見出し画像

ねじれた私の「好き」「嫌い」という感覚

きりしまのどくはくシリーズを書いてしばらくが経った。
書いている間、昔のことをいい意味で客観的に振り返ることになった。
その中で気づいたことがある。
家庭に対する、私の感覚が「ねじれている」という気づきである。

私は物心がついたときから、両親へのなんとなくの違和感を感じていて、親の前で自分らしく振舞えなかったり、母親に嫌なことをされたり言われたりしていた。
母から「あんたは川の下で拾ったんよ」という冗談を鵜呑みにし、「自分が拾い子だからだ」という認識でいた。

中学の時にリストカットをして、それを打ち明け、血が繋がっている正真正銘の子どもだといわれた。
じゃあ違和感はなんなんだろう、両親が嫌なことを言ったりしてきたりするのはなんでなんだろうと考え、「嫌なことをする」ということは、「私のことが嫌いなんだ」という認識をした。

そして高校三年生の時、母が発達障害を持っていることを知り、コミュニケーションが人よりも難しいことを知り、「嫌な言い方しかできない」「人に伝わりづらい言い方でしか言えない」ことなどを知った。
両親が、私のことが嫌いで嫌なことをしているわけではなかった。
むしろ私がたぶん大事だからこそ、そしてわからなかったからこそ、結果的にひどいことになってしまった。

この認識のずれに、私はついていけなかった。
ずっとねじれている。
「嫌なことをしてきたのに好きだった?」
「傷つけてきたのに嫌いじゃない?」

なにを信じたらいいかわからない。
両親に対する戸惑いが大きい。
ずっと彼らに「嫌われている」と思いながら生きてきたから、今更大事にされても気持ちが悪い。
なにが正しいんだろう。
好きだったら傷つけてもいい?
悪気がなければ、傷つけたことが、正当化される?

私はずっと辛いままだ。
傷ついた事実は消えない。
答えが見えない。
ねじれたのは、両親ではなく、私だった。

毎日のコーヒー代に。