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渡邉美穂の卒業と世界の終わり

渡邉美穂がアイドルを卒業する。

振り返ってみれば、僕が日向坂とともに歩んできたこの二年半は、思い通りに行かないことばかりだった。胸を張って、いまのところ僕の人生でいちばんの谷だと言い切ることができる。二年前の春に彼女に振られて、そのまま世の中はコロナ禍に突入し、年末年始は濃厚接触者になって一歩も家から出られず、年が明けて心機一転と思ったらこんどは職場で激務の部署に飛ばされ、毎日のように怒られたり、寝る時間を削って仕事をしたりしている。2022年になったらなんとか持ち直そうと思ったけど、結局、どんよりした2021年の延長でしかないまま、もう折り返し地点に来てしまった。ずっと低空飛行。これ以上高度を落として墜落しないように踏ん張るしかない。

だから、日向坂にハマったのも、ある意味当然なのかもしれない。たしかにこの二年半、僕は日向坂46を心の支えにしていた。日曜の夜に「日向坂で会いましょう」を見る時間はなによりも癒やされたし、チームで団結しながら、夢に向かってじぶんで道を切り開いていくメンバーたちの活躍に心躍らせ、勇気をもらった。

このあいだ数年ぶりにアメコミ好きのフォロワーと再会して飲む機会があった。出会った当時はお互い大学生。社会人になってひさびさに会っても前と変わらず、いや、これまで以上の熱量でたのしくおしゃべりした。しかし、最後に会ったときと決定的に違う事情がひとつだけあった。しばらく会わない間にふたりとも坂道グループにのめり込んでいたのだ。

「まさかじゅぺさんとアイドルの話するとは思いませんでしたよ。」

開口一番そんなことを言われて、本当にまさかでした、なんて笑いながら、あなたはどんなキッカケでハマったんですか?なんて話をすると、やっぱり彼も仕事が辛くてしんどいときに乃木坂46に出会ってだいぶ救われたと教えてくれた。アイドルにのめり込むのは出会い頭の事故のようなもので、タイミングと角度がとても重要なのだ。「あの頃。」の劔とあややの邂逅ほど鮮烈でないにしても、確実に、ガツンとやられてしまう瞬間がある。それはとても神秘的で、美しいものだ。オウム真理教で身を滅ぼした元信者たちの体験談をまとめた本を読んだことがある。麻原を信じてしまうパターンはだいたいみんな同じで、非科学的な考えを信じないまじめな青年たちが、生きる意味に悩んでいたタイミングで、神々しい光を見たり、解脱したりといった宗教的な「体験」をしてしまい、あっさりその荒唐無稽な世界観に屈する…というものだ。アイドルに「オトされる」瞬間も大概同じだと思った。


アイドルと宗教を結びつけた語りなんて散々手垢がついているのでいまさら深堀りつもりもないけど、たしかに僕がアイドルに惹かれたのは、間違いなく「終わり」の存在を知ったからだ、ということだ。はじまりがあれば必ず終わりがある。

なんども繰り返すのは恥ずかしいけど、僕にはまず第一に失恋があって、僕と別れた直後と知りながらその彼女と付き合って結婚した友人との絶縁があって、そして、コロナ禍による「当たり前」のゆるやかな死があった。高校の時から仲が良く、大学受験をいっしょに乗り越えたり、近所の公園で金麦一缶でだらだら夜を過ごしたりした友人も、特に理由も告げないまま音信不通になった。「天気の子」のBlu-ray BOX、貸したまま返ってきてないんだけどな。泣いてすがってもあっさり去ってしまうもの、気づいたらその手のひらからこぼれ落ちてしまう何か。終わるときは本当に一瞬だ。

「終わり」を知るとは、不可逆な体験である。一度それを知ったら、二度と知らなかった自分に戻ることはできない。だから少し「はじまり」に対して臆病にもなる。終わりがあると知っていて、それでも僕はそれをはじめるのか。何もかも絶対はないとわかっていても人の気持ちや、自分の未来を信じることはできるのか。たのしいパーティーの次の日の朝は、後片付けをしなくちゃいけない。「大豆田とわ子と三人の元夫」で八作がつぶやいたように「こういう感じってずっと続くわけじゃないでしょうし」というエンディングの予感と不安を抱えたまま、僕たちは次の選択を迫られる。

しかし、一方でなにかが「終わり」を迎えても、世界は変わらず動き続けることを僕は知っている。未知の感染症があっという間に地球を覆い尽くしても、家に引きこもってパソコンに向かって仕事をした。街中が野戦病院と化したニューヨークの惨状や、志村けんの突然の訃報をニュースで聞きながら、友だちとZoomで飲み会をした。案外、電車の時間を気にしなくていいから楽かもね、なんて笑いながら。ゆっくりじわじわと心を殺されながらも、僕たちの時間が止まることはない。いや、立ち止まる時間を与えてくれない。星野源がその年の紅白歌合戦でうたったように「こんな馬鹿な世界になっても まだ動く まだ生きている」この現状で、「僕らずっと独りだと 諦めて進」むしかない。決定的なカタストロフは起こらない。たぶん、PUNPEEが「Operations: Doomsday Love」で描くように隕石が地球を破壊する日にも「水ダウ 世紀末SP」は放送される。アダム・マッケイの「ドント・ルック・アップ」は意地悪なブラックジョークですらない。「終わり」に絶望しても、僕はもうしばらく生きるし、ビッグクランチで宇宙が終焉でも迎えない限り、時間は流れ続ける。


日向坂46にも「終わり」があった。なぜか僕はずっとこの空間だけは永遠で、ネバーランドみたいにいつまでも賑やかで、たのしい時間が流れるものだと思っていた。だけど、当然、そんな考えは幻想だった。渡邉美穂の卒業が、アイドル自体とても刹那的な存在で、日向坂46もその例外ではないことを改めて教えてくれた。僕は、長濱ねるや柿崎芽実、井口眞緒が卒業した後にこの世界を知ったから、なおさらその事実が衝撃だった。そして、もう「終わり」を知ってしまった以上、もとには戻れない。僕の中で日向坂46は決定的に変質してしまった気がする。ゆで卵を冷やしても、もはや生卵にはならないようなものだ。これからずっと「楽しい」の裏には「寂しい」が付きまとう。新たな「出会い」のよろこびは次の「別れ」の予感になる。僕にとっての「永遠」の聖域は、あっさり壊されてしまった。


だけど、幸せな時間に終わりがあるとしたら、苦しい時間にも終わりがあるはずだ。仕事終わりに缶ビールを飲みながら渡邉美穂の卒業セレモニーを見て、僕もいつか彼女のように日向坂46を「卒業」する日が来るのだろうかと思った。まだしばらくは彼女たちに支えてもらいそうですけどね。


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