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”黒人侍”弥助と本能寺の変 ー 宣教師の記録にあることとないこと②
せっかく調べたので弥助関連備忘録、本能寺の変周辺。これまでの内容は以下。
(2024/6/23 資料のキャプチャ追加と誤字修正)
弥助、本能寺の変にて戦う
宣教師ルイスフロイスによる記録
本能寺の変による信長の死という大事件に際し、宣教師ルイスフロイスは通常の年次報告とは別に追加の報告を母国に送っています。その中に数少ない弥助に関する記録の一つがあり、内容は以下の通りです。
又ビジタドールが信長に贈った黒奴が、信長の死後世子の邸に赴き、相當長い間戦つてゐた處、明智の家臣が彼に近づいて、恐るゝことなく其刀を差出せと言ったので之を渡した。家臣は此黒奴を如何に處分すべきか明智に尋ねた處、黒奴は動物で何も知らず、又日本人でない故之を殺さず、印度のパードレの聖堂に置けと言つた。之に依つて我等は少しく安心した。
信長の死後、世子(信忠)の邸で戦って降伏した、という内容です。
なお、ビジタドールというのは宣教師の役職で、ここではアレッサンドロ・ヴァリニャーノを指します。また、例によって宣教師の記録には黒奴(原文ではcafre)とだけあって名前がありませんが、他に該当する人物がいないであろうということでこれは弥助に関する記録だと考えられています。印度のパードレの聖堂とはおそらく本能寺の近くにあったとされるいわゆる南蛮寺のことだと思われます。当時インドのゴアがポルトガル人にとってのアジアにおける政治及び布教活動の中心地でした。
戦った場所は?
弥助が戦った場所については、フィクションの中では本能寺であったり二条新御所であったりしますが、記録では上記の通り「世子の邸(原文ではcasa do príncipe:王子の家)」とされています。
この「casa do príncipe」が具体的にどこを指すかは上記引用の文章だけからは解釈の余地がありそうにも見えます。しかし、ルイスフロイスは報告の中で本能寺の変の際の信忠の行動についても触れており、その記載との対応で「casa do príncipe」を確定することができます。
ルイスフロイスの報告では、信忠は「casa do príncipe(世子の邸/王子の家)」に来た者から報を受け、この「mosteiro(寺院/修道院)」は安全ではないので近くの「casas do filho da Dayri(内裏の御子の居/内裏の息子の家)」に行った、とされています。
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なお、ここでは信忠のもとに向かった者のことを”Tono”としています(最上段)
対応する「信長公記」の記載は以下の通り、
三位中将信忠 此由きかせられ 信長と御一手に御成候はんと被思食妙覚寺を出させられ候処 村井春長軒 父子三人走向 三位中将信忠へ申上候趣本能寺は早落去仕御殿も焼落候定而是へ取懸可申候間二条新御所者御搆よく候御楯籠可然と申依之直に二条へ御取入
知らせを受けた信忠が妙覚寺を出て二条新御所に入ったとされており、ルイスフロイスの報告内容とよく一致します。すなわち、「casa do príncipe」=「mosteiro」=「妙覚寺」、「casas do filho da Dayri」=「二条新御所」と考えてよさそうです。なお、当時二条新御所は正親町天皇(=内裏)の皇太子である誠仁親王の御所でしたので、その観点でもよく一致します。
つまり、ルイスフロイスの報告では弥助が戦った場所は本能寺でも二条新御所でもなく、妙覚寺ということになります。
何故弥助は妙覚寺で戦ったのか?
本能寺の変の際の戦場は、「信長公記」でも本能寺と二条新御所であって、妙覚寺で戦いがあったとの記録はありません。また、その他にも妙覚寺で戦闘があったとする文献があるという話を知りません。このため、妙覚寺でどのような戦いがあったのか、また弥助が何故妙覚寺で戦ったのかは想像するしかありません。
なお、上記引用のルイスフロイスの報告の日本語訳が「又」から始まっているのは、これが信長の周辺や信忠の周辺の出来事を書いた後、本能寺の変に際して宣教師たちが心配したが大丈夫だったというネタを3つ並べている中の一つであるからです。一つ目は落ち武者狩りが行われる中、南蛮寺が荒らされたり焼かれたりするかと心配したが、明智が兵に禁じた話。二つ目がこの弥助の話。三つ目が信長の義兄弟(家康のこと?)の宿所は南蛮寺に近かったので巻き込まれる危険性が高かったが、少し前に堺に行ってくれたおかげで巻き込まれずに済んで神に感謝、という話です。
これらの前後の話との関係性からすると、弥助は信忠が二条新御所に移った後に妙覚寺に残った非戦闘員を明智方の落ち武者狩りから守るために戦った、のような想像もできるかもしれません。残念ながら本能寺で信長を守ったり二条御所で信忠を守ったりした物語と同じく、根拠のない想像ですが。
参考:位置関係
参考として、京都観光オフィシャルサイト 京都観光Naviのサイトにある観光マップに、関連する場所を追加したもののスクリーンショットです。
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本能寺、二条新御所(二条殿)、南蛮寺の跡地には現在石碑があります。また妙覚寺と二条殿は対応する地名が現在も残っています。たしかに南蛮寺は本能寺の変に巻き込まれかねない場所ですし、妙覚寺と二条新御所はすぐ近くであったことがわかります。また、本能寺跡の石碑から二條殿跡の石碑まで徒歩15分程度ですので、信忠の居た妙覚寺から本能寺が直接見えることはなかったとしても、そのあたりでなにか炎上していることくらいはわかったかもしれません。
その他小ネタ
明智の恩情?
弥助のことを動物扱いして殺さなかったことに対して、光秀の恩情からくる方便だったのではないかと語られることがあります。確かに、例えば「麒麟がくる」の光秀ならばそのような行動をとりそうに思えます。しかし、この報告を書いたルイスフロイスはキリスト教に理解を示した信長や信忠を殺した光秀のことを嫌っており、報告の中で彼のことを「amigo do diabo:悪魔の友」と呼んだりしています。ですので残念ながらこのエピソードが恩情からくる少しいい話、という期待はできなさそうです。
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(この時代のポルトガル語にwはない筈なので、おそらくmの活字がひっくり返っている)
”イエズス会の記録によると”
個人的には歴史モノは好きなので、「敵は本能寺にあり」と宣言する光秀も、秀吉に「運が開けましたな」とか言ってしまう官兵衛も好きです。弥助についても、例えば異郷の地で自分を認めてくれた信長を守るために本能寺で戦う、のようなお話も物語としては好きなのですが、弥助関連は元の資料が少ないこともあってか、資料にないことを資料にあると言い切ってしまう人や、それをそのまま信じてしまう人がいるため、根拠のない”事実”が物語としてではなく拡散される傾向にあるようです。
例えば上記のとおり、”イエズス会の宣教師の記録によると”本能寺の変の際に弥助が戦った場所は妙覚寺であり、この記録以外に本能寺の変の際の弥助の記録はありません。にもかかわらず、弥助が本能寺や二条新御所で戦ったとする内容が物語としてではなく”事実”として、ひどいときには”宣教師の記録によると”などと形容されて語られることがよくあります。
本能寺の変関連以外でも、このような”事実”が語られることは多く、例えば以下は各地で引用されている「African Samurai」の著者、トーマスロックリー氏に対するCNNのインタビュー記事。
「イエズス会の記録によると、信長はすぐさま弥助を侍に取り立て、従者や住居、扶持(ふち)まで与えたとされる。」とありますが、そんなことを書いたイエスズ会の記録はありません。そもそもイエスズ会の記録では弥助という名前もありませんし、信長が侍に取り立てたという記録もありませんし、従者・住居・扶持のどれを与えた記録もありません。最大限好意的に解釈すると信長公記の尊経閣本の記載と近いとも思えますが、そちらにはない「従者」を与えられたという要素が増えているので単純な引用元間違いという訳でもなさそうです。
日本語訳の際に間違えたのかと思い元の英語版の記事を見ても、
"Nobunaga soon made him a samurai – even providing him with his own servant, house and stipend, according to Jesuit records." 同じですね。
どうも宣教師の記録は原文が16世紀のポルトガル語で原文にあたりづらく、また出版された英語訳も存在しないことから、”イエズス会の記録によると”、は特に英語圏で情報発信する人たちにとっては嘘をついても露見しづらい便利な道具と考えられているのかもしれません。困ったことに。
法隆寺の変?
いい加減なことを海外に向かって発信する、というのはなにもロックリー氏の専売特許というわけではないようです。
以下はWikipedia英語版の弥助(Yasuke)の項でも参考文献として挙げられている論文の一節です。
Retained as an attendant by Nobunaga, he later accompanied him into battle against the rival lord Akechi Mitsuhide (1528? — 1582) who upon defeating Nobunaga at Horyuji, spared the African and subsequently released him.
信長に従者として雇われた弥助が明智光秀との戦いに同行した、というのは本能寺の変の事かな、と思ってよく見ると、光秀が信長のライバルだとか法隆寺で信長を破っただとか無茶苦茶なことが書いてあります。どこか遠い国で書かれた論文なので日本のことはあまり知らなかったのかなと思いきや、驚くべきことにこの論文?は京都大学人文科学研究所の紀要に掲載されています。つまり京大人文研所属の研究者が書いて、京大人文研が査読によって妥当性にお墨付きを与えた論文ということになります。日本の大学がお墨付きを与えた日本に関する論文なので、日本に関しては正しいことが書かれているだろう、と思われてこのような論文でも引用されてしまうという恐ろしい状態。(さすがに法隆寺の部分を引用するほど馬鹿な人はいないようですが。)