見出し画像

「発展途上国の不幸の上に成り立つ何か」など、ないのかもしれない

小静ちゃん、サンへ。

ものすごく豊かな気づきがあって、シェアしたくなって、書いているよ。

昔、とある人が「100円ショップやファストファッションを利用するのは、発展途上国いじめに加担している」と言っていたんだけど。

こう言う人は、たいてい、いかなる状況でも100均やファストファッションを使わないよう避け続ける。で、その不便さの積み重ねの中で、たいていイライラしている。

そして、「そのての安いもの」を自由に買っている人を、「いじめに加担してる」と言う言葉で責め、うっかり使ってしまった自分を責め、実情を知らなかった過去の自分を責め、要するに、見えないエネルギーで自他を刺しまくっている。

逆に、100均大好き、ファストファッション大好きな人。それだけじゃなく、ペットボトルも日に何本も買い、添加物てんこ盛りで、ぜんぜん平気な人。つまり世界の不平等や、自然環境にめっぽう無関心の人。こういう人が、わたしの家族に一人いるのだけど。

わたし自身、ゆるめのエコロジストなので、彼のノージャッジの範囲が広すぎて、さすがにザワザワするのだが…。このタイプの人の幾人かは、誰が何をしていてもイライラしないし、常に楽しそうだし、誰かの責めの言葉に腹を立てても秒で忘れるし、ほとんどいつもご機嫌なのだ。

たぶんだけど、冒頭の「とある人」よりも、彼の方が半径10メートルの人たちを圧倒的に幸せにしている。そして人間はみんな、半径10メートルくらいの人たちしか、幸せにできないんじゃなかろうか。

自分を含め周囲の人を、責めて痛めつけていたならたぶん、誰のことも幸せにできていない。守りたかったはずの発展途上国の人たちも。

だけどわたしの中にずっと葛藤があって。

それが、「とはいえ不当労働にあえいでいる人は実際にいる」という痛みだった。そのことを思うと、やっぱりどうしても心の奥がヒリヒリした。

ところが最近、衝撃的な気づきがあったんだ。
ふとさ。「ジャッジせず、ただもらう」ってことを、ずっとわたしは拒否してきたと、気がついたんだよね。

とくにさ。
「この人、請け負うと言って聞かないけど、身体が悲鳴あげてるよ」と思ったら、何としてでも断ったり、その「悲鳴の対価」を、身銭を切って多めに払ったりしていたんだ。

けれど、ノージャッジの彼が、平気な顔で受け取るんだよね。「くれるんだ!ラッキー!」くらいの勢いで。たとえ、その労働の果てに相手が病気になっても「そう言う学びが必要だったんだよ」なんてスタンスで。

そして驚くことに、配慮のない誰かのせいで、自分もうっかり身を削って無償労働する羽目になっても、何とも思わない。
たとえ、そのためにひどい病気になったとしても。そこにある体験を味わって、自分なりの気づきを得て、肥やしにして、ただ、ご機嫌に生きている。

その姿を見て、ハッとしたんだよね。

今まで、わたしは、どれだけ自分の物差しで、あらゆるものを受け取らず、生きてきたんだろうってさ。他人の選択を、他人の人生を、「それはあなたにとって不幸でしょ。だから受け取れない」と決めつけ、拒否してきたんだろうって。

もしかしたら、これを読んでいる誰かさんは、「いや、あなた方は自分の自由で選んでいるだけだ。発展途上国の人たちは、望んで搾取されているわけじゃない。搾取されるシステムにがんじがらめになって、不当に痛みに耐えている。彼らの犠牲の上に、〝ファストファッションの安さ〟があるんだよ」と言うかもしれない。
少なくとも、冒頭の「とある人」ならそう言っただろう。

だけど、それはやっぱり、ゴウマンな発想であるような気がするんだな。

わたしは、少し大げさに言えば、虐待の家に育ったけれど「虐待の家に育ったゆえに、トラウマゆえに、不幸だ」とは思っていない。厳密には、過去にそう思っていた時期もある。

だけど、あの環境に生まれたからこそ体験できたこと、気づけたことに、心底「よかったな」と思っているし、両親にも感謝している。軽いADHDのため、学校でもいじめにあったけれど、その自分のスペックも、学校の環境も、「かけがえのないわたしの人生だった」と思っている。

すべての人たちに言えると思うけど、「環境や状況のせい」にして生きている限り、不幸であり続ける。「~のせい」と思って生きる限り、苦しみから抜け出せない。

けれど与えられた環境の中で、自分を愛する道を見つけることができたなら。「~のせい」は「~のおかげ」に替わり、たとえ環境が牢獄でも、その人は深く深く幸せである。

「発展途上国の人たちの不幸の上に、この〝安さ〟が成り立っている」と考えることは、人間の命への、冒涜であるかもしれない。どんな状況であっても、どんなシステムの中にいても、その人は、自分で自分の人生の責任を取る権利がある。幸せで〝いる〟力があるのだから。

おそらくわたしは、これからも、ゆるめのエコロジストであり続けると思う。化学繊維よりは天然素材が好きだから、100均もファストファッションもそうは利用しないだろう。

だけれどもう「誰かの不幸の上に成り立つもの」なんて解釈は、少しもしないで生きていく。そうすることが、世界中の人たちの命を、その力を、信ずることだと分かったから。

そして、「誰かのいじめの上に、成り立っているものなどないんだよ」とささやいて、「とある人」と例えた、若かりし頃のわたしのことも、優しく迎えに行ってやるつもりだ。

犠牲者であり続けた若いわたしは「弱者が犠牲になっているんだ!」と叫ぶしか、生き抜く術を持たなかった。
その痛みを理解し、抱きしめて、ゆるしてやるつもりなんだ。

モク

魔法の占星術テキスト『モッくまくんの星のレッスン』の著者。書籍での独学は難しいと言われる西洋占星術を、知識0の状態から読み始め、「即日使える」レベルにまで習得できるマスター本です。moccuma.net では、第一章からすべてを試し読みいただけます。