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「感動のクライマックス」に抵抗して:「あの頃。」感想

いま映画ファンのあいだで最も信頼されている映画監督のひとりが、今泉力哉だ。かねてから邦画ファンのなかでは人気が高かったけど、2019年公開の「愛がなんだ」でその知名度は急上昇した。そのあとの勢いは言うまでもない。「アイネクライネナハトムジーク」「mellow」「his」とバッターボックスに立つたびにホームランを打ってしまう。そんな今泉監督の最新作が先日公開された。松浦亜弥全盛期のゼロ年代初頭、大阪・阿倍野で活動したハロプロオタクたちの青春を描く「あの頃。」である。現在進行系でアイドルにハマっている僕にとって、これほどタイムリーな映画はない。さっそく公開二日目の土曜に映画館で「あの頃。」を鑑賞した。

※ このnoteは「あの頃。」「すばらしき世界」「ミッドナイトスワン」のネタバレを含みます

ゼロ年代前半のハロプロアイドルの人気はすさまじかった。当時僕は小学生で、特にアイドルに興味があったわけではないけれど、それでも映画で主人公の劔がひとめぼれした松浦亜弥の「♡桃色片想い♡」や「Yeah! めっちゃホリディ」は耳にタコができるほど街中やテレビで聴いたし、「LOVEマシーン」や「恋愛レボリューション21」はいまでもそれなりに空でうたえる。ヲタ芸といえば誰でも思い浮かべるであろう「ロマンス」の型も藤本美貴の「ロマンティック 浮かれモード」のコールが元ネタだ。そしてその熱狂的なファンたちは、2ちゃんねるやフラッシュ動画のような若干のアングラ感のあるネットカルチャーとともに、当時の「オタク」イメージの代表格のような存在だった。「あの頃。」はそんなある種の狂気を帯びたアイドル文化のど真ん中で命を燃やしていた青年とおじさんの物語である。

今泉力哉監督というと、恋愛群像劇のイメージが強い。特にオリジナル脚本作品ではその傾向が顕著で、僕が見た作品だと「知らない、ふたり」「パンとバスと2度目のハツコイ」「mellow」はすべて恋する男女の物語だ。彼の作品には毎回「好き」って感情はとてつもなく面倒くさいのだなと思わされる。「やれやれ、また人を好きになってしまった」とでも言いたげな腰の重さと、妙にお気楽な空気感(「好き」と真剣に向き合いつつも、すこし突き放している)が、今泉ワールドには漂っている。個性豊かでとっつきにくい人間たちの感情をていねいかつ優しくすくい取っていく脚本には、まったくアプローチが異なるといえど、恋愛ドラマの名手・坂元裕二と同じエネルギーを感じなくもない。そして、なるべくカメラを動かさず、人物にも近づきすぎず、適切な距離感で被写体を捉える、どこか淡白でそっけない演出は、いい意味で演者をほったらかしている。僕たち観客とスクリーンの中の登場人物のあいだには、ちょうど感染症対策をするコンビニのレジみたいに薄くて見えないビニールの壁があるのだ。その微妙な遠さによって、観客は登場人物への「共感」を拒まれ、「観察者」の立場に押し込められ、自らの経験をもとに、その物語を手元にたぐり寄せるしかなくなる。そして、その真骨頂が独特のリズムによる長回しなのだ。「mellow」における田中圭とともさかりえの痴話喧嘩や、「愛がなんだ」のクライマックスの「鍋焼きうどん」の場面は、まさしく「今泉節」としか言いようがない熱気と体温を帯びていた。最近では「有村架純の撮休」の渡辺大知ゲスト回もすばらしかったと思う。

「あの頃。」は、良くも悪くもこれまでの今泉作品のカラーを踏襲している。特に事前の予想と大きくギャップがあったのは、アイドルや、アイドルを推すことに対して、ドライな距離感を保っている点だ。あの頃はよかったと感傷に浸ることもなければ、生ぬるい現実逃避だったと卑下するわけでもない。「大人になれば卒業もない」や「いまが一番楽しい」という言葉が何度も出てくるように、あくまで劔たちの物語の主眼は「いま」なのである。どっぷり当時のオタクの世界に浸かることを期待して見ると、少々肩透かしを食らうだろう。中盤以降、ハロプロ描写はどんどん背景に後退し、「恋愛研究会。」のメンバーの人生にフォーカスが移っていく。極端なことを言ってしまえば、ハロプロは劔やコズミンが出会い、交わるための共通言語に過ぎないのである。序盤、劔はアイドルオタクとして仲間たちと居心地のいい時間を過ごすことに違和感を抱く。これは挫折の末の逃げでしかない、永遠には続かない夢なのではないか。20年後もハロプロを追いかける自分を想像して、未来に失望するのである。楽しい時間を過ごす中でも去来してしまう、このままでいいのかという焦りや不安は、現に僕自身も感じていることである。オタクたちが時折口にする「いまが一番楽しい」はかならずしも本心からくるものではなく、強がりで言っていることもあるのだろうと思わなくもないのだが、主人公の劔はというと、このアンビバレントな感情にはわりと早い段階で折り合いをつけている。「恋愛研究会。」のメンバーとバンドを組み始めたあたりからそれは如実だった。彼はあくまでアイドルオタクのコミュニティを自分の居場所の一つとしつつも全体重を預けることはせず、片方の足では次の居場所を少しずつ探っている。「花束みたいな恋をした」の麦くんが資本主義に飲まれて文化的生活を放棄したり、「推し、燃ゆ」のあかりが推しの上野真幸に寄りかかり過ぎたあまり、自分で自分の身体を(文字通り)支えられなくなったのとは、大違いだ。そういう意味では、着実に人生のステップを積み上げ、卒業はなくとも節目は抑えていく、「恋愛研究会。」のメンバーは上手に趣味と向き合っていると言える。そこにはリアルな「生活」があるのだ。

一方、「恋愛研究会。」で唯一、アイドルの呪縛から抜け出せなくなっていたのがコズミンである。どうしようもなく小心者で、面倒くさいが愛嬌はある…という複雑極まりない人間を、圧倒的な説得力でもって演じ上げた仲野太賀のパフォーマンスは非の打ち所がなかった。しかし、東京に引っ越し、音楽家の夢へまい進していく劔と対置される形で、末期ガンという運命を背負わされ、アイドルオタクのまま死んでいく彼のすがたを、僕はどうしても最後まで受け止めることができなかった。もちろん、コズミンにはモデルとなった実在の人物がいて、本当にそのような人生を歩むことになった男がいることは知っている。その事実を知った上でも、やはり僕にはコズミンの人生が「作り話」のように見えてしまった。前半はうまく作用していた今泉監督の突き放すような演出も、終盤のダイナミックな展開にはあまり噛み合っていない。その独特の体温の低さが、徐々に熱量を帯びてくる脚本のテンションを拒んでいるようにも思える。そうやってどんどん、僕の気持ちは映画から離れてしまった。

この落胆は、西川美和監督の最新作「すばらしき世界」で、役所広司演じる三上が花をその手に掴んだまま死んでいくラストを見たときの感情に似ている。あるいは、「ミッドナイトスワン」の主人公・凪渚(草なぎ剛)が、性転換手術の失敗で、ぼろぼろになりながら徐々に衰弱するさまが描かれるときに感じた「またか」という諦めに重ねてもいいかもしれない。最後に死が訪れる映画がすべて悪いとは言わないけれど、主人公のうつくしい思い出や観客の感動のために、つまり、物語のために人物が死んでしまったと感じる作品は、どうしても好きになれない。僕は(あくまで個人的にだが)それをコズミンに感じてしまったのである。彼は死ななくてよかった。世界から「弾かれた」人間が、その死をもって映画の終わりにフェードアウトしていく展開は、なんとなく「作り話」に見えてしまう。だって、ムショ帰りのおじさんも、差別的な視線にさらされるセクシュアル・マイノリティも、人生足踏みしてるアイドルオタクも、現に世の中にたくさんいて、壮絶な死を迎えることもなく、淡々と日常を送っているのだから。

「すばらしき世界」や「ミッドナイトスワン」はフィクションだけれど、「あの頃。」には「コツリさん」というモデルになった人物がいる。僕がいくら「作り話」っぽいと言っても、現実にコズミンと同じ苦しみを味わった人が存在するのだ。僕は、社会との摩擦を抱えた人間が、その肌にやけどの跡を残しながらも、歯を食いしばって生きていく映画が見たい。この映画の主人公は劔だから、ある意味で希望はかなっている。でも、やっぱり僕はコズミンにも生きていてほしかった。生きて「感動のクライマックス」に抗ってほしかったのだ。僕がこの映画にどうにももやもやしてしまうのは、これが「作り話」ではないからなのかもしれない。

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