見出し画像

判断軸を取り戻す時間

9月もたくさんの時間を生徒さんたちと過ごした。
わたしのレッスンには共通カリキュラムがないので内容は十人十色。

音楽理論に初めて触れて、記号としてのコードとその奥にひろがる世界に心をふるわせるレッスン、譜面の書き方を思い出しながら、絵を描いてみたりして自分を知るレッスン、イタリア語を逆に教えてもらいながら、英語との違いをたのしむレッスン、大好きなアーティストの曲を自分のものにするためのレッスン、"I"を歌うためのレッスン、物語を朗読しながら英語を口に出すレッスン、数年前の曲に再び出会い、自分の成長を感じるレッスン、表現の幅をひろげるためのレッスン。

すべてに共通しているのはこれが"判断軸を自分自身に取り戻すための時間"である、ということだ。

いまの自分がもっているもの、これから獲得したいものが曲を通して、勝手に現れてくる。
これが曲は鏡、と主張する所以である。

案外、人は自分のことを知らないものだ。
知っているつもりで、近くでよくよく見ると、実はその輪郭は、偏見に満ちた赤の他人の無責任な発言によって形作られた、いびつな線でできていたりする。

判断軸を自分自身に取り戻すこと。
ニュートラルで透明な枠組みとしての曲は、そのことをあなたに許してくれる。ここに、曲と友人のように向き合う価値があるのだと思う。

無責任に人を批判することは容易い。
ジャッジしたほうはすっかり忘れていても、"評価"された方はしっかりそれを覚えているものだ。
その批判が積み重なって、自身を捉える目が曇っていってしまう。
傷つかなくて済むように、他人に判断を委ねるようになっていく。誰かにokを出してもらわないと安心できなくなる。

だが、誰もあなたの人生の責任をとってくれない。
自由に生きるために、自分自身と信頼関係を築いていくための時間が必要だ。
刃物で斬りられるでもない、針で刺されるでもなく、今ここに立っている自分を、ただ、知ること。

信頼して委ねる人でいたい。
まだまだ、人を信じきれずについ余計な口出しをしてしまうことが多い。
偏見によって目の前の事象をニュートラルに観察できずに、誰かの可能性を狭めてしまっていることがある。

もっと、器をひろげていこう。

#音楽 #エッセイ #レッスン #歌 #音楽について

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?