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日記004 消えた後で その2

前回の日記から、かなり時間が開いてしまって、そのときの感情が希薄になっていますが、前回の続きを書いていこうと思います。

会社近くの中華のお弁当屋さんの閉店の張り紙をみて、
まずは、純粋に悲しさを感じました。とても気に入っていたお店でしたし、店員さんにも自分の顔を覚えてもらっていたためです。地方出身の、最近都会に住み始めた僕にとっては、匿名性の強い都会の中に住んでいると、自分と社会との関係性を規定することが難しく、自分がいなくても社会は変わらず回っていくことへの自覚とそれに対する虚無感を感じてしまうのですが、他人に自分の顔を覚えてもらうことで、自分がこの社会に存在している事実を再認することができ、心に安寧を取り戻すことができていました。しかしながら、お店の閉店によって、社会と繋がるチャンネルの一つを失ってしまったと思い、悲しさを感じました。

このような悲しさと同時に、責任感を感じました。
というのも、閉店の一ヶ月ほど前に、会社により近い場所に、スーパーが開店したため、同金額でより短時間にお昼ご飯を買える場所ができてしまったためです。地方生まれ、地方育ちの僕にとって、いかに一つの店舗の存在の大切かを分かっていたつもりだったのですが、結局は僕も利便性というものを屈してしまうのだなと自分の卑しさを感じたのです。
僕がスーパーに行く度に、お弁当屋さん、ないしは、周辺の飲食店が苦しんでいる(だいぶ自意識過剰なのかもしれませんが)。しかし、僕もお金ないし、早くご飯食べて、貴重な昼休みを有意義に使いたい。こんな葛藤を日々抱いています。というか、こんな葛藤をする必要のない、自分の行動を正当化できるような言い訳を探しています。

どなたか納得できる言い訳が知っていましたら、教えてください。

ではまた

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