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俺と革 11章 その3 野球グローブ偶然の連続...

ジュテルの沼田です。

今は亡き親父の事を、文章に残しているのも、三回目となった。
今回は、何故 野球グラブ革を作ることになったのか… 
を、書こうと思っているのだが…………………

さて、どう書こうか………………

俺なりに考えて、控えて書くことにする。

某スポーツメーカーが、野球グラブとは何が一番大事なのか徹底的に研究した。
その結果、『革』と言う答えに達したそうだ。(色んな意見があると思うが、俺は今でもこの答えが正しいと思っている)
そこで日本全国のタンナーを回り、その革を求め歩いたと言う。

当時、草加市には沢山のタンナーがあった。
その頃は、インターネットも、携帯も無い時代。
ほとんど情報が無い中 足を使って探すしかない。

某スポーツメーカーは草加の一番大きなタンナーに行ったが当てが外れ、
『 偶然』沼田産業の前でもう一軒寄ってみようと言うことになったそうだ。(この話は、大分後に俺が当時の担当者に直接聞いた話)
某スポーツメーカーが沼田産業の門を叩き、親父に会い野球グラブの革を探してると伝えると、
またもや『偶然』が重なった…

どういう『偶然』が重なったかというと、沼田産業はその頃サッカースパイクや野球スパイク革は作っていたが、野球グラブの革は作っていなかった。
しかし、たまたまファッション用でグラブ調(野球グラブ用では無くファッション用でグラブレザー風にした革)と言う革のサンプル依頼があり、ほんの数枚だけ、革があったのだった。(この話は、グラブ調の注文を出していた革問屋さんから聞いた話)
それを某スポーツメーカーに見せたところ、「探してる革は、まさしくこの革だ!」となったという。

この2つの『偶然』が、まさしく『必然』となって現在に継っている……

こうして、某スポーツメーカーが日本全国の各タンナーの革を使ってグラブの試作を作り、プロ選手を初め 色々な選手に実用テストをして選ばれたのが、親父が作った革のグラブだった。

親父が自慢げに話してたのは、当時(1970年頃)の読売Gの選手達に 試合前の練習にグラブを使ってもらい絶賛されたと...(その時後楽園球場のベンチにて、実際にお邪魔させて貰い 某有名選手に直接伝えられた)

これをきっかけに、
1972年に某スポーツメーカーの野球グラブ制作プロジェクトに参加することになり、野球のグラブ用の革製造が開始するのであった。

偶然の連続...
実際に当時の担当の方や、革問屋さんに直接聞いた時は、鳥肌が立ったのを覚えています。

グラブの革を作り出して今年で約50年...
昔と今ではグラブの形も革の様子も、時代と共に だいぶ変化してきています。
俺は先人達がどの様に作ってきたか、歴史は大事と思っています。
先人達が答え&ヒントを残してくれている、それを元に受け継ぐ人が『進化』をさせて行く『絶えざる創造への活動』なのです...俺はそう思っています。

だいぶへし折って書いています。 詳しくは工場見学にてお話しております。

※文章中の年号はおおよそのもので、正確では無いかもしれません。

親父の話しは まだまだ続きます

では、この章はこの辺で...

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