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猿ヶ京温泉

かつての最盛期には56軒の湯宿があったが、バブル以降、失われた20年などと言われ続けた期間に、16軒まで減ってしまって、寂しい限りだ。

『温泉案内』昭和16年鐵道省発刊より

猿ヶ京温泉の歴史

猿ヶ京温泉の開湯は、元和元年(1615年)頃と言われてる。正式に関所が設けられたのが、寛永8年(1631年)だから、重要な関所としての位置づけもあり、その頃の発見と思われる。

三国街道から少し離れた、急峻な赤谷川を挟んで、笹ノ湯温泉と湯島(ゆじま)温泉とがあった。笹の湯(生井林温泉:相生橋辺りの湖底)は温度は低く、裏手には深い山を負い、前には赤谷川を望み、景観は良かったとの記録がある。源泉はあっても、客舎は無かったようだ。湯島温泉は高温湯で、1軒だけ客舎があったが、残念ながら地の利が悪く賑わうことも無かった。幕府に温泉宿としての開業を願い出て、元禄2年(1689年)許可はおりたが、地元の人達の利用くらいだった。

明治に入って生井温泉(現笹ノ湯温泉)に島屋・清水屋・北越屋・吉野屋が営業開始した。その頃の湯島温泉は道が悪く利用客は少なかった。笹ノ湯温泉は冷鉱泉であったので、高温湯の湯島から引湯してたようだ。

明治18年(1885年)笹ノ湯温泉として、相生橋の近くで相生館が営業を開始する。湯島温泉は、大正時代に入り見晴館が開業、昭和3年(1928年)に桑原館、昭和8年(1933年)に長生館が営業を開始した。猿ヶ京温泉は、この4軒がそれぞれに源泉を持って親密な関係を保って守られていた。

昭和30年(1955年)、相俣ダム建設に伴い移転、4本の源泉が湖底に沈むために、新たに掘削して共同の源泉井とした。

湯元長生館ロビーの写真より

昭和33年(1958年)に相俣ダムが完成、巨大な人工湖の赤谷湖が出現し、かつての山間地の様相は大きく変わった。翌昭和34年に三国トンネルが開通し、猿ヶ京の永井宿までしか車が通らなかったのが、関東と新潟が結ばれた。昭和36年(1961年)に苗場スキー場も開業し、猿ヶ京温泉はつぎつぎに温泉の採掘と旅館・土産店・射的場・芸妓・ストリップ劇場などが開業し、大きな歓楽型温泉地となった。昭和49年(1974年)のオイルショック以降、経済不況と共に観光客の減少から、歓楽型から低価格での保養地型に変化したと思われる。

猿ヶ京を築いた「共同湯湯島」源泉の4旅館は、桑原館は猿ヶ京ホテルとして温泉地を代表するホテルになった。長生館も共同源泉の大半の権利を有し、大きな野天風呂も掛け流しで源泉を楽しめる。相生館と見晴館は廃業して、湯の権利を譲渡「まんてん星の湯」として再生した。

参考資料:立教大学観光学部紀要 第2号 2000年3月

猿ヶ京の名の由来

猿ヶ京の名前についての由来は2説ある。1説に、白手の猿が仲間から外されて弱っていたのを、若夫婦が助けて我が子のように大事に育てた。夫婦に子供が生まれ、二人が出掛けてる時に猿が子守をして、ヤケドをさせてしまった。猿は子供を抱えて家を出て行った。夫婦が猿と子供を捜し回ると、温泉に入れてヤケドを治してた。動物による開湯伝説から、地名になった。

もう1説が上杉謙信が名付けたという。永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いのあった年だが、上杉謙信が越後からこの地に来て陣を敷いて休んだ晩、不思議な夢をみた。食事をしようとしたら箸が片方しか無く、驚くと手の上に歯が8本抜け落ちた。不吉な夢をみたと直江兼続に言うと「それは吉報です。片っ端から関八州を手に入れると言うことです」と言われ、大いに喜んだ。その時が申の年、申の月、申の日、謙信が申年生まれであったので「今日からこの地をサルガキョウにしよう」と言ったとか・・・。

現在の猿ヶ京温泉は静かな保養地型として、価格帯も高くはなく、キャンプ場もあり、長期保養にも適してる。上越新幹線・上毛高原駅からバスで30分、JR上越線・後閑駅からバスで35分と、アクセスも良い。

宿はかつての派手さはなくなったが、地元の食材を活かして丁寧に作られた食事と、豊富な湯量の温泉、何よりも雄大な赤谷湖を望んだ自然豊かな景勝地は、まさに転地療法の保養地と言えるだろう。

蛇足ながら、筆者がはじめて温泉地のストリップ劇場に入ったのが、40年くらい前の猿ヶ京温泉だった。既にその頃は温泉街に人通りも少なく、劇場内には他に客もなく、我々数名が入って慌てて明かりを点けるような状況だった。社員旅行も、その頃から無くなった様に思う。

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