)に、下湯ノ沢地区から数キロ離れた所に栗生楽泉園が出来た。ここへの移転が進められ、昭和16年に湯ノ沢部落は解散させられ、翌昭和17年には全移転が完了した。

栗生楽泉園の重監房

栗生楽泉園は、各地の癩病患者療養所(隔離施設)の中で、反抗的な者に対して、懲罰として隔離される独居房施設の、重監房が併設された。昭和13年(1938)から昭和22年(1947)までの9年間だが、相当な人権無視の待遇だったようだ。

9年間に全国から93人が反抗的として収監され、23人が亡くなった。夏の暑い季節も、高山の雪の季節も、一切の空調設備もなく、狭い窓の開いた部屋に閉じ込められていた。食事はおにぎり1個分と梅干し1個、それを1日に2食だけ。その食事や管理は、栗生楽泉園の人達に管理させていた。身体的不自由さと、国からの金で生活してるという偏見から、生活状況は相当に困窮を極めていたようだ。その中での重監房の管理運営は負担であったと思う。

関喜平氏と栗生楽泉園・重監房

1950(昭和 25)年 1 月 16 日深夜から 17 日未 明にかけて、栗生楽泉園で、入所者同士の対立から 3 名の入所者が殺害されるという事件が起きた。 被害者は園内で暴力をほしいままにしていたとされるグループで、それへの反発がこのような事態 116 第四 1953 年の「らい予防法」 を招いたのであった。さらに、被害者のひとりが韓国・朝鮮人であり、また、殺害に加わったとさ れる被疑者 14 名も韓国・朝鮮人入所者の文化団体である協親会の会員であった。この事件は、ハン セン病対策に 2 つの影響を与えた。1 つは「癩刑務所」設置の必要性をより強めたこと、もう 1 つ は在日韓国・朝鮮人患者への取締りの必要性を強めたことである。

癩予防法:https://www.mhlw.go.jp/topics/bukyoku/kenkou/hansen/kanren/dl/4a15c.pdf

昭和25年に起きた殺人事件が、新聞記者の関喜平氏により、広く知られるようになった。氏の取材は単に事件だけではなく、重監房施設を世に知らしめることになった。

補足すべき要点

詳細事項は以後資料を探して補足する。削除することも検討。

調べること、第1に下湯ノ沢地区への移住に、草津温泉関係者の思いは。第2に、下湯ノ沢地区はハンセン病患者が療養のために、個人住宅として建てた物だが、栗生楽泉園への移住は強制的であったのか。家は買い取られたのか。部落解散まで、問題は起きなかったのか。遺伝病ではなく、ハンセン病は感染症であるという認識から、強い隔離が行われたそうだ。

現在も年間に数名の発症があるが、現在は発症初期の治療で完治できるようになった。現在も全国に13ヶ所の療養施設があり、運用されてる。療養施設から寛解して、退所して社会復帰もしてるようだ。

ハンセン病だけではなく、ベルツ博士は湯畑以上の強酸性泉を発見して、治療にも使えるかを研究し、治療のために販売も考えていたようだ。その詳細な内容と、博士に対する草津温泉関係者の対応も調べたい。温泉は、ホテル一井が所有管理してる、香草源泉ではないかと思うが。香草源泉は、戦前は一井旅館の姉妹館として、香草旅館として経営してたようだ:不正確、資料大いに不足す。

参考

日本温泉地域資産:日本温泉地域学会編、2008年
上州の温泉:みやま文庫、昭和39年
草津温泉誌第二巻:草津町誌編さん委員会編、1976年
温泉大鑑:日本温泉協会編、昭和10年
温泉案内:鐵道省、昭和16年
新版日本の温泉地:山村順次著、平成10年
ベルツ博士と草津:ベルツ記念館(道の駅 草津運動茶屋公園)

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