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ラスベガス建設の食糧革命!!日本人YONEMA TOMIYASU【大和魂が再燃しないと…】

皆さん、こんにちは


お元気ですか?


私はラスベガスに住んでいます。


砂漠に作られた人工的な街です。


昨日は日曜日だったので、家族でSpring Preserve(スプリング・プリザーブ)に行ってきました。



スプリング・プリザーブは、砂漠で生活できる植物や動物、そしてラスベガスの歴史などを展示した子供たちのために作られた所です。


広さは180エーカーで、東京ドームの約15個分の敷地です。


いろいろなイベントも催されたりするので、年間のメンバーになって遊びに行きます。


今回はいくつか発見がありました。


その一つが、ラスベガスがこのように人工的に木々が植えられ、観光地として見るにも心地よくさせてくれる街づくりの基礎を築いた人を知りました。


その人が、YONEMA TOMIYASU(富安 米馬)さんです。


植林の育て方だけでなく、農業も成功させた方でした。


戦前の日本人の大和魂は、アメリカ人の開拓精神を完全に凌駕するくらい立派なものだと再び実感するきっかけを与えてくれました。




~富安ヨネマさんの歴史~



富安さんは、熊本県出身の方でした。


1898年に、彼が16歳のころカナダに着きました。


農家で育った彼でしたが、実家で育てた卵を食べることができないくらい貧しかったようです。


「将来は、金持ちになって毎日卵を6個食べる生活をしてやる!!」と決意して、出国したそうです。


まず、最初にカナダに渡り、そしてカリフォルニア州へ、最終的に将来性を見てネバダ州へと渡ってきたのが、1916年の頃だそうです。


この頃のラスベガスは、まだ開拓の時期です。


フーバーダムの建設が始まったのが、1931年です。


最初のホテルがオープンしたのが1906年です。


この時系列から考えると、カリフォルニア州からユタ州までの鉄道が敷かれ、ホテルが建てられ、そこから街づくりが始まります。


その街づくりが始まって、さらに街を開拓し、広げていこうとし始またちょうど初期のころに富安さんはラスベガスに移住してきました。


最初は鉄道の線路を敷く仕事から、レストランでシェフとして働いていたそうです。


1920年の頃は、荒涼とした街でラスベガスの人口は約2300人くらいだったそうです。


その砂漠の街を、富安さんは緑が育つ街にしていきました。


現在でも、その技術はラスベガスの植林技術に生かされて、人々が遊びに来やすい街づくりの基礎になっています。


カリフォルニア州から、食物の種を買ってきて、それを植えてデータを収集していきながら様々なものを育てることに成功していきます。



5,6年後には、玉ねぎ、ネギ、ニンジン、大根、ビーツ、キャベツ、カリフラワー、芽キャベツ、キクヂシャ、ピーマンやメロンまで収穫に成功します。


彼の英語名はBillです。


彼はBill Jap(ビル・ジャップ)と呼ばれていたそうです。


ラスベガスの新聞に彼のことが記事に書かれて、称賛されていました。


カリフォルニア州で収穫されるアスパラガスよりも、少なくとも2週間前にラスベガスで収穫して市場に出されるようになったと書かれています。



それが、1930年の頃です。


彼は、約10年で日本の移民として完全に成功をおさめました。


そして、フーバーダムの建設が始まりました。


彼はフーバーダムの建設に来る多くの労働者たちのエネルギーの根源をまかないました。


間接的に、フーバーダムを建設したのです。


このフーバーダムがなければ、現在のラスベガスはありません。


しかし、アメリカの根底にある人種差別って根深いです。


ビル・ジャップですって。


新聞にジャップですからね。


それも第一次大戦の戦勝国である日本に対してであり、第二次大戦以前の話です。


そこから日系アメリカ人への悲劇が少しづつ始まっていきます。


第二次世界大戦の始まりは、アメリカでは1939年です。


ヒットラーがポーランドを侵略したことが引き金になりました。

 

富安さんの農園と契約していた6社あったそうです。


フーバーダムを建設するための人々へのための食堂のつながりを持つ会社です。


1935年にフーバーダムが完成しますから、30年代は富安さんも繫栄したのかもしれません。


そのころから西海岸に住む日系人は、強制収容所に連行され始めていきます。


富安さんの住んでいたネバダ州では、強制連行はなかったようですが、様々な差別を受けていたことは間違いありません。


給料が正当な値段で払われなかったり、家賃が急に上げられたりなどなど様々ありました。


そして、最終的に彼の農園が奪われてしまいます。


1960年代に詐欺にあい、彼の農園すべては奪われてしまいました。


これも人種差別ですよね。


1960年代と言えば、あのマーティン・ルーサー・キング・ジュニアが生きていて、射殺された時代です。


公民権運動が最も盛んな頃です。


彼は、農園が奪われてすぐに亡くなりました。


1967年、87歳でこの世を去りました。



~大和魂は永遠に~


彼の偉業は、いろいろなところで小さいですけど残っています。


スプリング・プリザーブにも彼の歴史が残っていました。


彼の名前をたたえた学校もラスベガスにあります。



彼の名前の付いた通りもあります。




この色のついた点線の通りが富安通り(TOMIYASU LANE)です。


彼がここで農園を始められたのも、この通りに水源を見つけることができたからだと書かれていました。


そこでその農園はどうなったのであろうか?と考え、リサーチしていました。


そこで思いついたのが、この水源は金持ちに買われ、自らの私有地として使われているのではと憶測です。


これはあくまでも憶測ですが、これしか考えられません。


ウェイン・ニュートンの敷地があるのがこの場所です。



皆さんご存じですか?


私は全然知りませんでした。


彼は歌手であり、俳優だそうです。


ミスターラスベガスと呼ばれ、エルビス・プレスリーやフランク・シナトラをしのぐ観客動員をしていたそうです。


これからもっと考えを発展させてみました。


ラスベガスには、人工的な湖を作り、ボートなどで楽しんでいるお金持ちの住む区域もあります。





多分、そこなども水源があり、もし農地にでもすれば相当ラスベガスの人々も助かるのではと思います。


実際、富安さんの農園で、フーバーダムで働いたは約2万1千人です。


その土地は、何倍もの広い土地です。


ラスベガスで幾つの農園があるか調べると、3つしかありませんでした。


ですから、水源のある場所ってとても貴重なのでしょうね。


でも、金持ちたちが所有しています。



~大和魂と寛容~


日本人って本当に寛容な人々だと思います。


何があっても、まず環境を受け入れることから物事の考えを始めます。


しかし、その寛容性が過ぎると何が筋で、何を大切にしなければいけないのか分からなくなっていきます。


また、何も知識がないと言われるままで、自らの智慧で考えることができなくなります。


というか、考えられません。


現在、国際秩序が作り直されていく時世です。


ですから、ただ寛容にすべてを受け入れていくだけだと魂を抜かれてしまうのではと非常に心配です。


今、もう一度様々なことを見直す時なのかと思います。


やはり、日本的な哲学でもう一度世界がともに手と手を取り合えるような世界秩序が作られればと思います。


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