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ジュウ・ショのサブカルマンガマガジン

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マンガについてサブカルチャー的な視点から紹介・解説。 学術書とか解説本みたいに小難しくなく、 極めてやさしく、おもしろく、深ーく書きまーす。
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1960年代マンガの記事が出ました。断言します。まるわかりです!

fumufumu newsさまより記事が出ました〜。1960年代のマンガについてです。 これを読めば1960年代のマンガのすべてがまるわかりです。あの……「まるわかり」って書く記事でまるわかったことないでしょ。いや、でもマジで自信持って断言します。これ「まるわかり」です。1万字くらい、論文レベルで書いてますので、読んでほしいです。ぜひぜひ〜。

なぜ「スポ根漫画」は滅びた? 1960年代〜70年代の価値観の変化を紐とく

マンガは世につれ、世はマンガにつれ……。マンガというのは、それぞれの時代で特有のブームが起こる。で、マンガのおもしろいのは、小説や映画といったエンタメ創作物に比べて「社会トレンド」とリンクしやすいのである。めちゃくちゃタイムリーなメディアなのだ。 なぜか。シンプルに「1本の話を作る時間が短いから」だ。例えば映画、長編小説、音楽、演劇といった総合芸術は、一作をつくるのに早くても数カ月、長いと数年かかる。最近は技術の発達、ナレッジの蓄積もあって、高速化している気がするが、それで

「綺麗な顔してるだろ。」あのタッチの名シーンは、なぜマンガ史に名を刻んだのか

「綺麗な顔してるだろ。うそみたいだろ。死んでるんだぜ。それで……」 もうこれは日本マンガ史に残る名ゼリフだ。「クリリンのことかー!」とか「諦めたらそこで試合終了ですよ」とかに並ぶほどのモンスター級の名シーンである。 もちろん言わずもがな、あだち充のマンガ『タッチ』のいち場面である。初出は1981年。私は完全に世代じゃない。 ただ、タッチは少年時代にCATVかレンタルDVDかのアニメで観ていた記憶がある。南が暗い病室に入っていく場面では「え……」と思った。「嘘やん、カッち

ヤンキーマンガ(不良マンガ)の歴史|1960〜2020年代までのマンガを「ヤンキー像」とともに振り返る

「私の中学には窓が1つもなかった。理由は単純で「割られるから」である。冬休みに入るころに生物のおじいちゃん先生が、手を擦りながら「あぁ寒い……」とこぼしたのを見て「無理すな。もう防弾ガラスでもつけろ」と思ったのをめちゃめちゃ覚えている。 福岡市博多区の我が学び舎は、地元でも有名なヤンキー校で、出席率が異様に低く、私服率が異様に高かった。バイクに2人乗りでやってくる輩もいれば、万引きした文房具などを学校で売り捌いている利益率100%の商売をしてる奴もいた。卒業式には警察が張っ

戦時中のマンガ・アニメとは|のらくろ、ディズニー、桃太郎などを通して平和を知る

私は「はじめてのおつかい」で泣けない。迷子になって、スヌーピーのアップリケがついたきんちゃくを地面に置いて「おかあさん‥‥」となってる子を見て「ちょ、おいおいおいおい無理すな無理すな。ちょいちょい、これディレクターが助けてあげんと……」と焦ってしまう。 ただ、凶悪な事件があったとき、または暴力的な出来事が起きたときに、なぜか高確率で「はじめてのおつかい」を思い出して泣きそうになる。 真顔のニュースキャスター観ながら、頭のなかで「ドーレミファーソーラシドー♪」が鳴り始め「あ

さいとう・たかをとは|マンガ界にもたらした「劇画」と「ハリウッド式の制作体制」について紹介

2021年9月24日、さいとう・たかを先生が亡くなった。誰か有名人が亡くなって「あぁ、ちょっと悲しいな」ってのは久しぶりでした。 それは彼がマンガ界にもたらした偉業を存じているからで、水木しげる先生や赤塚不二夫先生が亡くなったときにも感じたが「日本の文化を作り上げた人がまた1人……」という、なんともふんわりした寂しさだった。 大学生のころ「アフリカ!」でおなじみ「アストロ球団」から劇画にハマった時期があった。ぜひ読んでほしいよ「アフリカ」。マジで「黒子のバスケ」が霞むくら

祖父江慎のブックデザイン|「誰もやってないからおもしろい」という話

数年前、祖父江慎さん(以下、僭越ながら敬称略)にお会いした。彼が代表を務めるコズフィッシュが関わるお仕事に、ホント「カスる」くらい参加させていただいた。それ以前からもちろん大ファンだったので、実際に目の前にすると興奮したものだ。 祖父江慎さんは、ブックデザイナーである。「装丁画家」ではなく、ブックデザイナーだ。ではブッデザインとはなんぞや、というと「本そのものをデザインする仕事」です。表紙はもちろん、中の紙質、印刷の色、フォント、行間の幅、ノンブル、スピンに至るまでをデザイ