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武道とは 「かた」についてのひとりごと

「武道とは、その場その場に対応動作するところの行動哲学」と鶴山晃瑞先師は語りました。すなわち、武道の練習とは、先人の実践と経験から確立された格闘技術等の英知がつまったシミュレーションスタディであり、種々の場面を設定しその場面・場面への対応方法を学ぶものである、といえます。したがって、武道として習う技は、いわゆる実戦的ではなく表演技法の習得が中心となり、「型」「形」「勢法」のいずれかの「かた」による稽古(以下総称して「形稽古」という。)となるわけです。

形稽古は「かた」として切り取り整理された場面(以下「部分」という。)を積み上げていく稽古方法であるといえます。これは武術習得の基本であり、根本であることから非常に重要であり、稽古はこれに尽きると言えますが、部分の集合が全体とはならないことから、部分から全体へのアプローチは不可能なのです。そこで全体から武道を理解する必要が生じます。

ところで、多くの武術の流派において言えることですが形稽古には危険な落とし穴があります。形稽古の危険なところは「かた」が絶対真理となり人を従わせることにあるのです。「かた」すなわちパターン化した動きは、突然の攻撃に対する反射的な動きが求められる意味で必要とされる一方、多くの場合、思考を阻害してしまうからです。これは思考を不能にしてしまうならまだしも、何か考えた気になりながらその実何も考えていないという事態を招来するからであり、「かたち」さらに一般化して言えば「キーワード」に拘泥しすぎて無反省な自己中心主義やその結果たる錯覚の危険が生じるからです。一方、単なる「かた」という技術でなくその背後にある考え方、さらには全体のコンセプトを体得していれば、このような危険を回避し、自分を成長させることができます。

日本では、一般に「道」と名のつくものとは、語り得ないところを伝達することをもって「道」としてきました。語り得ないことは、奥が深いと言われることもあります。これはよく、本当の意味が分からず、説明できないから「奥が深い」という言葉で逃げるのとは違います。奥が深いとは、その対象の、①本質が捉えにくいこと、②そこに解釈の余地があること、③さらに、その先の展開があることから③→②→①の方向で理解するのは難しいことを言うのです。

さて、全体からのアプローチを通じて初めて見えるものもありますが、逆に全体の論理を理解したとしても個別の技はできません。また、いわゆる心法も、心のコントロールは頭だけではできないことから形稽古なくしては体得できないのです。東洋の理解では、心や頭を頭でコントロールはできないとされています。東洋的修練とは、例えば、ヨガに見られるように体を使って心をコントロールするのです。身体を通して真理へ向う、身体訓練によって高度な知性を獲得しようとするのです。すなわち、身体訓練を通じて意識の操作を行い、さらに生理的な変化を実現しようというものなのです。

また、全体からの部分へのアプローチは可能とはいうものの、我々は全体を全体として捉えることもできないという現実があります。ここはやはり、多少の犠牲は承知の上でフィルターを通して見えないものを見えるようにして、今風に言えば社会科学の手法を用いて「見える化」し、部分から学んでいくほかないのです。なお、大東流では、古典的な二元論、すなわち陰陽・表裏・虚実・天地と言った切り口で分解してみせます。「かた」として場面を限定することによって、言い換えれば限定的な技法を通じて術理を詳らかにしています。現実的には我々はこの世界にどっぷり漬かって形稽古をするわけですが、これは全体を理解するための手段に過ぎないことを理解しておく必要があります。手段に過ぎないはということは、重要でないという意味ではありません。基礎として重要であるとともに、これこそが全体を形作る要素であり、見方を変えれば全体そのものと言えるからです。

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