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 4月!出会いの季節ですね。先日、ブログ部の先輩方が私たちにメッセージを残し卒業されていきました。去年まではそれをもうそんな季節か〜などと思いながら少しの寂しさを感じつつ眺めていたのですが、今年はなんだか自分のブログ部としての活動の「終わり」を猛烈に意識しました。あと1年、どうぞよろしくお願いいたします。
 日本文学科に入学し、1年生の時の必修科目に「文章表現法」というものがありまして。その中でロラン・バルトの『作者の死』を考える講義がありました。ざっくり、「作品」と「作者」を切り離して考えましょうってやつですね。ここまでの大学生活3年間で、テクストを読む時もレポートを書く時も卒論に向き合う時も、ずっとずっとこの『作者の死』のことを頭の片隅に入れておりました。でも、よくよく考えたら私は割と作品と作者をあんまり結びつけることってなかったなと思うわけですよ。小説の向こう側の作者を意識したことってそんなにないし、たとえ作者がどんなに気に入らなくても作品自体はそれはそれとして評価できるタイプだと自負しているし。私にとって、「誰が」が大事なこともあるけど、「何が」の方が大切なんですね。
 この考えって、自分が読み手として、研究する側の人間として、心がけておきたいものでもありますが、一方で私自身にも当てはまるものがあります。たとえばこのブログを書く私と中の人の私は同じであって同じではない。と、思ってほしい。常々自分の身を削って書いてると思っているこのブログであっても、これは私ではなく私によって生み出された創作物の意識が強いです。「創作物」というのは決してフィクションという意味ではなく、ノンフィクションであっても脚色がなくても、単に私から生み出されたものという意味の創作物です。日本語ぐちゃぐちゃしてきたな。めんどくさくて小難しい話になってきてしまったけれど。こういう面倒な事を考えているからめんどくさい人間になっちゃうんですね〜。まあそんなことはさておき、ブログの他にもツイートだったりイラストだったり、私が生み出した創作物は私ではない、そこに私の自我を見出さないでほしい、みたいなことをいつも思っています。私は絵を描くのが趣味でそれをTwitterやInstagramに投稿することもしているし、文章を書いて頭の中身を整理する人間なのでTwitterを日記がわりに使いよく呟いています。もちろんそれらに私の考えが反映されているのはそうなんだけれども、安易に私と結び付けられるものではない。それは私という自我から出てきたものが私の中で練られて、絵なり文なり何かしらの形を借りて出力されるうちに私とは別のものに成る。みたいな。これ以上どう言ったら上手く伝わるのか皆目見当もつかないのだけれども、なんかそういうことをこの3年間でぼんやり考えるようになりました。難しいねぇ。自我のあり方として創作物に滲み出たらそれはノイズになると思っているからそうなりたくないし、なんならインターネット上では顔を合わせて話す場合と異なって自我までをコントロールできるからこそ、その「自我」もコンテンツにしたいとすら思っている。私は私というコンテンツになることで私自身と私を強制的に切り離そうとしたいんだなぁと。そういう人に私はなりたい。のかも。ぐちゃぐちゃになってきちゃった。自分の中身を晒すことに不安があるのかもしれないですね。ウーン、あまりにも、哲学……。いや哲学をなめすぎですが。

 思春期、アイディンティティ・クライシスなんてのもありますが、自我のあり方とか収まる位置についてこうやって20歳過ぎてもうだうだ練っているんだから自分が何者でどうあるべきかなんて一生分かんないんだろうなと思って生きています。私前々回くらいにも拝啓十五の君へに関連してこんな話をしてなかったか?まぁいいでしょう、今回はなんちゃって哲学回だったし。小難しいこと考えて生きてるな〜と思われるかもしれませんが、これもまた私であり私ではないので。小難しいを演出してるかもしれないですしね。掴みどころのない飄々とした人間になりたすぎる。皆様方にはぜひ私の更新するブログは「私」の存在を意識せず読んでいただければと思います。では。