反発しながら相互に依存、「楕円」的観点
こんにちは(*'▽')
ひとつの価値観で突っ走れれば、単純明快で悩む必要もありませんが、そうはいかないのが自然みたいです。アンビバレント(価値両義的)、葛藤、引き裂かれるような心境、白黒つかないグレーゾーンを自分の身に引き受けられることが「成熟」ということらしいのです…!!
(2018年…)いま「カジノ法案」が云々されていますけど、わたしはカジノに対して「それはやめたほうがいいよ」という立場なんです。博打の話を、真昼間、公道でするものではないということです。それも、儲かるからやるべしなんて、政治家やビジネスマンが言うのは下品じゃないか。直感的にはそういうことで、カジノ法案なんていうのも、まあなんと下品なことを言っていると思うわけです。
でも、カジノをやめたほうがいいということを論理的に証明していくのってなかなか難しいんですよ。
じゃあ「パチンコとか競馬とか賭麻雀とかやってるじゃねぇか。お前らやってないのか」というふうに言われたときにね、ちょっと困ってしまうわけです。「もしカジノがダメだと言うなら、そういうのも全部ダメだと言うべきだ」と。
なるほど。きっぱりと白黒つけたいのですね。
そういうふうに言われるとなかなかそれに対して返す言葉がないんですね。
こういうことって、世の中には結構多いのではないかと思います。
たばこがダメだって言うのなら、酔っぱらいは周囲に迷惑かけるし、身体にも悪いからダメじゃないかとか、鯨を食っちゃダメだと言うなら、牛や豚を食っているお前は何なんだとかね。
論理的には、一見正しいことを言っているように聞こえる。
でも、そういう言い方って、なんか子どもっぽい。
ちょっと違うんじゃないかと思う。では、どこが違うのか。
そもそも二者択一の問題ではない、程度の問題を、黒か白かの二者択一の問題と読み替えてしまっているのです。こういう問題は、たとえば健康とか、動物愛護とか、部分的なカテゴリーについて適用されるべき一つの物差しで、すべてのことの適否を判断することによって起きるのだとわたしは思っています。
文脈というものを無視すれば、ほとんどの問題を、デジタルな〇か✕かの問題に読み替えることが可能になるのです。
最近の政治的な話題で言えば、北朝鮮の問題で、対話か圧力かというものがあります。それで、メディアがどちらを支持するのかというアンケートまでしている。たとえば、輸出制限などの圧力は、目的ではありません。そもそも対話の道を切り拓くために行うのであって、相手を苦しめることを目的としてやっているわけではないのに、対話か圧力か、外交努力か武力制圧か、みたいな二者択一の問題にしてしまう。
やはり、子どもっぽい。
大人の政治家やジャーナリストが、そんなんでいいのかなと思います。
問いの立て方自体が間違っているのです。
政治的な課題に関しては、往々にしてこういうことが起きますね。
話題をカジノに戻しますが、わたし自身について言えば、競馬もパチンコも麻雀も嫌いではないんです。弱いんですけどね。ですからギャンブル一般に関して、それは倫理的に問題があるからやめろとは言いません。あってもいいと。これを「ぜんぶやめろ」と。ギャンブルみたいなものを「ぜんぶやめろ」と言うことには大きな違和感を覚えます。たばこも「ぜんぶやめろ」、身体に悪いから、「お酒もやめろ」と言う方がいますけど、これも同じ理由で違和感がある。
そういうのは基本的には、一つの物差しで、社会を分断し、差別し、排除してゆく全体主義に向かう可能性があると思っているからです。よい全体主義というものも、あるのかもしれませんが、わたしは、あまのじゃくですから、全体主義的なものには身体的な拒否反応が起きます。それって、危ないんじゃないかと、身体のアラームが鳴るのです。
純潔思想は、必ず、「汚れたもの」「混じり合ったもの」に対する、差別意識となってあらわれるのを、これまで何度も見てきていますからね。
たばこなどは、そのいい例で、お前の吐く息には害毒が混じっている。それを、公共の場で吐き出さないでくれというわけです。
わたしは、肺がんをやって、右肺の一部の摘出手術もした身ですので、たばこに関しては、ちょっと距離を置いていますが、それでも、他者がたばこを吸うことに関して、いかなる嫌悪も感じません。
これは、マナーの問題であり、節度の問題だと思っているからです。マナーとか、節度というのは、オールオアナッシングじゃないということです。多様な視点があり得ることを認めて、全体最適を見出そうとしていく態度です。マナーは、不快な隣人と、共存していくための工夫なのです。
だから、たばこに関しては、分煙で十分だと思っていますが、オリンピックが近づくにしたがって、禁煙熱は高まり、喫煙者はますます肩身の狭い思いを余儀なくされることになりそうです。
わたしは、こういうものは、グレーゾーンがあっていいじゃないかと思っています。
◆ ◆ ◆
そもそも、相反する二つの事項、異なった原理を有する二つの事項について考えるときに、どちらか一方だけに収斂させれば問題が解決すると考えるのは、成熟した大人がやるべきことではない。
後に、詳しく述べますが、人間が善と悪に引き裂かれるのも、徳と欲望に振り回されるのも、楕円のように、二つの異なった原理がせめぎあい、社会を構成しているからだと思うからです。アンビバレント(価値両義的)であることが、自然なのです。
ギャンブルを例に話を整理すると、賭場の原理と、世俗の原理という二つの原理がわたしたちの社会をつくっているということです。
賭場の原理というのは、人情無縁の「無縁」の原理なんです。一人ひとりが縁を結ばず、金だけが支配している社会です。だからそこには中央権力が定める法律も及ばないし、世俗のしきたりも希薄である。
そういう逃げ場がないと、世俗の社会をはじき出されたものは、死ぬしかなくなってしまいます。共同体が存続してゆくために必要なことは、脱落者を出さないことです。共同体の規範を逸脱しても、いつでも戻ってこれる通路を用意していることです。村八分にあったとしても、二分は共同体との通路として残している。
だから、「無縁」の原理を必要としているのは「有縁」の場なのであり、「有縁」の原理もまた「無縁」の場が必要としているともいえるだろうと思います。これについては、もうすこし丁寧な説明が必要かもしれませんね。
中央権力による法的な規範や、世俗のしがらみによる拘束力が及ばないところが「無縁」の場です。今風の言葉で言えば、市場原理で貫かれた場所ですね。
『無縁・公界・楽』の著者である歴史家、網野善彦が書いているのですが、日本では「無縁」の場の原初的な形態として駆け込み寺というのがありました。それは中央権力、幕府の権力が及ばないところでした。なぜ、中央権力が及ばないかといえば、それは、世俗渡世の秩序を司る中央権力が拠り所としている原理が、彼岸の原理に拠る寺への権力行使を憚ったからです。だから、超法規的な場所である駆け込み寺に逃げ込めば、とりあえず世俗の社会では生きていけない人間でも生きていける。
そうした「無縁」の場所でしか生きていけない人間もいるわけですよ。たとえば、生活習慣の違いや出自に対する差別によって、世俗の共同体原理から排除された芸能者、罪人、遊女、まつろわぬ人々など。
ふとした諍いからひとを殺めてしまう。これはもう世俗の社会では取り返しがつかないことなんだけど、縁切寺に行けば、そこはとりあえず「無縁」の社会だから、世俗の拘束力からは逃れることができる。そういう場所をこの人間社会はつくったわけですね。人間は自ら犯してしまった取り返しのつかない罪に対して、原理的には責任を取れないから、責任そのものを、信仰や謝罪の儀礼へと変換する場所が、必要だったということかもしれません。宗教が立ち上がるひとつの大きな理由は、取り返しのつかない負債(返済不可能な負債)を、等価交換とは別の仕方で返済する仕組みが、人々に要請されていたということではないでしょうか。そういう場所がなければ、人を殺めてしまった場合には、「じゃあお前も死ね」という報復によるしかなくなってしまいます。等価交換の原理だけでは、うまくいかないことがある。
世の中には、「有縁」の場と、「無縁」の場が様々に形を変えて存在しています。
宗教的な場、世俗の場、ビジネスの場という三つの場で考えるとわかりやすいかもしれません。宗教的な場は「許し」の場であり、世俗の場は「贖罪」と「許し」がせめぎあう場であり、ビジネスは厳格な等価交換の場だということです。
網野善彦によれば、列島の沿岸部、周縁部には、自分の持ち場を持たない遍歴する商人が行き交い、犯罪者、芸能者、遊女、連歌師、勧進僧といった列島を漂流して生きている人々が集まる場所が、吹き溜まりのようにできてきます。それこそ、「逃れの町」ですね。その場所は中央権力の影響圏から隔離され、それゆえにアジール(※)としての性格を持つようになった。衆生に縁なきものも、この場所でなら、自分の才覚次第で生きていけるところ。そして、これこそが市のはじまりだというのが、網野説であり、わたしは深く同意するものです。
※アジール…【Asyl 独語】世俗の世界から遮断された不可侵の聖なる場所、平和領域。自然の中の森・山・巨樹や、奴隷・犯罪者などが庇護される自治都市・教会堂・駆込寺など。広辞苑第五版より。
市とは、「無縁」の原理によって貫徹されている場所であり、それは、今日の市場の原理と同じ発想だろうと思います。
そして、「無縁」の原理で動いている最も典型的な場所が、賭場なんですね。
それに対して本来我々の世俗の社会は「有縁」の社会です。縁でがんじがらめにつながっている社会です。
最近は、マンションの隣人の顔も知らないというのが、かなり一般的になり、社会全体が「無縁」化しているのですが、それはまた別の問題です。
わたしたちが、日常的に生活している社会の基本原理は、「縁」でつながっているということです。だからこそ、「縁」からはじき出された人々には、「縁」の原理が届かない場所である「無縁」の場をつくったのです。「縁」と「無縁」は、相互に排斥し合いながら必要としているという関係にあります。
シェイクスピアは、名作『ヴェニスの商人』で、キリスト教的な兄弟盟約的な愛で結ばれたバッサーニオやアントーニオと対立するかたちで、孤立無援のユダヤ教徒であるシャイロックを、自由交易都市ヴェニスに登場させました。そうすることで「有縁」の社会の住人と「無縁」の社会の住人が、相互に憎しみ合いながらも必要としている様子を描き出したのです。(略)
この映画では、「縁」の社会の、軽薄で、芝居ぶっていて、インチキ臭いところを強烈に描き出していました。
「縁」の社会だけで「全部やれ」ということになれば、人間は生きにくくなる。息が詰まる。現実には、そんな社会はどこにも存在していない。それはひとつの、空想上のモデルに過ぎない。にもかかわらず、モデルを現実だと思ってしまう。誰がいつどこで何をしているのかを、村人全員が知っているような社会だけしかなければ、誰だってそこから逃げ出したくなるはずです。しかし、「縁」の社会だけしか無ければ、そこから逃げ出そうとすれば、裏山か、河原で乞食になるしかない。だからこそ「無縁」の社会みたいなものを人間はつくったわけですよね。
そこに逃げ込めば、「縁」の社会との関係を絶つことができる。氏素性を問われることがない。出生や職業で差別もされない。
「複雑な事情から、やむを得ず、ひとを傷つけてしまい、誰も自分の名前も、素性も知らない地方都市に逃げ込む。その地の小さな居酒屋に職を見つけて働いているうちに、女主人と情を通じるようになる。二人は無縁の地でささやかな縁を結ぶことになる」。この話型は、様々なバリエーションで、映画化されてきました。高倉健が似合う役柄ですよね。
渡世の「縁」が及ばない場所という装置を、人間社会はどこかで必要としている。
「有縁」の場と「無縁」の場は、社会が生成される過程で、自然に二つの焦点になっていったのだろうと思います。
逆に言えば、二つの焦点の周りに、社会が形成されてきたのです。
平川克美
『21世紀の楕円幻想論 その日暮らしの哲学』(ミシマ社、2018年) 4・「有縁」社会と「無縁」社会――異なる共同体原理、より
うつ状態になって学校に通えなくなったとき、休学してるあいだ喫茶店で働いていました。むかし流行ったステーキハウスだったものの、銀行に倒産をさせてもらえないから?続いてる、モーニングセット・カフェメニュー・洋食プレートを出すお店でした。わたしの個人的な状況を根掘り葉掘り聞くなんてことがまったくなく、来店客ゼロの時は片付け・準備で手を動かしながらボーッとできる確かな居場所でした。これは「無縁」のよさ。
映画『ホテル ビーナス』(草彅剛・主演、2004年)の世界観にも助けられていました。場末のホテルに辿り着いた人たちは、みな心に傷を負っていて、立ち直る人あり、さらに心を閉ざす人あり。「有縁」社会で生きていけない人の避難所の性質が色濃く、かといって、もう絶対に「有縁」には戻れないという絶望感が支配しているのでもない、グレーゾーン。周囲にあれこれ言われることなく、ひっそりと、息をしているだけのような時季だって、思い返せば人生のひとコマです。
すこし長く生きていればいろいろな局面があり、まったく積極的に生きられないときもあります。そんな状態でも野垂れ死にを避けられる社会であってほしいな、と願っています。
Let's have bifocal viewpoint ☆
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