見出し画像

【ガザへの想い①】子ども時代のガザの思い出

最近、エルサレムに住むパレスチナ人にガザの人とのつながりについて聞く機会があったため、シリーズでお届けしたいと思います。

今回は、私たちがよくお願いしているタクシー運転手のハニさんです。ある日、たまたまガザの話をしていた時、「ガザの人たちは本当に良い人たちだよ。昔は家族でガザに遊びに行ったこともあってね~」と、ハニさんがあるガザの家族とのステキな話を聞かせてくれました。

出入りが厳しく制限されるガザ

現在は、ガザの住民、人道支援関係者、ジャーナリスト、外交関係者など以外は出入りすることのできないパレスチナ・ガザ地区。ガザ地区以外に住むパレスチナ人がガザ地区に入ることも基本的にはできません(※1)。ガザの住民も、ガザ地区の出入りにはイスラエルからの許可証が必要ですが、許可証は誰にでも発行されるわけではありません。ガザでは受けられないような治療が必要な患者であっても、許可が出るのは6割程度です。

イスラエルがこの地を占領するまでは当然他の土地と垣根がなかったガザ地区。1991年にガザ地区とイスラエルの間に検問所が設けられ(エレズ検問所)、イスラエルからの許可証がないと出入りができなくなりました。1993年にはイスラエル政府からパレスチナ全体を封鎖する方針が示され、1995年にはガザ地区を囲う電気フェンスやコンクリートの壁が設置され、物理的な封鎖が始まりました。

(※1)国連やNGOなど、人道支援に関わる機関に勤めている場合には、入域許可が下りることもあります。

昔は自由に行き来できたガザ地区

1980年代、まだガザとイスラエルの間には検問所がなく、子どもだったハニさんは、エルサレムからお父さんと兄弟と一緒にガザのビーチに遊びに行きました。その頃は漁師が獲りたての新鮮な魚を港から移動しながら売り歩いており、人々が群がって、街の中心に到着する前に売り切ってしまうほどだったそう。海がないエルサレムにも、ガザからの新鮮な魚が売られていました。

封鎖が続き経済状態が悪化し続けているガザでは、貧困層の人々も増え、魚を購入できる家庭は限られています。現在ガザに行くと、道端で魚を売る人をみかけますが買う人の姿はまばらです。複雑な気持ちになりますが、ガザが完全に封鎖される前、ガザの多くの人がイスラエル側に働きに出ており、魚を買う余裕があったのです。

現在のガザの港の様子(ガザ市)

ハニさん一家がガザからエルサレムに帰る途中、車が故障してしまい、その場を通りかかった男性が「修理工場をやっているから自分のところで直してあげるよ」と車を牽引してくれました。エンジンの一部を交換しなければならない状態で、4,5時間車を預けることになりました。「エルサレムから旅行に来た」と話すと、男性の家族は大変喜び、修理を待っている間、自分の家に招待したりガザの中を案内してくれて、一緒に楽しい時間を過ごしました。

修理が終わる頃、ハニさんのお父さんが「手持ちのお金で間に合わないからタクシーでエルサレムに戻って、明日か明後日お金を取ってくる」と話したところ、男性からは「わざわざエルサレムから来たんだから、お金はいらない。」という言葉が返ってきました。ハニさんのお父さんは、それでは困ると説得を試みましたが、男性は「今度自分たちがエルサレムに行ったら、案内してくれたら良いから」と言ったそうです。

当時、ハニさんの自宅には電話がなかったため、叔父の家の電話番号を伝え、「エルサレムに来るときには必ず連絡をください!」と言って、男性と別れました。

翌年、男性とその家族と無事にエルサレムで会うことができ、みんなで色んな場所をまわって楽しい時を過ごしました。その後もハニさんの家族がたくさんお土産を持ってその男性と家族を訪ねるなど、何度か交流が続いたそうです。


現在のハニさん。いつも穏やかで優しく誠実な人柄で、歴代のJVC駐在員がお世話になっています

ところが、ガザが封鎖されたことをきっかけに、ハニさんの家族と男性の家族の行き来や連絡が途絶えてしまったそうです。「本当に親切にしてもらったし、良い思い出だよ。また会える時がきたらいいな。」と話すハニさんの横顔は昔を懐かしむようでもあり、少し悲しそうでもありました。






JVCのパレスチナ事業では、現地に暮らす人びとの意思を応援する形での支援を行なっています。また、パレスチナの問題を日本社会にも伝えることで、一人ひとりが取り組むための橋渡し役を担うことも試みています。 サポートしていただいた分は全額、JVCのパレスチナ事業に寄付いたします。