ふたつ (2)
3.終わりからの眠り
全てが重い。
何度も何度も、波の様に揺れながら、強い眠気とまぶたに光を当てられてるような覚醒を繰り返す。
それでも瞼は重くて開かない。
これでいいのだと、どこかで確信を持っていた。
責任感と義務感で眠気と疲労を抑え込み、起き続けていたあの日々はもう終わった。
戻らない…
戻れないという確信に対して薄い喪失感と焦燥感を感じるけれど、眠っていていいのだという深い安堵に、またまどろみが寄せて来る。
もう終わったんだ…
ずっとあった染みのような苦しさや、誰かからの行為に傷つくことに縛られることも無い。
眠りに沈みながら、ふと、自身の中で空いてる器を感じた。
この眠りに落ちる前からずっと感じていた、空の器の感覚。
ずっと、
「ここには何かが入っていたはず」
と感じて来た。
この器は自分。けれど誰かが入っていた。
誰だろう。
何で誰も入っていないんだろう。
そう思い当たっても、それは眠りの波に煽られ消えていく。
浮かぶように沈むように漂い眠りに沈んでいく。
4.鳥
眠りからの目覚めは緩慢な物では無かった。
突然歩き続けている自分に気付く。
疲労感も体の重みや痛みも無い歩行。
前をずっと見ながら歩いている。
見まわさなくても足元にも頭上にも前にも後にも何も無いと分かる。
歩を進める度に、そのまま沈み込んでいくような上へ登って行くような感覚を感じる。
不思議だ。
ぼんやりと思う。昔歩いた時はこんな感覚は無かった。
靴も体も重くて、首や肩や腰がいつも軋んでいた。
昔?いつ?
感覚だけがよみがえり、それに紐づけされているはずの時間や場面が思い出せない。
「—―それは体の時間の記憶—―」
突然声が聞こえた。
耳に届いた物ではない。今、。自分が思っている部分に響く声だ。
不可解なのに当たり前の様に感じた。
昔から聞きなれていた音。自分を突き動かしたり時には慰めを向けてくれていた音。
自分が自分になって痛みを覚えた時の間、ずっと側に居たと言う確信がある。
それは前にあり、隣にあり、後ろにあり続けた。
そう思い当たると不意に頭上から前へ、滑空してきた鳥が現れた。
色も距離も質感も無い中、鳥はその輪郭にわずかな光を持ちながら、ゆっくりと羽ばたいて彼の歩調に合わせながら前を飛ぶ。
「ああ。お前か」
彼はその鳥の姿に、溢れる様に親しみと敬意を思い出した。
そう。ずっと側に居た。
隣に寄り添い先を飛び、後ろから風を送ってくれていた。
彼がただ居る時も、視界の端に必ず感じていた。
生まれた時からあの眠りに落ちるまで、ずっと側に居た。
「ここはどこ?」
「—―体の時間が終わった者—―戻ってくる場所—―ここを過ぎて—―道を選ぶ場所—―」
「体の時間が終わった…あぁ…死んだのか」
死ぬ間際の記憶はかすかに残っている。
終わらないと思っていた病の痛みが無くなった時の、あの安堵感を思い出す。
妻の事を思い出した。
あいつは大丈夫だ。
自分の力で生きていた。
俺の病気が末期だと分ってからはあっという間で、申し訳ない時間を過ごさせたけれど…。
こちらが寂しさを感じる位、彼女は仕事や彼女自身の事をしていた。
不意に、ずっと押し込めて過ごしていた寂しさが溢れ返った。
選べたかも知れない道。
大人だからと、男だからと、再婚だからと、色々な理由を見つけては自分を出さなかった。
彼女を恋しく思ったから彼女が望んだから結婚をした。
子どもは作らなかった。怖かったから。
何度も失敗したから。
失敗して、また目の当たりになる自分の不出来さをに傷つきたくなかった。
けれど、それでも、この胸の思いを話したかった。
けれど、話して拒絶されるのが怖かった。
彼女と深く交わる事で、傷つくのが怖かった。
「伝わらないと分っていたから」
不意に思いがそのまま言葉になった。
それが全部の答えだった。
誰と出会っても、誰と話しても何も伝わらないと思って来た。
それは当たり前で、理解してもらえると期待をしてはならないと思って来た。
親に粗略に扱われた事を言い訳にし、分かり合おうとする努力も諦める事でしなくなった。
こうして心がざわつくと、鳥が思い出す事を促すように声無く鳴く気配がした。
その仕草を彼は何度も何度も感じて来た。
黙って心を閉ざす度に、報われなさに凍り付く度に、この鳥の仕草を感じていた。
―――――(3)へ続く
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