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大人は子どもの邪魔さえしなければ良い#49

日々子どもと接していると、いつも余計なことをしてしまったなと落ち込むことがあります。子どもが主体的に行動し、自分の体験から学び発達していけるように、親としてできるサポートってなんだろう、、、こんなことを考えているわけですが、ついついそれを見守れずに阻んでしまいます。要は、大人の私が”待つ”ことができずに、私の経験から立つ予測で動いてしまうんです。

例えば、食後にお皿を運ぶ場面。その持ち方だと落ちるよ~と私が感じると、声を掛けたり手で支えようとしてしまいます。子どもからすると、親の行動に気を取られてしまってお皿を落としてしまう(笑)
そのたびに、「ごめん」と子どもに言います。子どもには失敗する権利があります。そして、その経験から学び成長していく権利があります。頭では分かっているのにね、、、

先日「夢みる小学校」という映画の自主上映会に行ってきました。

オオタヴィン監督の「夢みるシリーズ」のうちの一つです。この映画を見て、私が考えていることは間違ってないかもなと思ったことがあります。それは、大人が子どもに対してやるべきことは邪魔しないことだということです。たったこれだけでいいと言ってもよいのかもしれません。


〇自分のことは自分で決める

映画のタイトルから分かるようにこの映画の舞台は小学校です。現代の小学校と言えば、集団一斉教育で多様性への対応が仕組みとしてできていません。先生という立場の人が子どもに教えるという学校教育。答えありきの問いばかりで、その答えにたどり着けるように指導をしていく。そこから外れる人は変わり者とか、発達障害とかにジャンル分けされてコミュニティから除外。どうりで不登校が30万人を超すわけだ。グローバルスタンダードは多様性の尊重であり、人間として成長していける場としての教育現場になっています。

一方的に教えるという教育は、小学校からではなく保育園や幼稚園から始まっています。むしろ家庭レベルでもそうかもしれません。日本の保育や学校における教育者の配置基準が低水準であり、一人の教育者が見る子どもの人数が多すぎます。また、子どもを預かっているという認識から間違ったことを教えてはいけないとか怪我させてはいけないといったリスク回避の思考の優先度が高いと感じます。

なのでどうしても管理的教育体制になりやすいのだと思います。週間予定から行事までもすべて大人が決めています。これは、子どもの権利条約12条に定められている、子どもが自分のことは自分で考えて意見を表明する権利を奪っているとも言えます。

第12条
締約国は、自己の意見を形成する能力のある児童がその児童に影響を及ぼすすべての事項について自由に自己の意見を表明する権利を確保する。この場合において、児童の意見は、その児童の年齢及び成熟度に従って相応に考慮されるものとする。
このため、児童は、特に、自己に影響を及ぼすあらゆる司法上及び行政上の手続において、国内法の手続規則に合致する方法により直接に又は代理人若しくは適当な団体を通じて聴取される機会を与えられる。

児童の権利に関する条約(政府公訳)

〇一人の人間としての対等性

映画の中で印象深かったのは学校の時間割りとプログラムについてです。小学校の時間割りと言って頭に浮かぶのは、多分多くの人はこんな感じだと思います。

錦町立木上小学校

※こちらの学校とは何の関係もありません。ただの拾い画像です。

映画に出てくる小学校では、まず科目という考えがありません。そして、子どもたちが学びの主体であるという考えで、子どもたち自身が何を学ぶかを話し合い、決めていました。

文科省が出している学習指導要領では、必ずしも科目を取り入れなければならないとはなっていないそうです。もっとざっくりと、何を身につけるかというレベルで書かれていますので、それをどのような形で実現させるかの裁量は学校(ほぼ校長先生)にあるそう。

学習指導要領改訂のポイント(平成29年、30年)

しかし、こちらの指導要領ですが改訂は約10年ごと。時代の変化がとても早いこの10年においては、もはや時代遅れと言ってもいいのでは…

少し話が逸れました。子どもたちが何を学びたいか決める。学びたいこと=科目ではありません。例えば食に関することや、芸術に関すること。一年間のテーマを決めて取り組んでいきます。

美味しい蕎麦を作りたい⇒蕎麦ってどうやってできてる?⇒蕎麦の材料とその割合は?⇒蕎麦の歴史ってどんな感じ?⇒調理技術の習得⇒プロの技を見に行こう

自分たちが関心のあることを掘り下げて、その実践の中で数学や歴史や調理技術などあらゆることを学んでいくことができます。興味があるから座学の知識詰め込み型よりも学びの姿勢も前向きですし、吸収力が違います。児童期においては自らの体験を通して学ぶことがとても大切な時期。子どもの発達に合わせた教育という点で見ると素晴らしい実践だと感じました。

とはいえ、子どもだけではできないことが多いのも事実です。大人(教育者)の役割は徹底したサポートです。実践から得た気付き、失敗をどのように活かすか、子どもの主体性をいかにして伸ばすかなど、専門的なかかわりが求められます。一人ひとりと向き合って、必要なかたちでフィードバックしていくことで、より学びが深まるのだと感じます。

時間割りや活動を決める際には教員もその中に入りますが、必ずしも大人の意見が通るとは限りません。大人ではなく子どもが主体であるという実感を子どもたちが得て、自ら決めていくという主体性を身につけていく場でもあります。ここでは、教育者と児童という関係性ではなく、一人の人と人という点での対等な関係性が重要視されていました。その点から大人としてできること、子どもだからできることの役割分担がしっかりとされていました。

〇重要なのは基礎工事

私自身はがっつり集団教育で学び、間違ってはいけないとか、正解を求めてしまうとか、周囲の気を伺うとか、その恩恵をたっぷりと受けています(笑)
いざ、教育から離れて社会に出ていくと、突然に主体性を求められたり、意見を求められたり…今までそんなこと1ミリもやってこなかったので苦労しました。

社会人として必要なことは、社会(世の中)をよく見ることや、自分が行動を起こして体験したことから学び、必要なことを考えて創り出していくことだと思います。でもそれには、コミュニケーション能力や情報収集能力、そもそもの主体性が求められます。ですが、それらは今の教育現場ではなかなか習得が困難です。

映画に出てくる学校を卒業した人たちは、この部分がとても当たり前のように備わっています。自分がどのように立ち振る舞えばよいかとか、自分が関心のあることを追求することだとかとても自然にやっていました。
こうした成長発達を見ると、幼少期からの基礎工事がとても重要だと感じます。もちろんですが、一人ひとりの基質もあります。向き不向きもありますので、一概には言えませんが、発達段階における環境としてはとても素晴らしいなと思いました。


最後に一言でまとめると…
大人が子どもにもしてあげられることは、子どもの興味関心を奪うような関わりをしないことや、最低限の人としてのルール(人を困らせたり傷付けたりすることなど)を伝えることぐらいということです。
人間には育つ力が備わっています。それは一人ひとりが違うもの。大人も学びながら子どもの発達を見守る、ドシッとした姿勢で我慢強くいなくちゅいけないなぁと想ったという話でした。

最後までお読みいただきありがとうございます。
それではまた。ゆうちゃんでした。

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