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少し大人の、想い出ダラダラ

朝の爽やかな散歩なのに・・・
明るい JAZZ を聞きながら歩こうと思った。
空は快晴で、ピリッとした冷たい風が弱々しく吹いてる、気持ちの良い朝だった。

映画「スウィングガール」を見て以来、JAZZ の好みが変わってしまい「Swing Swing Swing」や「ムーンライト・セレナーデ」などを聞くことが多かった。あの明るさと可愛らしさが、どうしても一人の先輩を思い出させるので。冷たい風の中、スイングガールのような明るくて元気な人で、いつもボーッとしてると、とつぜん後ろから背中を叩かれ元気づけられた。

WALKMANで選曲ミスをしてしまい、Diana Krall のアルバムを聴いた。ダウンロードした時に、数回聴いただけだった。そして何曲か目に「Almost Blue」が流れた。

1970年頃、少し・・・その数年前からかなり騒がしくなってきた。それとは関係ない世界で、とても大切な人が僕に断りもなく、何も言い遺さずに向こうに逝ってしまった。その頃の記憶があやふやで、僕に大きな影響を与えた大叔父も、ほぼ同じ頃、前後して亡くなった。

何も考えられなくなっていたところ、ただ誘われるままに、大したこともないような会社の2代目の集まり、バーバリーのコートを愛する連中と付き合い始めた。飲むと世界情勢とか経済問題とか、ずいぶんと生意気なことを論じ合っていた。その内容たるや、まともに話すのも面倒になるほど、如何にも論説家の受け売りで、毎回辟易とした思いで静かに抜け出していた。

一人、バーバリーのコートなど着ずに、出来たばかりの渋谷パルコで買った、薄茶のコールテンに濃茶の皮のエルボーパッチを付けた、想い出の大事なブレザーを着ていた。付け焼き刃のバーバリーが、「継ぎ当て」などと言っていた。

しだいにバーバリーの連中とは距離を置くようになり、別の飲み友達が出来た。バーバリーがバカにしていた、金の卵が故郷にも帰れず、この辺に引っかかったと言ってた連中もいた。「金の卵」ともてはやされ、東京で苦労してきた同じ年頃の連中とは、何となく相性が良かったようだ。


雨の夜は人の出も少なくなり、40歳を少し超えたくらいのママ一人の、小さなスナックに行く。雨が降ると、数軒並んだ狭い路地の、一番どん詰まりのスナックまで来る者は少なかった。静かな、スローな JAZZ を聞きながらウイスキーを飲むのが好きだった。

秋に入りかけた寒い日、数人で出かける約束をしていたのに、午後から雨が強くなり、あの路地の前で待っていたが、誰も来なかった。

ドアノブに手を伸ばしたら、とつぜん外の看板の灯りが消えた。
「あぁ・・・どうしたの」
「どうしたのって、開けようとしたら灯りが消えて」
ドアを開けて、ママも驚いたようだった。
「とにかく寒いから、中に入りなさいよ」
ママは灯りの消えた看板を中に入れながら、温かい店の中に促した。

カウンター内に入って、いつもの岸洋子のLPレコード掛けてから、
「何にする、いつもの。ロックは少し冷えるでしょ」
黙ってると、
「たまには私の故郷の焼酎はどう。お湯割よ」
「じゃあ、まかせる」

アルコールに弱くて、それでもロックにしていたのは、グイグイ飲まなくても良く、時間が経てば薄くなるからだ。焼酎など飲んだこともなく、お湯割と言ってもかなり強かった。何となくクセもあり、飲みにくかった。

「本当は、お酒は苦手でしょ。食べながらユックリ飲みなさいよ」
少し大きなコップで、口に近づけると湯気のアルコールでむせる。
「これから別のお店に行くの」
「いや、ここで飲んだらもう帰る。JAZZ が聴きたくて・・・」

「明日からチョット出かけるので、これ残っちゃう。良かったら一緒に夕飯をたべていかない」
JAZZ のレコード盤に替えて、返事も聞かずに下を向いたまま料理を始めた。
次から次へと料理を作っては出し、その合間に、今度は薄い焼酎のお茶割を作り、僕のと交換して飲み始めた。
どうしたのか、そういう行為が何となく嬉しくて、つい微笑んでしまった。
「間接キスだね」
「良いじゃないの。わたし、あなたのこと、好きよ。好きだからキス」
そう言って乾杯のしぐさをして、また飲みながら笑った。

明日から出かける。その言葉が気になったが、聞けなかった。ママの亭主は刑務所で、刑期が7年残ってると聞いていた。出入りがあって、何人か殺ったらしいとも聞いてる。ママは月に1回、別荘に面接に行ってるという噂もあった。

訳知りらしい者の言うには、亭主は20歳以上も年上で、ママが若いときに強引に犯されたとか、親を脅してまだ若かった娘を奪い自分の女にしたとか言っていた。もっとも酷いのは、他の男に取られないようにアソコと背中に入れ墨をした、などというのもあった。

あまり話をしない人で、静かに微笑んでいるだけで、様々な憶測が生まれたようだ。明日から出かけるというのは、本当に刑務所に行くのか、別の用事なのか、関係ないことなのに気になった。

ママも少し酔いが回ったらしく、普段にない饒舌になった。それでも自分の生活のことは何も言わない。本当に結婚をしてるのかさえ、誰も知らなかった。

「ねえ、ダンス、踊れる」
「まさかルンバとかチャチャチャじゃないよね」
「チークよ」
「少しふるい曲だけど、こういうのが好きよ」
レコード盤を替えて、ニッコリとこちらを向いた。
目がいつもと違い、トロンとしてた。
「踊りの前にタクシーを呼んでおくね。雨では遅くなるから」
電話口で少し考え込むような顔をしてから、いつものタクシー会社に電話した。

チークダンスは不思議なもので、ママは背が高く肉感的で、身体を密着させると胸と胸が合わさり、互いの心臓の鼓動までも伝わるようだった。

「聞いても良いかなあ。初めてここに来たときから、何となく寂しそうな顔をしてたね。何かあったの」
同じ年頃の女性とは違う、言葉に優しさと温かさを感じた。胸の柔らかく大きな膨らみが、母性のような温もりで伝わってきた。しだいに1年前の出来事やら、会社経営の2代目連中とは合わないことや、自分の性格は会社の経営には向いてないことなど、誰にも話せないことをプツプツと呟いていた。

感情が高まり、強く抱き寄せたら、ママも顔を肩に寄せてきた。
「あなた、女性に対する耐性というより、女の子のような優しさがあるのね」
「ああ、僕は身体が弱くて、女の子ばかりの中で育てられたからね」
しだいに、互いに黙り続け、ただ密着した肌の温もりだけが気持ちよかった。
何曲か目かが終わり、間奏のわずかの間に、背に回してたママの手が僕の頭の後ろに回った。そして1曲分くらいの時間、身動きもせず、ただ抱き合っていた。

「やまとタクシーです」
声と共にドアを開こうとする音が聞こえて我に返った。
「あ、はい。いま開けるね」
僕の顔を恥ずかしそうに見て、紅が付いてたらしく、唇をサッと拭いて、ドアに向かった。
「今夜は雨だからもう閉めたの」
「今夜はごめんね。また来てね」

何も無いのに、妙な後ろめたさで、1ヶ月が過ぎてから友人達とママの店に行った。
「あら、お久しぶりね。向こうが空いてるわよ」
あの日のことなど、もうすっかり忘れたように、いつもと変わらない静かな応対ぶりだった。
目線さえ向けない、それが、何となく目に見えない何か、壁のようなものが出来たように感じた。それとも、あの時のことはただの戯れ事だったのか。


そんな、映画のような甘い日々は、アメリカの金本位制の廃止と対ドル変動相場制へ移行したことで、一瞬のうちに消えた。このニクソンショックと、続く中東の局地戦争によるオイルショックで、日本経済の順調な伸びは消えた。

バーバリー組をバカにしていた、一代で数百人規模の工場を建てた人が、孫まで引き連れての自死を選んだ。
バーバリーの会長も、半年の苦戦の後、姿を消した。副会長は工場を閉鎖し、一家離散となった。
僕は弟が東京から戻ったら全部を任せて、あらためて神道を学び、神社勤めが夢だった。すでに大手ゼネコンに就職していた弟は、そのまま勤めることになり、父と家業の経営に付くことになった。

輸出に頼っていた日本経済は、急激な円高と石油の高騰、くわえて貿易黒字に対するアメリカの政策転換とベトナム戦争の後遺症もあり、先の見えない状況となった。
化石燃料に頼っていた発電は、電気代の高騰に繋がった。電気だけではなく、ガソリン・灯油・重油が上がり、物の価格はアッという間に倍にもなった。気付けば2年間も仕事がなく、従業員が遊んでる日が続いた。

何となく落ち着いてきたのは、10年くらい経った頃だろう。
多くの工場や商店が廃業し、縮小されながらも少しずつ動き始めた。
雨の夜に、久し振りに出かけたら、あの居酒屋やスナックの路地が消えていた。他にも多くの、小さな部屋を改築したような居酒屋が、ほとんど廃業していた。
ママの亭主は7年の懲役が残ってるとの噂だったが、本当に亭主がいるなら出所してる頃で、幸せかどうかは分からないが、何とか暮らしていけるだろう。もし独身であったら・・・、そうは考えないようにした。

更に数年して、今度は狂ったようなバブル期に入った。何もモノが無いのに、金だけが膨らみ激しく動いた。

フッと思うときがある。
あの時にタクシーが来なければ・・・
もしおかしな関係に進んでいたら・・・
あの大不況が来なかったなら・・・

それ以前に、あの大切な人が横に居てくれたら・・・、などと。
そう・・・、静かに、僕の心を踊らせた人達に、僕はフラれてしまったのだろう。

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