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不安や悩みは

全ての悩みは人間の外側にはない。
悩みは人間の内側に生じるもので、世界の方にあるのではない。
人間はおよそいかなる事象についても悩むことが出来る。例えば愛する人と結婚式を挙げて幸せの絶頂にある時、そんな時でも『ああもう一生に一度のイベントが終わってしまう。』と落ち込むこともできるし、『これから二人で上手くやっていけるだろうか』と不安に思うこともできる。ましてや『空が落ちてきたらどうしよう』と悩み始める人もいるくらいである。
こうした悩みの原因が自分より外の世界にあると思って、外の世界をいじくることで悩みを解決しようとすると終わりのない苦痛の旅にでることになる。
悩みに論理性はない。
ないというか必要ない。
人が悩むのに論理は必要ないのである。
万象について人は悩み不安になることが出来る。
今完璧に不安がなくて無敵な心持ちであっても、行先を思って悩み始めることは論理的に可能なのである。
実際は健全な精神には、悩みや不安というものはあまり寄り付かないが。
でも重要なのは悩みや不安の本質が、論理性や外で起こった事象にないところである。
悩みや不安はどこからでも湧き出うるのである。
したがって僕はこのような仮説を立てる。


不安や悩みというものは
便秘によって腸の神経細胞が刺激されたり、
睡眠不足や運動不足によって
脳の何某かの部分が刺激されたりして
生み出された不快感を
意識の上で統一的に合理的に理解するため
論理的な問題に対する悩みや
世界の諸問題からくる不安に
すり替えたものである。

つまり不安や悩みの原因は便秘とか生活習慣の乱れとかストレスとか専ら身体性における問題からくるものであるということだ。

なぜこう考えるのかというと
まず一つに
人間の意識・心は生物が生きていく上で物事を統一的に理解するのに必要であったから、すなわち至って実用的な要請によって作られたという主張から
不安や悩みの場合も湧き起こる不安感を意識の上で固定させるために実用的に作られたのではないかと考えられるからである。
二つに受動意識仮説によってである。
これは意識による意思決定が無意識における決定の後に行われているという仮説である。すなわち完全な自由意志はないという主張である。この主張からも分かるように意識における問題は後付けである可能性が高い。意識よりも前に身体性が反応するのである。
三つ目はなによりも
どんな場合にも不安や悩みをもつことが論理的に可能であるにもかかわらず、悩む人もいれば悩まない人もいるという事実から。
四つ目は体を鍛えている人や健康に気を使って、健全な身体性をたもち、身体に問題を抱えていない人達は
往々にして性格も明るく、前向きで、くよくよ悩んだりしない人が多いということからである。また同じ個人においても、悩みやすい性質の人が体を鍛えることで前向きで不安に耐性のある性質に変わることが多々ある。

結論は健康であれ正気であれということだ。
何かを考えたり解決しようとする前に
まず健康で正気である必要がある。
正気であるためには健康が必要である。
人間はどこまでいっても身体である。
エネルギーが質量に変換できるのだから
意識も身体性とたいして変わらない、ニアイコールの関係なのである。意識も実態を持った身体であると言ってしまおう。身体はそれぞれフィードバックし合う。
運動して
健康的な食事をとって
充分な睡眠をとって
ストレスを減らして
他者と交流して
自己肯定できるような生活をして
労働をして
健康であろう。

悩みや不安には、不健康からくるすり替えと生物合理性に基づいたものとの二種類が考えられる。
しかし後者は注意や緊張を促す程度のもので、さほど自己を苦しめるものではない。
自己を度を越して苦しめ、時には殺してしまうような不安や悩みは前者のものであると考える。
悩みや不安が完全に消えるのは、感覚主体の自己がなくなるとき、つまり死ぬ時であり、その時に初めて人はあらゆる苦しみから解放される。
悩みや不安から解放されたけりゃ健康あるのみである。

果たしてそんなに単純であろうか?
現に悩みや不安を持っている人は、健康という如何にも俗な解答を見て腹を立てるかもしれないけれど
正気で行う思索と、正気でなくて行う思索は分かりあうことができない。
正気でなくなると世界も正気でないように見えてしまう。
だからその食い違いは避けられないのザマス。

脊椎に電気が走るように不安で慄く者、
様々なことで悩んで心身を消耗する者
幸あれ🤲


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