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”アフリカンサムライ”弥助伝説の誕生と拡散② ー ソースはウィキペディア(のソースもウィキペディア)

弥助は侍であるか否か等の議論を見ていると、根拠として複数の情報源が提示されるにもかかわらずそれぞれが極めて似通った内容であることに気が付きます。このような傾向はいわゆるフェイクニュースの拡散などの、一つの情報源が複数の箇所で引用元を明示しないまま流用され、互いに互いを独立した情報源として扱って”信頼性”を向上させる循環報告が起きている際に見られる傾向です。ということで実際にどのように情報が拡散されるのかを少し追いかけてみました。 なお、これをまとめていたら英語版Wikiped

    • ”アフリカンサムライ”弥助伝説の誕生と拡散 ー とあるユーザによるウィキペディアへの貢献

      ”アフリカンサムライ”弥助に関する真偽定かではない数々の伝説の誕生と拡散には、2019年発行のトーマスロックリー氏らによる小説「African Samurai: The True Story of Yasuke, a Legendary Black Warrior in Feudal Japan」の影響が大きいと言われています。 一方で過去の英語版Wikipediaの内容を辿ると、小説「African Samurai」発行前からオリジナルエピソードが「信長公記」や「家忠日記」

      • “黒人侍”弥助とヴァリニャーノ神父と記録の混同 ー 宣教師の記録にあることとないこと③

        弥助に関してポルトガル語文献含め調べたことまとめの続き。記録にはあるが参照のされ方がおかしい?小ネタについて。 ベースはこれまで同様、国立国会図書館デジタルコレクションの村上直次郎「耶蘇会の日本年報」及びそのオリジナルであるコインブラ大学のデジタルリポジトリのManoel de Lyra編のいわゆるCartasです。 (2024/7/2 ポルトガル語の解釈違いに関して追記) 以前のものはこちら。 記録に書いてある?「其丈の高さに少からず驚き」 弥助の身長に関しては、「家

        • ”黒人侍”弥助と本能寺の変 ー 宣教師の記録にあることとないこと②

          せっかく調べたので弥助関連備忘録、本能寺の変周辺。これまでの内容は以下。 (2024/6/23 資料のキャプチャ追加と誤字修正) 弥助、本能寺の変にて戦う宣教師ルイスフロイスによる記録 本能寺の変による信長の死という大事件に際し、宣教師ルイスフロイスは通常の年次報告とは別に追加の報告を母国に送っています。その中に数少ない弥助に関する記録の一つがあり、内容は以下の通りです。 信長の死後、世子(信忠)の邸で戦って降伏した、という内容です。 なお、ビジタドールというのは宣教師

        ”アフリカンサムライ”弥助伝説の誕生と拡散② ー ソースはウィキペディア(のソースもウィキペディア)

        • ”アフリカンサムライ”弥助伝説の誕生と拡散 ー とあるユーザによるウィキペディアへの貢献

        • “黒人侍”弥助とヴァリニャーノ神父と記録の混同 ー 宣教師の記録にあることとないこと③

        • ”黒人侍”弥助と本能寺の変 ー 宣教師の記録にあることとないこと②

          ”黒人侍”弥助、殿になる?ー宣教師の記録にあることとないこと

          こちらの続き。 せっかくの興味深い対象なので、弥助に関して実際の記録にあることとないことを調べた結果の備忘録。今回は弥助が殿になるという噂?について。 参考にしたのは、コインブラ大学のデジタルリポジトリにて閲覧できるManoel de Lyraが宣教師達からの報告をまとめた書籍(1598, タイトルは長いので省略, 以下原文)と、国立国会図書館デジタルコレクションにて閲覧可能なこの本の日本語訳、村上直次郎「耶蘇会の日本年報」(1943, 以下日本語訳)です。 弥助、殿にな

          ”黒人侍”弥助、殿になる?ー宣教師の記録にあることとないこと

          記録文書で見る”黒人侍”弥助

          最近話題の”黒人侍”弥助に関して、少なくとも原文は同時代に描かれた記録に残っている内容と、最近誰かの想像したフィクションとが混ざって語られていることが多い為、「記録」に関して備忘録としてまとめます。 (2024/7/2 家忠日記の原本に関する説明追加) 弥助に関する記録の比較弥助に関する記録一覧 上記表のとおり、弥助に関する記録が残っているのは「信長公記」「家忠日記」それぞれ1か所ずつと、イエズス会宣教師による記録3か所の計5か所のみです。 内容は信長と弥助の初対面の際の

          記録文書で見る”黒人侍”弥助