考える人

19歳 浪人生 書きながら考える人です。 色んなことを書きながら考えます。 書き…

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19歳 浪人生 書きながら考える人です。 色んなことを書きながら考えます。 書きながら考えるので凄く読みにくいかもしれません。ヘッ

最近の記事

頭の整理を兼ねて

人は誰しも自己贔屓の傾向をもっている。普通自分が一番可愛いし、傷つきたくないし、自分と他人のどちらかが殺されるなら喜んで他人の方を選ぶだろう。 自分の能力の方を他人よりも高く見積もるし 何かしらの特別さがあるように思う 自分が人生の主人公だと、自分を世の中の中心に据えている人は多い 僕も幼少期は自分が世の中において唯一の主人公だと思っていた。他人は僕という存在の上で関係づけられるモブキャラでしかなかった。 これらの自己贔屓とでもいえる機能というか傾向はヒトという生物が生きてい

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      私という独自性というか、実存というかそれはとても曖昧なものである。私という概念は非常に曖昧なものである。自我や意識というものがふわふわした曖昧なものである。 僕は思うことがある。 自分は他の人でもあり得るのではないだろうかと。 すなわち他の人でもあり得たというか 要は今の自分に対して自分の唯一な独自性というか 自我を認めないのである。 つまり自分はなんでもいいのだ。 自分が今のこのような自分でなければならないという必然性を全く認めていない。 もしあのアニメみたく誰かと入れ替わ

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        何故ヒトは神を求めるのか 救いを求めるから 動物が祈っていないとは限らない 病気が治りますように 夢が叶いますように 死後の世界がありますように 幸せになれますように 運命の人に出会えますように 願望である 僕にはなんだかこういった信仰が醜いもののように思えてならない 弱さを感じる 弱さからくる狂気というか そんな奇妙なものを信じているヒト科の生物が 奇妙に見えてならない 肌感覚で己の物質性とか、己がone of themであることを直感できればこんな奇妙なことを信じる気には

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          no spiritual no religion 占いもシュミレーション仮説もスピリチュアリズムも宗教もいらん それら全部が人間の己の弱さからくるもの 人間の奢りと臆病と自己贔屓からくるもの と思います 活力ある健康的な精神であればヒトにそんなものは 必要ないはず 実体のないものを信じるからその欠陥を補おうとして躍起になる 信じないものに腹が立つ ヒトはみんなが聖人なわけではない ヒトは根本的にいきものだ 生き物は自分が生きるために一生懸命になる 時として争う 自然を愛で溢れ

        頭の整理を兼ねて

          頭の整理を兼ねて

          世界はひろく 宇宙は広く 僕とほとんど同じような人間が この80億の人類の中には何人もいて 唯一な価値を持つものなどなく 自分にしかないものなどなく それでも生きていくのである やがてはゼロになるのであるが それでもこの矛盾になにか本気な魅力を感じる この論理的な欠陥に生の厳粛さを感じる なにかむりやり終わりに意味づけすることなく 終わりはぜろだと しかしそれでも続く今に しかしそれでも美しい感情があり やがてはみなゼロになるのだけれど それでも健康的な活力で肯定することが

          頭の整理を兼ねて

          頭の整理を兼ねて

          事実の、経験の集積より生まれる人格の差異の観点から見れば、個々の人間は独自性があるものであるが、生物的なその根本の観点から見れば人格の差異は個々に霊的な独自性があるからではなく、ただの色々な尺度の程度の差からくるものである。 人間ひとりひとりに霊的な独自性があるなどというのは恐らく全くの幻想に過ぎないであろう。 大概 人は似たり寄ったりである。 本当に唯一の独自性を持つ人は、80億のうち果たしてどれだけいるだろうか、しかしその場合にもそれは霊的な霊魂的な独自性ではなしに、ただ

          頭の整理を兼ねて

          頭の整理を兼ねて

          物質なる我が、ちっぽけなる我がそれでも活力を振り絞って生きるには。 80億の中の一に過ぎない我がそれでも己の人生を愛するには。 いつ死するかも分からず、今まで一所懸命積み重ねたものがいつ壊されるか分からずそれでも明日も積み重ねようと体を動かすには。 もう論理は必要ないのかもしれない。 ただシーシュポスのように なんどもなんども 意味の無意味の意味 論理を超えた論理 非ユークリッド幾何学 論理性にしがみついてあれこれ多言を要して 合理化するよりも ただ何も持たずシーシュポスのよ

          頭の整理を兼ねて

          眠れないので

          頭を拳の骨の硬いところで叩いてみると コツコツという音がする。なんの音か 頭蓋骨の音である。 我々は紛れもなくサッカーボール大の頭蓋骨を持っていてその中に我々の核となる脳みそが詰まっているのである。 これは何も言葉だけの上での事実ではなくて 今まさき自分において成り立つ最も身近な事実なのである。 今自分の頭をこじ開けられたらぶよぶよした脳みそが顔を出すのである。 これは僕に甚だ強い印象を与える事実である。 僕らは主観的に生きる上で感覚的に受け取った情報をもとになんだか夢見たい

          眠れないので

          【詩】  午前一時半

          暖かい午後の夕日 部屋の白い壁に映るオレンジの光 夜になって 蛙が鳴く 意味もなく 部屋の白い壁には冷たい白い光が どうでもいい 言葉をこねくりまわして なんの意味もない 扇風機の風が僕を冷やす スマホのライトが とげとげしくて ああプシュケーが 僕のプシュケーが プシュケー 響きが好きだ 何度も言いたくなる くだらない言葉を羅列して 蛙がうるさい みんな何をしているのだろう 海に行きたい 浜辺にパラソルをたてて 日が沈むまで ゆっくり話したい 眠りに誘う 眠りの世界へ 意識

          【詩】  午前一時半

          僕は神様も来世も天国も何も信じていないのだけれど 今日の夕方帰り道で、古墳の側を通った時に その森の樹々の厳かな雰囲気に圧倒されて 自分のちっぽけさを感じた。 声高に無神論者を気取っていたけれど 僕は樹々の迫力に圧倒されて言葉が出なかった 怖くなった身がすくんだ 僕からあの樹々になにも言うことはできなかった 僕が如何なる思想を持っていたとしても そんなことはもうどうでもよかった ただ大いなる樹々の沈黙した迫力に気圧されて 僕はただ自分を投げ出すことしかできなかった すきにして

          ふと

          高く一面に広がった大空を見上げたときとか 森の中で青々と茂った大木を見たときとか 激しくうねりをあげて捻れ合う大海原をみたときとか 物理学の本を読んで宇宙の深淵さを感じたときとか 剣道の稽古終わりの夕方に神棚に礼するときとか 幼い頃 父の太い腕の中で眠りについたときとか 何か大いなるものに触れて その前にひれ伏すとき 限りなく素直になって 僕らの自我は外に溶け出し 形式から解放されて 自他の境界がなくなり なんの意味付けもなさずにただそこにあるのみ それが何とも幸福で安らかで

          頭の整理を兼ねて

          "わかる"という現象には程度の差があるけれど、 下は理解できるということで、上は自分の主張になるということではないだろうか。 わかると一口に言っても、"理解できる"の意味だったら分かっていてもできない、ということが容易に起こるだろう。わかって行動が変わる場合は"自分の主張になる"くらいに分かった時のみにであると思う。 では自分の主張になるくらい分かるというのは一体どういうことなのかというと、身体的に変化するということだと言えると思う。すなわち脳のシナプスの回路が変わるみたいな

          頭の整理を兼ねて

          頭の整理を兼ねて

          なにかしらの問題がなくなる場合に 問題を解決する場合と、 問題を問題と思わなくなる場合とがあると思う。 普通人間は問題を持った時、それを解決しようとするけれどもう一つの選択肢として、評価する主体である自分のそのそれが問題であると判断した評価基準そのものを変えてしまうということも検討するべきである。 多くの人は自分の評価基準が固定的で変えるのが困難なものだと思っているけれど、僕は案外そんなこともないと思う。自分の評価基準というものは結構容易に変わりうるものだ。 例えば歳とるだ

          頭の整理を兼ねて

          頭の整理を兼ねて

          多くの人が、人とは自分とは何かを語る時、それらを神秘的な霊的なものとして扱う。でも人間はどうしたって生物であるし、霊的に感じるのはただの直感に過ぎないと思う。目の前に80億人もの人間を一望できたとしたら、そうした人間に対する霊的過大評価は薄れると思う。霊的で神秘的に尊い魂を持つ人間が80億もいてたまるもんか。こういうふうに霊的過大評価なるものが生まれるのは、生物合理性に基づいた自己贔屓の働きによるものだと思う。普通人間は自己を特別視すると思う。自分を世界の中心において物事をみ

          頭の整理を兼ねて

          不安や悩みは

          全ての悩みは人間の外側にはない。 悩みは人間の内側に生じるもので、世界の方にあるのではない。 人間はおよそいかなる事象についても悩むことが出来る。例えば愛する人と結婚式を挙げて幸せの絶頂にある時、そんな時でも『ああもう一生に一度のイベントが終わってしまう。』と落ち込むこともできるし、『これから二人で上手くやっていけるだろうか』と不安に思うこともできる。ましてや『空が落ちてきたらどうしよう』と悩み始める人もいるくらいである。 こうした悩みの原因が自分より外の世界にあると思って、

          不安や悩みは

          思索にあたって

          正確な思索・議論を行うには、言葉の正確な定義付けや、何の視点でものを論じるかなどを先に決定して、思索・議論の場を整えることが必要不可欠である。 また、道具としての言語だけでなく、その言語を操るほうの人間も、思索・議論の前に整えられる必要がある。すなわち言語とそれを使用する人間の両方に正しい準備が必要なのである。健全な思索には、健全な精神が不可欠である。 正確な思索を行うには、正気であることが必要である。例えば精神病であったり、そうまでいかなくとも何かに強迫的に固執していたり

          思索にあたって