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老人の医療費の話題

ちょっと高齢者医療費についての話題を小耳に挟んだ。日本経済の足を引っ張ってるのは、必要以上に老人に対しての医療費を掛けすぎてる、高齢者福祉こそが経済悪化の原因だ。というようなことだ。

TVに出てるある社会学者は、老人は自決せよ、などとマスコミ受けするような事を言ってた。自決の覚悟は無いが、子ども達、とくに何かと面倒を掛けてる娘には「尊厳死の宣言書」を書いて渡してある。

「尊厳死の宣言書」は、自然死と尊厳死を患者本人の希望として書いたものだ。内容は病気や怪我の治療で、必要以上の治療はしないことで、一応はどの程度までで治療は止めるかを書いた。遺言書と共に二通書いて、自覚できなくなった時の用意として娘に一通、それと「担当医 様」として尊厳死と自然死の希望と、治療に関して書いた。

これは何気なく胸の痛みで診察を受け、即心臓専門の大病院に入院になり、カテーテル治療を受けた事で、そろそろと思って用意したものだ。


老人医療費が掛かるのは、本人の希望と言うよりも医療者側と家族の倫理観の問題が大きいと思う。それと、老人医療費が経済悪化の要因だと思わない。どこかの部門に多額の金が動けば、その部門の裾野尾に流れていくものだ。

老人医療費がかさめば、それはドブに捨てる様なものではなく、表現が古かったかな、医療関係者の給与という形で経済に還元されていく。また新薬の開発などにも使われる。

患者側から見れば、元気に病院通いをしてるのは老人同士の社交の場でもある。家で痛いとか苦しいとか言ってるよりも、よほど健康的だ。高齢者に対する高度医療は、決して本人が望んでるものとは思えない。親の苦しむ姿を見て、家族の者が治療を受けさせるのは当然の事だろう。医療関係者として、苦しむ者に対して治らないからと何もしないということもできないだろう。

元気に病院通いや入退院を繰り返していても、それが「心の治療薬」として効いて、家族や友人と楽しく残り時間が過ごせれば、そういう福祉の姿を見せることは、社会生活の安定にもなる。

「尊厳死の宣言書」を書いたのは、口が利けなくなった場合や、自分人が望まない高度医療に入ってしまった場合、どの時点で医療の停止をするか、それを患者としての自分で決めておきたかったからだ。

高齢の入院患者を何度か見て、誰もがチューブだらけになって、口も利けなくなり、強引に生かされているのを知った。医療関係者も家族も、医療費以上に苦しむ姿を見てるのは辛いことだ。でもそれを止めさせられない。医療技術で生かされていれば、治療停止は「死」であり、医療関係者は殺人と考えてしまう。家族も家族も停止は望まないし、見てるのが辛いから入院させてしまう。

本来は在宅で、家族に見守られながら、家族の一員として最期まで一緒に暮らしたいというのが希望だろう。家族も、特に小さな子どもにも、死んでいく姿を見せることは、生きるという意味を考えることにも繋がる。


もう一つの大きな問題として、老人は生きるに値しない、不生産の人間は社会にとって不要であるという、経済活動従事者からの、現役世代で就職できてる人達の、一種のパターナリズムの推奨にもなりかねない。

あえて言えば、不治の病、各種の障害者、働けなくなった老人、社会に対しての不適合者などには、経済的負担は負うなということにもなりかねない。これらは経済の停滞や社会不安にも繋がると思う。

朝から力説することでも無いが・・・、また夜中に起きてしまって、何となくそのようなことを感じたのだが。


年金が出るとパチンコ屋に集まる年寄りも多い。とかく批判をする人もいるが、全くムダでは無い。パチンコ依存症で土地家屋を失い、栄養失調から認知症になったのもいる。親からの莫大な遺産を注ぎ込み、数年でどこかに消えたのもいた。妻の両親も依存症で、家族だけでは無く、義父母の親族や近所の人達にも多くの迷惑を掛けた。それもムダとは思えない。

数軒のパチンコ店に注ぎ込んだ数千万円は、その店の従業員の給与となり、社会に還元された。一部は別の使い方もされたそうだが、この世から全く消えて無くなったわけでもない。その姿や数字として残っていれば、どこかで経済活動の一部として使われているだろう。

今はたしかに日本経済は停滞してる。時間が有るが余裕が無い、などというマスコミなどに洗脳され、見るもの聞くもの、何に付け話題は悪意ある冗多に走るのだろう。

なんてね、知らんけど。

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