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共通の価値観によってもたらされるものと失うもの#67

昨日は知人の子どもが通っているコミュニティのイベントに行ってきました。コミュニティと表現したのは、未就学児~高校卒業くらいまでの年代の子が通うことができる無認可施設ではあるものの、そこに通っている人たちの子育て観が似通っているとか、創設者へのリスペクトがあるといった共感ポイントがあることによる心理的安全性が保たれている場(=コミュニティ)と思ったからです。

そこでは、公教育ではなく多様な年代の子(大人も含む)たちが一緒になって日々を過ごし、都度都度必要な知識学習も交えながら育ちあう場でした。大人たちの視座は、子どもが主体的に生き、活動し、学ぶために環境を整える(ときには一緒につくる)ことだと感じさせられました。

私も既存の公教育には疑問に感じるところが多々あります。

  • 同一年齢の子どもたち数十人で組まれるクラスとか学年

  • 発達段階に合わせたかかわりができない年度を基準とした仕組み

  • 大人が考え、大人が運用する子どもたちの学びの場づくり

今の教育の主体や、仕組みが誰を向いてつくられているのかというと、すべて大人なんですよね。人間の発達段階に合わせた必要なかかわりということは先生個々人で見ていくと専門性の高い方もおられると思いますし、教育者の方々をどうこう言うというのが今回の趣旨ではありませんのでご理解ください。

もはや託児所化した保育園や小学校。既存の制度で決められた職員の人員配置基準や低い補助金水準などもあって、少ない人数でたくさんの子を見ていかないといけない。ましてや保護者がとやかく言いすぎていて、サービス業のクレーム処理的な仕事に多くのリソースを割かれてしまっています。その結果として、細かな規制(ルール)が増えまくり、あれはやっちゃダメ。これはやっちゃダメと子どもの好奇心を抑え込んでしまっています。

すべてルール。規律。子どもにとって必要なルールならわかるのですが、親がそうして欲しくないからというのが起点になっているルールが多すぎて、柔軟に対応すればいいじゃんくらいにゆるく構えている私のような親には窮屈さをもたらしています。基準がないと自分で考えて行動することができない大人が増えてきていて、子どもではなく大人が緩やかさに耐えられないのだと思います。

昨日参加したイベントでは、そもそも受付みたいなところも分からなければ、広場とか建物内とかに大人も子供も散らばっていて誰がそこの場の人で、誰が外部参加者なのかも分からない。一定の価値観で線が引かれたコミュニティだと思うので、クレームを言ってくるような人はいないのだと思いますが…なのでその辺にいた子どもに聞きました。「うん。あってるよ」って教えてくれましたよ。
これって、催し物は大人が運営しているものという感覚でいると、そもそも子どもに聞こうなんてならないと思うんですよね。子どもだってちゃんと分かってるし、聞けば答えてくれるんです。

…と、まあ前段が長くなってしまいましたが、今日書きたかったのは共通の価値基準を人間って作りたがるよねという話です。


〇お金はとても便利な国際的共通価値をつくった

人間がつくり出した共通の価値といって最初に頭に浮かんだのは「お金」でした。特に日本では無宗教だけどお金教といってもいいくらいにお金に色々なことが縛られている気がします。

  • お金がないから〇〇できない

  • あの人は金持ちでいいな。絶対なんかやってるよな。

  • 楽して儲けられるならそんないい話は無いといって詐欺られる

書きながら思いますが、ポジティブなことって全然ないですね(笑)

お金よりも大事なことがあるとかいう人もいますが、自分の収入を上げるための行動ができていない場合に使われるセリフだなぁと感じます。お金では手に入れることができないことがあるのは確かです。ですが、このセリフはポジティブというよりむしろネガティブなシーンで使われる印象がありますね。

お金にはなぜ価値が生まれるのか。それはみんながお金に価値があると思っているからです。総量が決まっていて、持っている人と持っていない人という格差があること、お金を使うことで(交換)得られるものが多いその便利さで靄(もや)がかかって、自分の人生どう生きたいかという本質を見えにくくしてしまいます。

とはいえ、やっぱり共通の価値基準があるって便利なんですよね。人間が便利さを求めてつくったものすべてが道具。お金は腐らないからその時に持っている数字をそのまま長期保管することができます(絶対値は変わらないけど相対値は変わります)。このお金を得るために、人生を棒に振ってしまうということも起っています。あくまでも生活を便利にするための道具。そうした理解が乏しいと、人生という一度きりの機会を失いかねません。

〇人権もヒトがつくった共通概念

いわゆる人権というのは、人が生まれながらにして持っている権利のことをいいます。これは自然権というもので、すべての人が生まれながらにして平等に持っているものです。人としての権利、つまりどのような思想信条を持っていても、障害があっても無くても、貧困状態にあっても無くても、そういった条件に関係なく、すべて同じ人間であるという考えです。

もちろんこの人権という概念も人間がつくり出したものです。昔々は淘汰されてきた命も、時代とともに長く生き続けられるようになってきました。その背景には、医療技術の進歩(時間とケースの積み重ねによる知見の深まり)、民が結束し力を帯びてきた(明治維新あたり)、戦争への反省、人種差別や特定人種の大虐殺など。様々な要素が入り交じり、現代では何かあるごとに人権というキーワードが取り沙汰されます。特に、日本は9つの人権条約を批准し、締約国として遵守する必要があります。一応(法的な罰則はないが)国連の人権委員会からも監督されていますので、やってます感を政府は出していますね。

ただ、問題なのは特に日本の国民が人権への意識が低いことです。人権教育がなされていないことも大いに影響していますが、とはいえ自分にどのような権利があるのかということを全く理解していないですよね。あると思っていた権利もそこにあるだけでは絵に描いた餅で…使わなければ(行使しなければ)自分の権利に効力を持たせることはできません。ですが、僕らはこの権利の使い方も知らない。これは参った…では済まないのですが、そもそもこの段階にまで至らないのがほとんどです。

とはいえ、何か嫌なことがあれば権利だの義務だの。〇〇ハラスメントだのなんだのと。特に立場が上の人からとやかく言われたときに都合のいいように持ち出すもの見たいになってる気がしてなりません。正しく権利を理解し、正しく使う。前述した道具という文脈で言うならば、権利という概念も人間がつくった道具なんですよね。お金には説明書がないですが、権利には説明書のようなものがあります。(世界人権宣言、子どもの権利条約etc…)読んで使い方を学ぶ必要があると思いませんか?

ものすごーく脱線しまくりましたが、ここで言いたいことは一つです。それは、人間も犬や猫、像やキリンのように動物でしかないということです。生物学上の分類はヒト科ヒト族ホモサピエンスです。それ以上でもそれ以下でもありません。ただ、知能が発達し生存競争にここまで勝ち抜き、子孫をうまく残し続けているだけです。
その分、様々な経験の蓄積や文明の発達など頭が働くようになって、考えるということができます。行動先行ではなく、考えることが先に来てしまい、ありもしないことにとやかく言っているのです。動物なのですから、本来なら考えている間に敵に食べられてしまいます。いつだって行動先行。その場に応じた臨機応変な対応が必要なのです。

それで言うと、現代に起こる様々なことも頭が先行していて身体が動いていないように思います。特に子どもや高齢者には転ばぬ先の杖を…私も含め働く世代も失敗しないよう予防線を張りまくったり、チャレンジをしなかったり…そんなことばかりです。頭が先に動くからあれはダメこれはダメの規制ばかりの社会になり、周りを気にしたりルールを守ることが良いとされたりするようになってします。そうして、本来の生物としての生存目的がだんだんと果たせなくなったり、動物的勘が働かなくなったりしているんだと思うんですよね。

〇ルールが増えると自分で考えて行動することができなくなる

今やあらゆる場面、ルールだらけですよね。近所の公園に行けばボールをけるのは禁止とか、大声禁止とか立派な看板が立っていますし( #税金の無駄遣い )、保育園や学校も規律だらけ。時代が変わっても、変わらない決まりもあったりします。仕事ではいまだに対面もしくは電話じゃなきゃ失礼といった何時代?ということもあれば、行政の提出書類もまだまだ紙だったりします。

その時々に必要に駆られて作ったルールも、思考が停止してその形式だけが残されていくと段々と慣例化します。これなんのためにやってるの?ということも、こうすることが目的になってしまっていて…笑うしかありません。

ルールは守るもの。破ってはいけないもの。と刷り込まれてきた日本人にとっては、その行為が適切がどうかよりも決まりを守るかどうかの優先度が高くなってしまうのだと思います。そのようにして段々と思考停止人間になってしまい、いざというときに考えることも判断することもできなくなってしまうという恐ろしい話です。

私もこっち側の人間だったのですが、少しずつ変わってきていると実感しています。子どもが生まれたことも大きいと思いますが、普段と違うことを一つでもいいからやってみる。その積み重ねがポジティブな変化をもたらしているのかなと思います。今いる場所では徐々に少数派になりつつありますが、とはいえ自分で考えて自分の責任で行動することはとても当たり前で大切なことです。そこはぶらさずに生きていきたいと思います。

今日の話は、ヒトって共通の価値をつくって安心を得たがるよね。だけど、その中でも自分で考えて判断して行動することがとても重要だと思ったという話でした。

最後までお読みいただきありがとうございました。
それではまた。ゆうちゃんでした。(長くなってしまった)

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