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過干渉と放任の間のさじ加減を知ろうとしたら、人に頼ることの大切さを知った。

私は、子どもとの距離の取り方が、ずいぶんとヘタクソなお母さんだ。

子どもの事を手伝いすぎて、過保護になり「子どもが自分で出来るようになる機会を邪魔をしてしまった」と深く反省したかと思えば、反対に放っときすぎて、子どもが困って相談できずにいることにも、気付かなかったりしてる。

そんな私のとこに、神様は「あなた今生で、そのスキル鍛えなさいな」と、スキルが必要で、感受性の豊かな素敵な子を贈ってくれたんだと思うことがある。

1.乳児はしっかり肌を離すな
2.幼児は肌を離せ手を離すな
3.少年は手を離せ目を離すな
4.青年は目を離せ心を離すな

親子の距離についての、子育て四訓だ。これをいつから知っているのかも、忘れてしまったけど、かなり昔から聞き覚えがある気がする。

この段階の踏み方の意味をもし文章にしたならば、それで記事がいくつも書けるくらい、こうやって少しずつ距離を取っていくことの意味が実感として痛いほどわかる。

そのバランスを崩していることを過保護とか、放任などと言ったりするけれど、そんな名前で納めきれるほどそう簡単ではなくて、そのバランスを親が自覚することは、実はすごく難しいものだ。

「子どもには、将来自立して幸せに暮らしてほしい」と切に願い、そのためにどこまで親は何をしたらいいのだろうと悩んだりする。
手伝ったり、手を引く加減を模索しながら、子どもが何か出来るようになったことが一つずつ増えていく姿を見ては、親自身の人生の喜びにもなっていく。

スキルの必要な息子と、バランス取りのヘタクソな私の場合は、それをたくさんの人に助けてもらい、たくさんの事を知った。

一人では出来ない育児だ。
感謝も恩返しもまったくしきれていないと思う。
それなのに、そこで学んだ集大成を自分の手柄にしてしまい「いいお母さんやってますよ」と取り繕ろうとするちっぽけな自分の存在も、今だって感じている。

それでも子どもたちはとっても素敵に育っていて、お父さんと子どもたちと私の関係性のバランスが、やっと少しずつ見え始めた気がしている。

次男は、寝る前に「お休み」と抱きしめれば、こぼれそうなほどの笑顔を返してくれる。思春期の息子だって頭にそっと手を乗せれば、満更でもない様子で「お休み」って言ってくれる。

温かさが溢れてるその瞬間がとても好きだ。子どもたちに母親にさせてもらってるのだと思う。

そんな自分を自分で褒めてあげるなら。

私は自分を「ヘタクソなお母さんだ」と認める勇気を持てたことを褒めてあげたい。そうして人に頼ることで助けてくれる人がたくさんいる事を知ったから。

そして、私一人だけではない多くの視点があるからこそ、見えるものがある。その見えたものが育児を通して、私にさじ加減を教えてくれるのだ。

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