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神の使いは生きる意味を模索する:「エターナルズ」感想

アンヌ 「ノンマルトってなんなの?」
真 市 「本当の地球人さ」
アンヌ 「地球人?」
真 市 「ずっとずっと大昔、人間より前に地球に住んでいたんだ。でも、人間から海に追いやられてしまったのさ。人間は、今では自分たちが、地球人だと思ってるけど、本当は侵略者なんだ」
アンヌ 「人間が、地球の侵略者ですって?」
真 市 「……」
アンヌ 「まさか……まさか……」

ウルトラセブン 第42話「ノンマルトの使者」

※ このnoteには「エターナルズ」のネタバレがあります。

ヒーローは一体なんのために戦うのだろう。自分の信じる正義を貫くため?愛する地球を護るため?それとも、与えられた職務を全うするため?マーベル・シネマティック・ユニバースの歴史は、この「なぜ戦うのか」という問いに対するこたえを探す旅と言い換えてもいい。トニー・スタークも、スティーブ・ロジャースも、ソーも、生まれながらのヒーローではない。もともとは偉大な父をもつ武器商人であり、星条旗を愛するブルックリンの愛国者であり、血気盛んな神の国のプリンスであった。世界の運命を左右するミッションを背負わされるなんて露ほどにも思っていなかったであろう。しかし、彼らは運命の糸に導かれるようにして、戦いの世界に身を投じていく。たとえそれがみずからが望む形でなかったとしても、だ。だから、チタウリの侵略からニューヨークを救い、アベンジャーズの一員として誰もが憧れる「スーパーヒーロー」になったあとも彼らは苦悩し続ける。倒しても倒しても敵は現れる。むしろ、良かれと思ってしたことが裏目に出て、次なる危機の芽を育んでしまう。しかも、ヒーローになってしまった以上、逃げたくても逃げられない。望むと望まざるとかかわらず、彼らはヒーローとしてだれかを助けられるだけの力を手にしているのであり、自分の代わりにやってくれる人も居ないからである。アベンジャーズは終わりなき戦いの中で疲弊し、理念のちがいから衝突と分裂をくりかえす。ひとつ答えを見つけても、またあらたな疑念が首をもたげてくるのだ。苦しみの連鎖から解放されるには、結局、ほかの誰かに役割を任せてヒーローの座を降りるしかない。トニー・スタークはみずからの命と引き換えに人類を救い、スティーブ・ロジャースはもうひとつの世界線で「ふつうの人生」を歩むことを選んだ。身もふたもない話だが、ヒーローである限り、「なぜ戦うのか」という理由付けは、つねに問われ続けるのである。

その点、クロエ・ジャオ監督によるシリーズ最新作「エターナルズ」は、趣が異なる。主人公たちの戦う理由がはじめから示されているからだ。宇宙の創始者・セレスティアルズに遣わされた異星種族のヒーロー集団・エターナルズは、紀元前から人類の進歩を見守るミッションを背負う、いわば地球の守護者である。先に挙げたヒーローたちの能力が後天的なもので、力を得た後に戦う理由を探さなければなかったのに対し、エターナルズは生まれながらのヒーローであり、超能力の使いみちも明確である。だから「なぜ戦うのか」をいちいち悩む必要がない。平たく言えば、それが彼らのアイデンティティなのだ。

しかし、当然ながらエターナルズの存在理由は「神から与えられたミッション」が正しいという前提の上に成り立っている。前提が崩れれば、エターナルズは戦う理由を失うどころか、なぜ自分は生きているのか?の根幹すら奪われてしまう。これはもしかしたら「なぜ戦うのか」というこれまでのヒーローの苦悩より深刻な問題かもしれない。エターナルズは戦うために生まれた存在であり、戦う理由が揺らいだら、みずからのアイデンティティそのものが無意味なものと化してしまうからだ。

じっさい、エターナルズはなんどもこの壁にぶち当たる。どれだけ懸命にディヴィアンツを倒そうとも、人類は懲りずに戦争を繰り返し、血を流し続ける。しかし、セレスティアルズは、人類同士の戦いには介入するなと云う。「テノチティトランの戦い」に立ち会ったエターナルズは、目の前でジェノサイドが行われているのに、先住民を手助けすることすら許されない。放っておけば自滅するかもしれない人類は、果たして護るに値する存在なのだろうか?原子爆弾の投下によって死の土地になった広島を見て、この問いに自身をもってイエスと答えられる人が、どれだけいるのだろう。ここで描かれるジレンマは、冒頭に引用した「ウルトラセブン」第42話「ノンマルトの使者」を思い出す。正義のない世界で、正義を貫き続けることは難しい。圧倒的なスーパーパワーを持ちながらも殺し合う人類をただ見ることしかできなかったエターナルズが無力感に苛まれ、やがて空中分解していったのも当然と言えるだろう。しかも、彼らの誕生の理由には秘密があった。人類はセレスティアルズが生まれ変わるための培養装置であり、エターナルズはその培養を妨害するディヴィアンツを取り除くための道具でしかなかったのだ。彼らが必死で護ってきた人類はやがて神の再生のために殺される。「神から与えられたミッション」は、極めて残酷な儀式の露払いでしかなく、悩みながらも築き上げてきたアイデンティティはすべてウソに立脚したものだった。いよいよエターナルズの存在理由は解体されてしまうのである。

ノマドランド

ここまでの展開を追って、ふと気づくことがある。この「生きる意味の消失」は、クロエ・ジャオ監督が繰り返し描いてきたテーマなのだ。彼女の出世作「ザ・ライダー」は、ロデオ競技中の事故により後遺症を負ってしまったカウボーイが、ロデオへの捨てきれない想いと、次同じことが起きたら二度と元には戻れないかもしれないという恐怖のあいだで葛藤しながら、これからの人生を模索する作品だった。また、アカデミー作品賞を受賞した「ノマドランド」も同様に、リーマンショックによる企業倒産で住み慣れた土地を追われた中年女性が、過酷な車上生活と季節労働で糊口をしのぎながら、自由を誇りに荒野を進み続けるさまを詩情たっぷりに描いている。そして、どちらの作品でも印象的な、どこまでも地平線が伸びていくアメリカの荒野は、からっぽの器になってしまった主人公の心象風景そのものだ。あまりに雄大なその景色は、僕の一生なんぞこの地球上に爪痕ひとつ残すことはできないのだという絶望すら抱かせる。しかし、この生命の匂いのしない寂しい景色を、美しく、そして、自由な空間として描くところにこそ、クロエ・ジャオ監督の美点がある。たとえ自分が「生きる意味」だと信じていたものが奪われてしまったとしても、僕たちはまだ生きていける。自分の足で大地に立っていられる。朝起きて、仕事をして、ご飯を食べて、寝て…のサイクルを繰り返せば、ひとまず前には進んでいける。いくら僕ひとりが絶望したって地球は変わらず回り続けるんだという身も蓋もない安心感が、クロエ・ジャオ監督の作品にはあるのだ。

「エターナルズ」も根幹の部分は「ザ・ライダー」や「ノマドランド」と同じである。エターナルズは「神から与えられたミッション」のウソに気づき、いちどは路頭に迷うけれど、それぞれにみずからの物語を模索しはじめる。ある者は愛する地球と人類を護ることを選んでセレスティアルズの掟に背き、またある者はみずからの使命を信じ続け、反発する仲間を手に掛ける。何千年も想いを寄せ続けた相手の信念に付き従うことで心のスキマを埋める者や、分裂する仲間たちの選択にすべてを託す者もいる。この映画では、だれの選択が正解かを明確には描いていないと思う。もちろん地球を救うことを選んだ実質的な主人公のセルシたちがヒーローであることに間違いはないけれど、かといってセレスティアルズに与えられた使命を自己暗示的に全うしようとしたイカリスが完全な悪役として描かれるわけでもない。(殺人を犯しているので一線は超えているのだが)。僕たちの「生きる意味」は、なにかを得ようとしたり、成し遂げたりした瞬間ではなく、大切なものを失ったときにこそ問われるのだろう。「エターナルズ」はマーベル・シネマティック・ユニバースの最新作であると同時に、まぎれもなく「ザ・ライダー」や「ノマドランド」と地続きのクロエ・ジャオ作品であった。

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