ブラック校則問題の本質

最近よくブラック校則の話題が出て、やれ先生は社会を経験してないからわけわからんことを言うみたいな100万回聞いた論が展開されている。
先生を経験したことがなく、先生の業務の本当のキツさがわかってない人ほどこういう論が出てくるのが残酷だと感じるし、こういう意見をみると本当にしんどくなる。
ブラック校則の問題の本質は、そんなに難しくない。一般の会社にも十分通じるものがある。どういうことか。ブラック校則の問題点は大きく2つだと思う。

1つは、先生も他の先生、あるいは管理職の目があるので、やめられないケース。たとえブラックであっても校則を外れているのであれば、今自分が見逃すと他の先生から色々言われることがある。だから、結局先生はしたくもない注意をしていることがよくある。自分自身もこれで苦しんだ。自分のやり方や考え方があるのに、生徒指導の先生のやり方に従わないとあとで詰められる。これは特に若手のときは結構あるし、結構しんどい。

会社を例にすると、学校でいうブラック校則は、会社でいう訳のわからない慣習や規則と同じだ。会社によっては髪を染めるなだの身だしなみはこうしろだの勤怠はこうつけろだのこういう本を読んで感想を書いてこいだの、色々あるけどとにかく上司からあーだこーだと納得できないことを言われることもあるだろう。けれど、上司だって別にやりたくてやっているわけじゃないこともある。上司だって、上司の上司に色々言われるから仕方なくやってるケースも多い。これと同じ。先生は、いわば部下40人の管理をする上司みたいなもんだ。先生だって、他の先生や管理職に怒られたりあーだこーだ言われたくないからやってるケースもいっぱいある。

もう1つは、昔からの慣習がうまくいっているから、ブラック校則が正しいと先生自身が思い込んでいる、あるいはそうしないと秩序が保てないと思っているケース。学校という場は、ひとつなにかを間違えば学級崩壊につながる可能性を常に孕んでいる。先生はそういう繊細な環境に常に身を置いている。そんな中で、今までうまくいっていた学校が校則を変えるのは、ある種のリスクと考える先生も多い。だから、今まで通りのやり方でうまくいっていたならそのやり方を変える必要はない、と思ってしまう。もっとわかりやすく言うと、校則を緩めてしまったら子どもを縛るものが少なくなり、子どもがハネてしまうかもしれない、と思ったりする。そして、実際にハネてしまうケースもある。クラスの担任を持っている先生がよくやるテクニックとして、特に最初はキッチリとルールをつけて縛っておき、一定のハードルを超えないように子どもに意識づけをさせるという方法がある。なぜかというと、1年間経ってくるとだんだん緩んでくるので、ルールをしっかり作っておかないとどんどん乗り越えられて最終的に何のルールもなくなり、学級崩壊に繋がる可能性があるからだ。こうした中で、1つでもルールを緩めたくないというのは、繊細な学校現場で戦う教師の心理としてある。
一般の会社では社員はクビという選択の可能性があるから、基本的には会社の秩序やルールを守るのが前提になっている。クビになると生活できない可能性が大いにあるからだ。そういう意味で、子どもたちにクビはないし、義務教育には退学もない。だから、ルール・秩序が特に大事な場になる。


ブラック校則にはこんな事情がある。だから、学校の先生の責任にするのは本当に意味がない。先生だっていらないと思ってても何もできないかもしれないし、先生だって必要だと思い込んでいるかもしれない。あるいはブラックであっても校則として守らせなければならないほど繊細な環境にいて、自分の身を守り生活を保つために必要な手段になっているかもしれない。
だから、ブラック校則問題は解決策も1つではない。先生が意見を言って変わることもあれば、管理職の意識で変わることもあるし、教育委員会や文科省の言葉を聞いて変わることもある。問題を単純化するのは、耳馴染みがいいしわかりやすいが問題の本質を捉えられなくなる。いろんな要素要因を複合的に捉えてそれぞれの学校の状況にあった対応をしていく必要がある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?