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「光は長いこと、芸術の材料とされてこなかった」

その人はそう言った。

感光紙にガラスの置物と思い出の指輪を並べ、太陽の元に晒す。

黄色い感光紙に映った物体の影が、動かないものとして焼き付けられる。

「今日は日差しが強いので7分」

言われるがままに7分の経過を待つ。

「いい塩梅でやめないと焼けすぎちゃうから気をつけて」

すぐさま時計の針から目を逸らし“作品”を見つめる。

「こうやっているとさ、時間って数字で区切られたものじゃなくて天体の動きなんだなって感じるよね」

その人がそう言う。遅れてそう感じる。

青焼き。およそ1800年頃に発明された被写技術。感光紙に物体を乗せ日光に当てるとその形を白く浮かび上がらせるようにして感光紙が濃紺に染まり「青写真」ができあがる。

この春、私は初めて、この〈青焼き〉を体験した。

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まいです、ごきげんよう❀

「青焼き」、皆さんはしたことありますか?

きっかけは地元の公民館で行われたアート体験でした。カメラを使わないフォトグラム、青写真。それを用いて表現活動を行なうアーティスト、浅見俊哉さんの開いたワークショップに参加したのです。

浅見さんは「時間」と「記憶」を感光紙に焼き付けた作品を制作しています。

例えば、原子爆弾で被爆した樹木を、あの日とおなじ8月6日の午前8時15分の太陽で感光紙に焼き付ける。浅見さんはこの作品を何年も撮り続けています。

そうすることでその写真には、物体の過去から現在における時間の変遷が写し出される。写真が持つ「瞬間性」に矛盾が生じ、そこに時の流れと記憶が刻まれる。そういった作風が特徴です。

私も実際に浅見さんの作品を観ましたが、例えば、津波の被害を受けたと思われる道具の青写真。現物に限りなく近い写真とは違い、白い焼け跡となって表れたそれは、なんとも言えない説得力と物語性を帯びていました。

写真は実物を写したもの、いわばコピーとも言えるけれど、遺物の白いシルエットは外見のコピーではなく確かにその物体の“内面”を映したものだと感じました。

物体を、見るのではなく感じることのできる貴重な経験でした。

私が参加したワークショップは、「万葉集」ならぬ「万影集」を作ろうとしている浅見さんのプロジェクトのひとつで、「自分の大切な物、思い出の品」を青写真として後世に残していこうというものでした。

被写体に、私は相方とのペアリングを選びましたが(小さいためイルカと天使の置物も足しました)、以前のブログを読まれている方はご存知の通り、私はもともと物と思い出とを切り離して考えることが多く物への執着心があまりありません。でもだからこそ、私の感光紙に写った指輪は「物」ではなく「記憶」なのだと実感しました。

そして、この作品は私が描いたものではなく、私の記憶を、光(自然)が描いたという事実にまた趣があります。

古くから芸術は、製作者(あるいは注文者)の意図を伝えたり周囲に示したりする性質を持っていますが、今回の青写真は、製作者の思い通りに完成するものではありません。光の強さや角度、照射時間やあるいは自分の無意識なんかに影響されて、作品の表情は変化し続け予測不可能、唯一無二のものになっていきます。

自然と戯れそこに美しさを見出す。こうした行為の神聖さに癒された一日でした。

それでは。

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ご紹介した浅見俊哉さんの作品を見られるリンクを1つ添付します。ぜひご覧ください。https://note.com/shunya_asami/m/m4125924a7a60/hashtag/898529