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立体的な視点が俯瞰力を広げることに繋がるのかもしれない。

もう夏も終わりですね。
皆さま、充実した時間を
過ごされていたのならいいな。

また今日も超長文なので、
前半、後半で分けました。
後半は、また今度。

もしよろしければ気が向いた時にどうぞ。


一つの挑戦

先日、不登校のお子さんを育ててる
ママさんたちの集まり、開催しました!

と言う名目で、お茶しました笑。

普段なら気楽にしていたママ友とお茶。
敷居をとことん低くしたにも関わらず、私は。

うんうん唸りながら、やっとこさ。
自信をなくしてしまってた
自分を奮い立たせて企画しました。

場所の下見もしたし、
みんなが飽きないようネタも考えました。

友達にそれも含めて、案を話したら
「固い、なんか固いよ。
もっと気軽じゃないと、楽しくないよ」
と言われるくらいで苦笑。

でも、一歩やってみたら、結局誰よりも
私が楽しんでいました。
結果的には、充実感いっぱい。

みんなが最初、緊張してたのが
最後には旧知の仲みたいになって、
笑顔が増えていたのが、みて分かりました。

だから、勇気を出して企画して本当に良かった。

ちょっと話しにくいと
感じてたことを気兼ねなく話したり、
自分自身について、
心の奥にある気持ちについて吐露したり。

友達と友達が繋がっていくこと。

私はそんな場がやっぱり好きです。
私の好きのポイントは、
笑顔が緩むことかもしれません。

そのために、頑張るのは楽しいです。
自分の好きのポイントを
改めて味わえたのもありがたかった。

熱意と楽しさを持って
あまり気負いすぎずやればいい。

みんなでLINEグループは作ったけど。
どうやって繋がり続けていくかは
また次のテーマかな。

月1回くらいはやりたいです。

自分に気付きを向けるということ


自己洞察について、最近思っていたのは。

善悪などの白黒をつけるような
二元論的に何かを判断することと

孤立したくない
認められたい
自分らしくいたい

という人としての
強くて、基本的な欲求が絡むことで。

そのために得か損か、とか。
喜びや恐れのような感情が揺れ動く、とか。

それはまるで、
両極端にシーソーが揺れるような
バランスに繋がっていて。

一つの軸の上で、極端な揺れをするのが、
その軸から抜けにくい「こだわり」
になる気がしました。

それが、人にとって、自分にとって。
コミュニティにとって、社会にとって。

わかりやすくなるように
インパクトのある表現になれば。

マーケティングのように、
人の心を掴むものにもなるかもしれません。
今の社会の中では、それもとても大切だけど。

それを受け取る時や、発する時に、
その欲求の方に意識的にあることが、
喜びや楽しみの中での「こだわり」

自分で選択するための自立と、
人と尊重しあえるという
相互の本当の自由に繋がるのだろうと。

そんなことを思いました。

私の場合。
「認めてもらいたい」気持ちも
まず自分でドップリと認めようと思ってます。

実は「こだわりを手放す」という
感覚も二元論的だったかもしれないとも思いました。

私はずっと
「こだわりを手放したい」と思っていました。

たとえば、
子どもの不登校について考えることも
その一つだったのです。

今までの善悪の判断の中で、
世間の常識に時には疑問をもち。

学校では何を習得するのか、
子どもの気持ち、人の意見、専門家の考え、
知識、自分なりの考え、
学校にこだわる意味を考えて。

それって本当に必要かな?と
自分の納得する形を探すこと。

それが従来の価値観を手放すという意味で、
「こだわりを手放す」と呼んでいました。

でも手放すも、あるかないか。やっぱり一つの軸に
こだわっていた気がしたのです。

それとは全く違う物の見方で、
自分の納得を探せるのではないか。

それが大人の葛藤期を経た、
この一年での私の気付きだったように思います。

たとえば、過去と今の違いなど、時間から。


日本と世界の違いなど、地域から。




そんな風に物事を測るのに、
違う定規を持ってくる。

そうした測り方の軸や視点を増やすこと。
それらの交差した場所から
俯瞰するような感覚。

今ある世間の常識に疑問を持つことは同じ
かもしれませんが。

新しい価値観や見方という測る定規を
どんどん広範囲にしたり、角度を変えたり、
立体的にしたり。

立体を広げ、点が増え、
繋がりを増やす感じかもしれません。

さまざまな角度と遠近感から物を見るということで
同じ出来事を全く違う角度から測る。

その視点を増やすことは。

四角形が五角形になるような変化で
こだわりを手放すは、消えていく感覚。

点が増える感覚が、多様性に対して。
歩み寄りと、適切な距離感で関わることの
違いに似ている気がします。

できた図形の頂点が増えれば多面体になっていくし、
その多面体がくっつけば
氷の結晶のように自然な広がりになっていく。

点と点がもし同じであるなら、
その点の集合体は
立体ではなくなってしまうから。

社会の中では、人も
一人一人が一つの点だと思いました。

点と点の距離を知ることや、
それらの軸が違うこと。

それが人と人との自然な境界線を知りながら、
違いを尊重しながら、生きていく感覚に
近いのかなと思うようになりました。

その「自分の点を増やす」という感覚が
変化のために、とても大事な気がするけど。

わかりやすい言語化ができるほど、
腹落ちしていない気はします。

ただ、点を増やすためにはその前段階として、今の感情を
とことん受け止めきること。

時に表現することは、
私の場合はとても大切みたいです。

芸術にするような感情のアウトプットも
ネガティブな感情も含めた表現としては
とても素敵だと思います。

そうすることで感情という流れが、滞らずに済む気がします。
喜びも悲しみも歌にしてしまうとか。

身体から発している自分の本当の気持ちを
楽しんでる?と、自分の心に問うのも
その基軸になるのだと思います。

私の中には慈愛のような心、向上心、正義感もあれば、
しつこさや腹黒、傲慢さもあります。

そんな風に、
善も悪もたくさんあるなあと、
自分のことが少しわかったところで。

まとまらない自分の混乱を受け止め
書かせてもらったこともとても大切なことでした。

もう少しやり方があったかもと反省もありますが。

白黒をハッキリするのは、
物事を伝えるときはとてもわかりやすい。

それにどっぷりハマったり。
反対に意図的に明言を避けたりすることもあります。

でも、自分の内面に向かって点を増やす時には
白黒つけたことに自覚的になることは
とても大切だと思っていて。

何かの自分の側面を、悪だと決めつけると、
そのイメージがレッテル貼りになってしまい、
責めてしまうことがあります。

反対に善に注目しすぎても、また悪に
目をつぶる構造を作ってしまうようです。

一度つけてしまったイメージを外すことの
難しさもまたあると思います。

点を増やすことで、立体になるのが
循環であり、バランスとなるような気がします。

そのプロセスとしての俯瞰力。

カメラのアングルでいう寄りと引き。
客観性と主観性という
視点も大切だと思いました。

感情にどっぷりハマるのは、主観性という
寄りで自分を見つめるということ。

細部まで見つめて再現できるくらいまで
親しんで、その感情にどっぷりのめり込むような
視野が狭くて過集中するような状況。

それをしてこそ、
アングルの柔軟性が増し、
引きでみた時に詳細までわかるから。

俯瞰力も高まる気がしました。

すると新しい価値観が取り入れやすくなり、
さまざまな物事の中に矛盾の少ない点を
探すようなこともしやすくなる。

自分の心の中に矛盾が大きくなったと感じすぎていると、
とても苦しくなるから。

その点が増えるほど、図形は広がることで、
矛盾ではない捉え方に少し近づける?

すると中での自由が上がる感じ?

それが「点を増やす」という感覚
なのかもしれないと、思っています。

なんだか抽象的になっちゃったけど・・・。
それが今、思うことです。

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